記憶に残る景色と山菜蕎麦
長男家族に誘われて紅葉狩りに行って来た。
行きは高速道路を使ったが、帰りは同じように紅葉狩りに来た観光客の車で高速道路が渋滞していると知り、山越えのルートで帰宅する事を選択。
山越えと言っても平成の半ばに山の裾野に長いトンネルが出来て、殆ど平坦な道。
トンネルが出来る前は山越えだけで15〜6キロ以上の距離があったのが、トンネルのお陰で今は半分以下の7キロ程に短縮されている。
4キロ程の長さのあるトンネルに入った。
トンネルの次から次に過ぎ去るトンネル内を照らす黄色い照明の灯りを見つめていると、懐かしい青春時代の事が頭に蘇って来る。
60年前私は中学3年生だった。
中学を卒業したら高校に進学したり就職したりしてバラバラになり、出会える機会が少なくなる。
だから青春の思い出を作ろうと、5月の連休に仲の良い男女7人で山の山頂にあったドライブインを目標に、自転車で出かけた。
今の自転車と違い、あの頃の自転車は頑丈なだけが取り柄の重い無骨な物。
その自転車の荷台に座布団をくくりつけ2人乗りした4台の自転車で、舗装される前の砂利道の長い坂をヒーヒー言いながら登ったものだ。
山頂にたどり着いた私たちは皆んなで肩を叩きあって、山頂まで登りきった事を讃え合った。
今だったら記念写真を撮るところだが、あの頃の中学生でカメラを持っている者などいなかったからな。
その後、山頂にあったドライブインで昼食を摂る。
仲間の1人、高度成長期で羽振りの良かった土建屋の息子の友人が、皆んなにドライブインのメニューの中にあった山菜蕎麦を奢ってくれた。
不味くは無かったが美味くも無かった蕎麦だったけど、その後に見た景色とセットになって60年経った今でも鮮明に思い出す。
蕎麦を食べ終えた後、見晴らしの良いドライブインの駐車場から目の前に広がる景色を眺める。
山の直ぐ側の裾野には、私たちが通って来た町から此処まで繋がる道とその両脇に広がる田圃、それに田圃の所々に建つ茅葺き屋根の家々。
その先には私たちが住んでいた町の町並みが広がる。
田舎の町だった事で艦載機の襲撃はあったらしいがB-29の絨毯爆撃は免れた、そのお陰で戦前に建てられた町役場や信用金庫などの建物が多数残っていて、その周りに木造の2階建てや平屋の家々が軒を重ねていた。
そのまた先には此の山も連なる山脈から流れ出た水が流れる大きな川と、田圃や此方の山より可也低い山々と森林か広がる。
そしてそのまた先の彼方には、太陽光を反射してキラキラと輝く青い海が何処までも何処までも広がっていた。
多少美化されてるとは思うが、今だに記憶の底からあの日見た景色が蘇って来るのだ。
そのあと社会人になってからも数度、会社の営業車や自家用車で山頂のドライブインに立ち寄ったが、あの記憶に残る景色は此処に来れば何時でも見られるんだと思い込み、ドライブインに立ち寄っても休息やトイレを借りるだけで景色を見ることは無かった。
そうして月日が経った20年程前、ドライブインに立ち寄ろうとしたら何時の間にかトンネルが出来ていて、山頂に繋がる道は土台をコンクリート固めたガードレールで閉鎖されていたのだ。
だからあの時に見た景色は記憶の中にしか残って無い。
10年前長く勤めていた会社を定年退職したあとアルバイトとして雇って頂けた近所のコンビニで、親しくなった高校生のバイク好きの同僚が閉鎖された道にオフロードバイクで侵入し、山頂まで行って来たと教えてくれた。
彼によれば道は残ってはいるけど補修されて無いので穴だらけで、オフロードバイクやトライアルバイクじゃ無ければ山頂まで辿り着く事は不可能らしい。
彼が撮って来たスマホの画像を見せてもらう。
だけどそこに映っていたのは記憶に残る景色とは全く違う物だった。
山の裾野の茅葺き屋根の家は1軒も無くなり全てトタン屋根や瓦屋根に変わり、市になった生まれ故郷の町並みは区画整理で昔の面影は残されておらず、戦前の古い建物は取り壊されて高いビルディングに変わり軒を重ねていた住宅地もマンションが林立している状態。
川向こうの田圃や森林は無くなり山々は削られ住宅街に代わっている。
変わって無いのは彼方に微かに見える青い海だけだった。
そんな事を頭に思い浮かべていたら身体を揺すられる。
私の身体を揺する孫が揺すりながら声を掛けて来た。
「ネーお爺ちゃん、お蕎麦で良いでしょう?」
「え? 何の事だい?」
助手席の義理の娘が説明してくれる。
「夕食は外食にするって言ったら此の子、それなら蕎麦が食べたいって言い出したんです」
「あぁーそう言う事か、良いとも良いとも、私も山菜蕎麦が食べたいと思ってた所だ」
私は隣に座る孫の頭を撫でながらそう返事を返すのだった。