第286話 マリアナ・ミラー・イスカル
マリアの訓練が、五日ほどが経った頃。
「先生。どうですか!」
「ええ。いいですよ。基本が出来ています」
驚くほどにマリアは呑み込みが早かった。
剣術が好きだという情熱が、彼女の中で芽生えていき、才能が開花し始めていた。
「先生。ほんと! じゃあ、ねえねえ・・・レベッカさん。上手くなってるの!」
フュンに聞いてからレベッカに聞く。
これがいつものパターンだった。
「そうだな。まあまあだ」
「なんだぁ。あたし、まあまあなんだ・・・」
あまり良い褒め言葉じゃないので、少しがっかりした。
「いえいえ。まあまあじゃありませんよ。ちょっとマリアさん来てください」
「はい先生」
フュンのそばに来た。
「いいですか。マリアさん」
「はい」
「レベッカはね。剣の事になると厳しいですから、まあまあでも褒め言葉なんですよ」
「そうなの」
「ええ。彼女の部下たちはもっと罵倒されていますから。まあまあなんて言葉が出てきたら、儲けものです。とっても褒められています」
「そうなんだ・・・ダンさんも色々言われているの?」
マリアは、フュンの近くにいるダンを見た。
色々と指摘されてしまうレベッカの部下の一人である。
「え。いや・・その・・・」
『そうです』とキッパリと答えたい。
しかし、すぐそこにレベッカがいるので答える事が出来なかった。
なんか睨まれている気もする。
「ふ~ん。じゃあ、あたし褒められているんだ」
「ええ。そうですよ。でも、マリアさん」
「はい」
「基本を抑えましょう。基礎を十ずつやるのです」
「基礎を?」
「ええ。縦。横。斜め。この基本の斬り方だけは、丁寧にやるのです。スパスパ動いてやるのではなく、ゆっくり動作を確認しながら斬るのです」
「・・ゆっくり・・・なんで?」
「早くやると、テキトーになる可能性があります。それと体に動きを染みつかせるのには、丁寧にやる事が大切です。一つを大切にしていく作業。これが重要です。いいですね」
「うん」
元気な返事だった。
「イイ子ですね。これで毎日一人でも出来るようになります」
「うん。やる」
「ええ。ええ。立派な剣士になれそうですね。よかったですね」
「うん」
フュンが笑顔で言うと、マリアも笑顔で応えてくれた。
◇
この後に事件が起きた。
「どいてください!」
大声をあげて修練所にやって来たのは、ティアラを着けた長い髪の女性だった。
「マリア! なぜこんなところに来ているのです。あなたは、こんなところに来てはいけません」
「お。お母様だ・・」
フュンの後ろに隠れた。
「ちょ・・あなたどきなさいよ。誰ですか。あなたは! うちの子に、こんな事をさせた人ですか!」
フュンの前にやってきた女性は、もの凄い剣幕であった。
捲し立てているので、言葉の展開が早い。
「え? 僕の事ですか」
「あなたしかいないでしょ。私の目の前には!」
「そうですか。ところで、あなたはどなたです?」
相手を知っていても、フュンはしらを切る。
堂々とした態度だった。
「な?」
「いや、話しかけてきた方がお名前をどうぞ。それが礼儀ですから」
相手が皇帝の妻。
それは、先程のマリアの会話で分かる事。
しかし、フュンはここで一歩も引かない。
人としての在り方をマリアに見せていた。
名を知りたければ、名を先に言え。
人としての事である。
政治であれば少しまずい。大国の妻と小国の王であるからだ。
「あなたが言いなさい。私はこの国で・・・」
その言葉を言えば、外交問題に発展するので、フュンはそこを言わせなかった。
言葉を被せていく。
「いえいえ。ここはあなたがどうぞ。お名前をおっしゃられないのなら、僕はこのままマリアさんの指導に入ります」
「な!?」
生まれてこの方、このような対応をされた事がない。
女性は怒り散らかす。
「無礼な男。打ち首にします。陛下に言います」
「ええ。どうぞ。僕は構いません。それで陛下が僕を殺すような人であったら、僕の見る目が無かったと思うだけですね。残念です。その程度の人間だったらね」
ふてぶてしい態度で言い返すフュンは、女性の口撃に引かないのである。
「は!? なにを言って・・」
「陛下はこんな事で僕を打ち首にしません。あなたは旦那さんの本質を理解していますか。彼は寛大な人・・・偉大な皇帝陛下です。国民にとって恐ろしい人じゃありませんよ。他国にとって恐ろしい皇帝だっただけです。あなたはそこを勘違いしています」
ジャックスという男は、冷酷で残酷で恐ろしい。
他国を破壊し尽くした殲滅王だ。
敵を支配し、国を掌握した手腕は、少々強引でもあった。
しかしフュンはその行動の裏にある考えを理解している。
そうしなければ、敵で溢れるから殲滅をした。
決断せねばならない時があったから、やっただけ。
誰が好き好んで皆殺しにしてまで戦うというのだ。
自分も。エイナルフも。ルイスも。
そういう悩みを持ちながら前へと進んできた。
だから個人の想いと、皇帝という地位は、別である。
ジャックスという男の本質は、冷静で公平。
これがフュンの抱くジャックスという一人の人間の印象なのだ。
「こ・・・この男。誰ですか。あなたは!」
「だから、あなたからお名前をどうぞ。僕からは絶対に名乗りません。それが礼儀だからです」
「ぐっ・・・こんな男・・・マリア! 早くこちらに来なさい。こんな男と一緒にいてはいけません。早くこちらに」
「・・・・」
マリアがここまで何も言わず、怯えた表情で黙る。
彼女と出会ってから初めての事だった。
横柄でも元気でも、マリアはとにかく何らかの返事を返す子なのに、この時だけは黙ったのだ。
「マリア。こちらに来なさい」
「・・・い、嫌です。まだ勉強の時間・・・・です・・・・お母様・・・」
いつもの元気な彼女じゃない。
何かに怯える声だった。
「勉強? こんな場所は勉強の場所じゃありません。あなたは淑女として、皇女へと成長せねばなりません。それなのにこんなむさくるしい場所に・・・汗をかきに来るなど。信じられません。そんなのは下々の者がする事。あなたは高貴な皇女ですよ」
女性は首を振った。
修練所は、兵士たちが心身を鍛える場所である。
国家の為に強くなろうとする場所だ。
そこを侮辱するのはいけない。
「駄目です!」
フュンはここぞという所で強く出た。
この場の侮辱だけは許せない。
「下々だと言いましたね!? いいですか。上の立場にいるあなたが、そんな言葉を使ってはいけません。ここの兵士さんたちがいなければ、国は維持できないのですよ。あなたがいる国が維持できなくなれば、あなたが今いる地位は無意味だ。ただの無能な女が生まれるだけだ」
「な!?・・・ん・・ですって」
誰にも怒られたことのない姫君だから、フュンの強い言葉に上手く言い返せずにいた。
「ここは、自分の限界を超えて、国家を守るために、修練を繰り返す場所です。むさくるしいなんて侮辱はいけません。皆、ここで命を懸ける。その思いを作り上げる大切な場所だ。大事な仲間たちと共にです」
フュンのこの言葉に、周りにいた兵士たちが感銘を受ける。
自分たちの事を思って言ってくれていると。
「それに、ここも勉強の場所でもあります。あなたが思う勉強は、あなたがしてほしい事でしょう。それにあなたがしてほしい勉強は、今のこの子には必要ありません」
あなたの勉強は、いつでもできる勉強なのだ。
フュンがやろうとしている指導は今にしか出来ない指導である。
大切な子供時代の指導は、今この時にしか出来ないのだ。
大人になってからでは遅い。
心の教育は子供のうちにせねばならない。
ズィーベを生み出す恐れがあるからだ。
「な、なんですって。あなた! いい加減にしなさい。この子の親でもないでしょうに」
「ええ。親じゃありません。でも、一人の大人として、この子を導いてもいいでしょう。子は親だけで育つわけじゃない。周りの大人にも支えられて成長するのです! そして、子供も大人も、両方が育っていく。それが子育てだ」
母が早くに亡くなっているから、フュンは親から指導を受けた事がほとんどない。
でも周りの大人たちが、一生懸命自分を育ててくれた。
だから、彼らと同じように自分も先生として指導しようとしているのだ。
「な!? なんですか。本当に。この男は・・・失礼な」
自分と対峙して、一歩も引かない人間を初めて見た。
苛立ちも溢れる。
「もういいです。いきます」
「あ。せ、先生」
女性は、マリアの手を強引に引っ張って、連れていく。
「待ちなさい」
フュンは強硬手段だけは取らなかった。
女性の手を叩いて、彼女をこちらに引き寄せる事も可能だったが、それだけはしなかった。
「聞きません。あなたのような減らず口の男。ここから消えてしまいなさい。ほら、来なさい。もっと速く歩きなさいマリア」
「せ、先生・・・先生・・・あたし」
振り向いたマリアの不安そうな顔を見て、フュンは彼女に話す。
「マリアさん! 泣くのはやめなさい。あなたは堂々としていなさい。何も悪くありません」
「え?・・・」
フュンはこの時だけは厳しかった。
泣き喚くことを許さなかった。
なぜなら、何も悪くない時に泣くのが良くないからだ。
何も悪くないのなら、堂々としているべきである。
フュンの持論だ。
「ジタバタしない。僕はあなたの先生ですよ。どんな事があってもあなたの先生でいます。その人に拒絶されてもです」
「・・・うん」
「ですから待っていなさい。僕を信じなさい」
「・・・!?」
「いいですね」
「は、はい。先生」
その言葉にマリアは驚きながら喜び、母親の方は更に怒りだす。
後ろを少しだけ見て言う。
「待つ? あなたとはもう縁を切るのです。いいから、マリアに話しかけないで頂戴」
という彼女の言葉には反応を示さずに、フュンは影の中のサブロウを小声で呼ぶ。
「サブロウ」
「なんぞ」
「後をつけなさい。部屋に侵入しても良し。どこかに監禁される可能性もありますからね。自分の部屋だったらいいのですがね・・・」
「わかったぞ。後でフュンと合流ぞな」
「そうです。知らせをお願いします」
「任されたぞ」
サブロウが影のまま追いかけていった。
「フュン様。あれでよろしいので。こちらに引き寄せていた方が」
ダンが聞いてきた。
「いえ。ここはこれでいいです。あれは強引に話を進めるとまずいですね。あちらの女性は感情が激しい。それと、自分の理想を子供に押し付けている。彼女を立派な皇女にするために、必死過ぎますね。そこが駄目だ」
まるで昔のカミラのようだ。
だから、感情の逆なでをしてはいけない。
様々な人を見てきた事が経験となり、フュンの経験は勘へ昇華されたのだ。
完璧な対応だった。
「なるほど」
ダンが納得した。
「ええ。あの年代ですよ。まだいらない。皇女の勉強をするにも今は少しでいい。マナーくらいでいいんです。あと四年くらいはいらない。この四年の間に、他の事をさせたいんですよ。だから、僕はやりますよ」
「え? な、何をでしょうか?」
「あれはどうせね。マリアさんを閉じ込めるでしょうから。ここは僕が出て行きます。ふっ。それにしても彼女・・・あれで僕が大人しく引っ込むと思っているのでしょうね。大間違いだぞ。僕はこういう時だけは諦めが悪いんだ。いいでしょう。戦いますよ。マリアナ・ミラー・イスカル!」
マリアナ・ミラー・イスカル。
イスカル大陸の最後のお姫様。
何としてでも自分の娘を皇女として国や皇帝に認めさせる。
地位をあげる事に必死だった。
その事の為だけに、詰め込み教育を徹底していた女性。
そこにマリアの意思は関係がない。
彼女が時折、怯えた表情をしていたのも、勉強をしない事をくどくど怒られたからだ。
それが勉強嫌いになった原因でもある。
彼女はマリアに学習の楽しさを教えていなかったのである。
だから、フュンは、彼女の束縛からマリアを救おうと動き出す。




