第18筆 永久の観測者に朝を〈特別編〉
不穏にも空が、黒雲をうねらせながら鳴っていた。
いつも通りに早起きして、重力二百倍に変えた異空間で太陽系惑星を巡る各種筋トレ、ランニング、素振りに新技の開発。
そしてスケッチ。
カキアから「新技の威力で空間が裂けた」と文句言われたが、気にせず継続した。
いつもの修行のルーティンを終え、俺は大好きな和食を修行が終わるまで封印。
朝食のサバサンド、サラダ、ジェラートに手をつけていた。
塩バターの香ばしさとサバの旨味が口いっぱい頬張った時。
「──朝焼けの空が、妙に赤い」
そんな、些細な違和感を感じた直後だった。
不意に背後から、微笑むような声が降ってくる。
「ふふ⋯⋯お兄さま」
聞き覚えのある、澄んだ鈴のような声。ウィズムだ。振り向けば、彼女は薄い光の粒子に包まれながら、俺に手を差し伸べていた。
誘われるままに手を取ると、視界がぐるりと反転する。辿り着いたのは、どこまでも透き通った青の空間。
そこは彩幻映像で再現された「原初の海」だった。
海面はただの水ではない。無数の数式、記号、プログラム言語が波の形を取ってうごめいている。
解析不能。視るだけで頭が痛くなる。
そして──。
「っぐ、ぐあああああっ!!!」
突如、海が大津波となって襲いかかり、俺の身体は情報の奔流に呑まれていった。
耳が裂け、脳が焼ける。言葉では到底表現できない膨大な「知」が、脳を直接穿ってくる。
今まで修得してきた全ての修行内容が一瞬で上書きほどの衝撃。
情報の海に沈みながら、俺はただ叫んだ。
出口を探した。だがどこにもない。
一週間が過ぎ、自我が崩れ始める。
十日目には笑いながら意味不明な記号を呟く自分に気づき、二十日後、俺はもう“俺”じゃなかった。
(もう、いいか⋯⋯)
心が壊れ、顔に浮かぶのは微笑みだけになった頃──
ひとつの“情報”が脳に直接流れ込む。
〈⋯⋯わたし、ずっと見送るだけだったのです。誰も、帰ってこなかった。わたしは外に出られない。誰か、わたしを連れ出して⋯⋯お兄さま〉
それはウィズムの記憶。
二万年を超える彼女の観測の日々。無数の“イカイビト”たちが旅立ち、そして、還らなかった。
永遠のお留守番。期待と絶望の繰り返し。
⋯⋯泣いていた。ずっと、心の奥で。
(ウィズム⋯⋯)
俺の奥底にある“太陽”が燃え上がった。あまねく闇を照らす、太陽の神性。まずは彼女を救わなければ、誰も救えない。
その瞬間、俺の脳が進化した。
右脳と左脳が二つに分かれ、合計四つの脳領域が並列に機能し始める。
視覚、聴覚、論理、感情──すべてを処理しながら、俺は情報の海を泳ぎ、灯台のような存在を目指した。
灯台の頂にある観測部屋。そこに佇む、黒いキューブ。
「これがボクの本体なのです。⋯⋯とっても、醜いでしょう?」
データの鎖に繋がれ、鳥籠に閉じ込められたその姿。本体は黒いキューブだったのか。
「誰がこんなことを?」
「⋯⋯お母さま、です。宇宙の創造主、コスモ。すべては彼女の計画なのです」
その名前に、胸がざわついた。俺は拳を握る。ウィズムの声が震えていた。
「ボクを⋯⋯異世界エリュトリオンに、連れて行って⋯⋯!」
俺の右手が、灼熱に包まれる。燃えるような覚醒の中、技が生まれた。
「〘白蒼日焰〙ッ──!」
太陽の中心温度──約一五〇〇万度の再現。
蒼白い炎に包まれた右腕を振るい、鎖を、鳥籠を、そして空間そのものを、焼き尽くす。
データは崩れ、溶け、やがて優しい光となって四散していった。
キューブが光を帯びる。ウィズムの姿が再び現れ、泣きながら抱きついてくる。
すり抜けないように、絆を確かめるように。
右肩に温かい感触と漆黒の光がウィズムの指から注がれた。
(今回の“知の試練”、右肩を触ったこと、固有色の光持ち⋯⋯すべて繋がったぞ!)
俺は、彼女の真意を理解した。
「ウィズムが、“隠された者”だったんだろ?」
「はい! ボクこそ、隠された者──書の〈創印〉を与える者です。ほら、よく見てください」
原初と終焉の循環と、智慧が巡る漆黒の書は、〈創印〉を見事に円形へとまとめ、全体の印象を引き締めていた。
「真ん中にぽっかり空いた余白は⋯⋯やはり、“あのお方”を越えるしか⋯⋯ないよな」
その瞬間──心を読んだかのように、空から女の声が降ってきた。
「雅臣くん、あたくしを探しているのかしら? でもね、後もう一歩だわ」
それは、“あのお方”こと、宇宙の創造主アステリュア=コスモ。
次元を超えて響くその声に、荒野の地平が現れた。
そこに立つのは、俺がこれまで師事してきた十柱の神々。
「──これより最終試練を開始する。三週間以内に全員から“鍵”を奪えなければ、お前の記憶は消され、転生させられる。そこから先は“主”の気分次第だ」
剣神の重い声が響く。
全身に緊張が走る。
それでも──
俺は、負けられない。
(待ってろよ、コスモ。ウィズムと一緒に、必ず会いに行くから)
すぐ隣、猫の姿になったカキアが「シャウウゥゥ!」と鳴く。
背中のファスナーがパカリと開き、愛刀・癖臨天胤麿が、怒るような激しい紫雷を纏い、射出された。
その横では、ウィズムが光線を放ちながら、微笑んでいた。
(さあ──この“地獄”を乗り越えて、あの方に、辿り着くんだ)




