第235話 アルミース密約
その日の夜。
割り当てられた宿の部屋にいて、ジェシカは鏡の前に座った。
フュンから貰った容器を眺める。
「これ・・・シャンプー? それと、デザインが少しだけ違うから・・・こっちがリンス?」
自分の髪質が嫌い。
それをなぜ知っているの。
ジェシカは疑問ばかりが思い浮かぶ。
でも、試して欲しいとの言葉を少しだけ信用してみた。
「これで、洗ってみればいいの?」
お風呂に入って、髪を洗う。
変な男の意見に素直に従ってみる事にしたのだ。
すると・・・。
信じられないくらいに浸透しているような気がする。
髪に潤いがあるような気がする。
でも、洗ったばかりだから。それは以前もあった現象。
翌日には元の状態になってばかりだから、期待をしてはいけない。
ジェシカはお風呂上りでも鏡の前に座った。
「それで、これに満足したら、交渉を? これを作れるのは僕だけ? アーリア大陸でしか作れない? はっ。それがどうしたのよ。こっちの大陸でも、私の髪に合うのはなかったのよ。原始人が使うシャンプーで解決するなら・・・私は苦労していないわ」
ジェシカは、こんな文句を言って眠りについたらしい。
翌日・・・。
◇
次の日の朝。
寝ていてもフュンの耳は、音を捉えていた。
上の階から聞こえる悲鳴は、フュンにしか聞こえない。
「これで有利になるか」
ベッドから起き上がったフュンは、そう言った。
「さあ、ここに来るでしょ。待ち切れなかったらね」
フュンの予測は当たっていた。
上の階の扉が開き、廊下を走る音が聞こえ、階段を降りる音がどかどかと鳴る。
その音の出から行って急いでいる。
そして、フュンの部屋の扉がガンガンと叩かれる。
「ちょっと。あなた。ちょっと」
「はいはい」
「ここを開けて!」
「はいはい。どうぞ」
フュン軽快にドアを開けると、興奮気味のジェシカがいた。
「こ、これ・・・なにこれ」
「え。シャンプーですけど」
はぐらかすが、演技が上手い。
フュンは、自然体であった。
「それは分かるわよ。ど、どうして。これ。こここれ???」
動揺をしすぎて、出している言葉が震えている。
しかし、フュンは相手の言いたい事を理解して、話を返した。
「これは、薬用シャンプーですよ」
「薬用!?」
「はい。それは、アーリアでしか取れない特殊な薬草で作れる。シャンプーなんですね」
「な。だ、だからアーリア大陸でしかって言ったのね」
「ええ。そうですよ。特殊なんですよ。その薬草。貴重なんですよ」
大嘘である。
その草はただの雑草だ。
サナリアに行ったら、何処にでも生えている草で、何だったら、簡単に靴に踏まれているくらいに誰も気付かない草である。
ただし生命力が強い草であるので踏まれてもへっちゃらである。
でもそうなると傷薬などには使用できない代物だ。
「そ、そうなの」
「ええ。そうです。それで、僕しかその調合。配合比率を知らないのですよ」
「あ・・・な、なるほど。あなただけが作れるってのは・・・」
「はい。そういうことですね」
これも嘘である。
でも半分は本当だ。
これ自体を作ったのがフュンだからである。
「で、どうでした」
「いや、どうでしたって。これ見てよ」
驚きの艶。
まとまりのある髪になって、結わえてもバラバラにならずにまとまってくれる。
そこに喜びを感じるジェシカであった。
「ええ。綺麗ですね」
フュンは普通に褒めた。
「そうでしょ。たった一日で、私の髪に潤いが・・・・し、信じられない。いつも、ボサボサになるのに」
「そうなんですか。よかったですか? そのシャンプー」
「当然よ。これ欲しいわ」
「え? いや、それはですね。なかなか難しいかと思いますよ。かなり貴重なものですし。僕ら、まだ停戦してませんしね」
これも嘘である。
そんなに大層な物でもなく、貴重な物でもありません。
今や、アーリア中。どこへ行っても、売っている代物。
一般人でも買えるくらいのお値段で、最もポピュラーな物である。
「・・・・」
黙ったことで、フュンが有利で間違いなし。
フュンは、今の彼女なら、交渉を完全に有利に持っていけると確信した。
「ほら、同盟国とかだったらね。あなたに、簡単にポンとあげられるんですけどね」
「ど、同盟国・・・それは・・・」
それは出来ない事を知っている。
フュンは、そちらの事情をよく分かっているのだ。
だから展開すべき作戦がある。
「ですから、内密に話したい。いいでしょうか。もう一度あなたと僕とで、会談をしたい」
「は? はい??」
「ええ。もう一度。下の会議室みたいなところで、話し合いをしましょう」
「わ。わかりました・・・・いつ」
早く会談をしたい。
それがジェシカの本音だった。
「今でもいいですよ。その前に、部屋着ですよ? 僕もですけど」
「あ? しまったわ。着替えます」
「ええ。じゃあ、一時間後にいきますね」
「わかりました。では」
と言って部屋に戻ったのを見届けた後。
フュンの隣にギルバーンが現れた。
「勝ちだね。これは。僕がこの次の交渉を間違えなければ・・・」
「そうですね」
「ん。ギル。来てましたか」
「ええ。なんだか騒がしいんで、隣の部屋から来ましたよ。念のために王の影に入ってました」
「そうですか。いや、彼女。よほど髪が嫌だったんですね」
タツロウの情報にあったが、彼女がそこまで悩んでいたとは思っていなかった。
でも念のためにフュンはジェシカに吹っ掛けてみたのである。
交渉の一つの手段としては有効だったようだ。
「そうみたいですね。どうでもいい情報かと思って、読み飛ばしてましたけどね。タツロウ殿の報告書を見た時には・・・」
「いやいや、それは違うでしょ。重要事項でしたよ。駄目ですよ。女性の事はちゃんと見なきゃ」
「え?」
「そんな事言ってたら、メイファに怒られますよ。好きな事。嫌な事。大切な事。これらは、絶対に知っておかなければ・・・後が大変です」
フュンは、大切なシルヴィアの事を思い浮かべながら言っていた。
「・・・ああ、怖いですよ。あいつは」
「ほら、そんな事言っていたらね。また怒られちゃうんですから。ジルと同じようにね」
「はい。すみません」
「まったく、ギルの唯一の弱点ですね。メイファに弱いんですね」
「はい・・・無理ですね。強いですから、あれは・・・」
フュンとギルバーンは作戦が成功したと思った。
◇
二人きりの会談。
と思っているのはジェシカだけ。
実際はフュンの背後にギルバーンがいる。
兵士も五と言っていたのだ。
実はここに双子もいて、ゼファーの裏に潜んでいるので、本当の所は八がいたのだ。
最初からフュンは、相手よりも上を取っていた。
そして今回の交渉の切り札はサナリア草のシャンプーとリンス。
これで、相手の心に、こちらを信用させる良い効果を生んで、交渉を有利にするきっかけとする。
あとはフュンの口。
交渉次第となる。
彼女の唯一の弱点というべき髪。
これに目を付けたのがフュン。
女性の味方であるフュンは、こういう事に慣れている。
メイフィアでも接客業をしてきて、お悩み相談をよくしているので、女性の気持ちに寄り添うのが得意。
そして今回やや強引に贈り物をしたのにも訳がある。
それは、彼女自体の気持ちを揺さぶるためだ。
髪に不満がある事は知っていたので、わざと挑発していき、気持ちを揺れ動かしてからの、トドメのような実績でカバーする。
サナリア草のシャンプーとリンスは、薬用なのだ。
保湿などに抜群の効果を発揮する。
フュンの人生。
全てが無駄じゃない。
ここに来ての幼い頃からの得意分野が役に立つとは、誰が思う事なのだろうか。
本人だって思いも寄らない。
フュンとジェシカの話し合いが始まった。
ここからは駆け引きが必須の戦いとなるが、信用を少し得られたので、フュンが有利に事を進められる。
「じゃあ、早速ですね。僕は、あなた個人と交渉がしたい」
「え。私と・・・ですか」
国じゃなく、あなた。
最初のフュンの言葉に驚く。
「はい。あなただけとです。そちらの国とじゃありません。なので、レガイア王国の立場はお忘れください。僕と密約を結んでほしいです」
「密約ですか。なにを結べば・・・」
「個別同盟です」
「ど、同盟!?」
「はい。僕、フュン・ロベルト・アーリアと、ジェシカ・イバンクさん。この二人での個別同盟でどうでしょう」
「個別同盟・・・それはどういう意味で」
フュンの誘導が始まった。
「正直な話をします。僕は今回。平和条約なんて無理だと思っています。そちらはこちらを馬鹿にしていますでしょ」
「・・・・」
答えられないのがまた彼女がフュンを信頼し始めている証だった。
馬鹿にしていますわ。
と一言言えばいいだけなのだ。
実際そうなのだから。
フュンの人心掌握術のせいで、失礼のないようにしなければとジェシカが慎重になったのだ。
「ええ。大丈夫。失礼よりも、正直で良いです。僕は正直な人が好きなんで、言いたい事を言ってください」
「わ。わかりましたわ。そのとおりです。こちらはそちらを馬鹿にしています。完全に」
「そうでしょう。でもあなたもお気づきでしょうけど。文明レベルが違っても、こちらに僕らが来ているのです。しかも四万も捕まえている。それがどういう事を意味するのか。深く考えています?」
「ええ。私は首都にいた時から考えていました。薄々ですが、そちらが強いのだとね。だから交渉しなさいとは進言したのですけども・・・王宮にいる私以外の人間たちが、私と同じように考えるかは知りません」
「そうですか」
フュンは、今の発言は正直だと思った。
目も真っ直ぐ見てきているので、十中八九本当のことだと思う。
「僕らは、あなたたちを倒す術をもっています。このまま一気に進軍して、大陸の半分を支配してもいいです」
「半分!?」
「ええ。大体、そこまでは、兵数があまりない。このワルベントの南側には兵があまりない。それに防衛設備も少ない。だから、僕らが一気に進軍すれば勝てます」
ここは大袈裟なくらいに言う。
交渉に、ハッタリも重要なのだ。
実際に出来なくても強く言わないといけない。
「こちらには、銃がありますよ」
「はい。しかしこちらには武装があります。銃を無効化するね」
「な!?・・・・いや、それくらい強くなければ・・・四万の兵を確保するなど。やはりできない?」
アーリア側に強さが無ければ、ワルベント側だって負けなかったはず。
こちらだって、弱い者に負けるはずがないのだ。
ジェシカは、自分たちの実力から考えて、フュンたちの強さを計算した。
それで、自分たちが思ったよりも敵が強いのかもしれないと思い込んでしまった。
ここで、フュンの口のおかげで実際と想像が乖離していく。
「そうです。僕らが強くなければ、そんなこと出来ないでしょ。信じてもらえます?」
「・・・はい。信じましょう」
フュンは、この女性は聡明だと思った。
話の展開をすぐに理解してくる女性だからだ。
「そこで、僕はですね。停戦が欲しい。それをすると、僕ってそちらに呼ばれますよね」
「・・・おそらくは・・・そうでしょう。しかし、その時、あなた様は危険かと」
「ええ。わかっています。あなたと僕が、ここで良い話し合いをしてもね。しっかり停戦を決めたとしても、その先にいる。ジャルマ。サイリン。これらが邪魔という事でしょ」
「はい」
ここで停戦を決めたとしても、ひっくり返されるのは目に見えている。
フュンは先を読んで、ジェシカに話しかけていた。
「あなたの勅書。その効果はあなたにのみ。僕には関係がない。つまり、交渉がここで上手くいっても、関係がない。僕とあなたとではよくても、僕と、そちらの国とではまとまらない可能性が出てくるのでしょ?」
「そのとおりです。私のみの安全が図られる。それが、このジャルマが出した勅書の効果だと思います」
ジェシカが勅書をもらった理由。
それは、文句を言われないためだけじゃなくて、交渉が上手くいかずとも命の保証をしてもらうための証としてもらったのだ。
「はい。ですから僕はあなたと交渉がしたい」
「私とですか」
「ええ。相互不可侵。これを僕とあなたで結びたい」
「え?」
「僕は、今。ここであなたと停戦についてで結ぼうと思います。アーリア・レガイア間の停戦です」
「はい。停戦・・・ですね。ここでは結べますが。しかし先程・・・」
ここでは結べるには結べる。
でもそれは失敗に終わるのが目に見えていた。
だからジェシカは不安げに返事をした。
「それでですね。停戦をここで決めると。僕がたぶん、そちらの首都にいくことになるでしょう。その際に、ジャルマが妨害をしてくる。この可能性が一番高い。いや、確実と言ってもいい程です。なので、ジャルマが交渉の邪魔をして決裂した場合。僕は牙を向きます。この国を完全に破壊する方向に持っていきますので・・・なので。あなたとの相互不可侵条約を結びたい」
「え。破壊!?」
「そうです。僕は破壊します。レガイア王国は、僕が愛する国を踏みにじろうとしてきました。それだけでも、僕は怒っています。ですが、その停戦すらも反故にする気なら、僕も、ここを踏みにじります。草木も生えないほどにです!」
一瞬だけ、フュンの顔が恐ろしい物に代わった気がした。
覚悟のある顔をしていた。
「それで、相互不可侵としてですね。僕はそのままシャッカルを保有するので、あなたの領土ってここもですか?」
「そうです。シャッカルから見ると北西。そこら一帯が私の領土です」
「そうですか。では、シャッカルの北東は?」
「サイリンの領土です」
「そうなっていますか。わかりました。だからこそ、僕は結びたいですね。もし攻撃が来るなら北東からだけ。そうなればシャッカルを防衛するのに楽になる」
「・・・まさか。大混乱とは・・・」
大戦乱の時代を呼び起こすこと。
ジェシカはフュンの言葉の意味に気付いた。
「ええ。この国を陥れます。ただし、ジャルマが邪魔をしてきた場合だけですよ。普通に停戦条約を結べるならば、僕はその作戦を取りません」
「なるほど。それで私たちイバンクと、アーリア大陸との密約。戦乱時代に協力関係となる。こういう事ですね」
「はい。そうです。僕とあなたの家。と言う事ですね。イバンク家。アーリア家の同盟です。ありとあらゆる事態の時に、相互で不可侵。でもそれだけです。互いに協力しろじゃありません。互いに互いを攻撃しない。同盟を結ぶ理由は動かない。であります」
「なるほど。互いの負担にならないという点が利点となるのですね」
「そういう事です」
こちらからは攻撃をしない。
そして、そちらからも攻撃をしてこない。
これが重要である。
ジェシカは、フュンの考えを理解した。
「それと、少し話が脱線しますが、あなた。今の状況が厳しいと思っていませんか?」
「え?」
「僕は、ジェシカさんの地位や命が、非常に危ういと思っている。今の地位。それだと生きるのに難しい立場にあると思います。野心のあるサイリン。傲慢なジャルマ。この二つに挟まれている形です。王を守ってあげたくても出来ないでしょ。そんな状態じゃ無理ですよね」
「・・・・」
なぜそれを、ジェシカは言葉を出せなかった。
「そして、僕の考えでは、あなたが一番優秀だ。それでいて、話を分かってくれる可能性が高いし、それに立場が苦しいはず。だから、僕はあなたと直接交渉をしたかったのです」
「私が優秀? なぜ会ったこともないのに、おわかりに?」
「ええ。調べました。あなたの情報。あなたの過去。行動。性格。それらから推察すると、あなたはその三宰相の中で一番だ。これは明確に一番だと言い切れます」
「・・・形式的な力ではなく、私自身の実力・・・ということですか?」
社会的地位じゃない。
個人の実力が一番高い。
フュンの中では、ジェシカの評価が三宰相の中で一番高いのである。
「そうです。お家の力じゃなくて、あなた自身の力が、一番です。なので、僕と協力関係になって欲しい。この世界で協力関係になるには、そういう人がいい。ワルベント。アーリア。双方が手を取り合うのは信頼できる人じゃなければなりません。ジャルマは論外。サイリンは不確定すぎる。でも、イバンクであるあなたは違う。協力が出来そうです」
話の分かる人と、ここからは協力をしたい。
フュンの言葉をそのまま受け取るとこういう事だ。
と、ジェシカも気付いた。
それにジェシカ自身も、内部に味方のいない状況が辛かった。
大将軍は、心持ちは知らないがジャルマの部下。
ライブックは中立。
内政官たちも、ほぼほぼジャルマ。
向かいに立つサイリンは、同じ立場なのに非協力的。
こうなると、あの宮中で味方がいない状態である。
それがずっと続いてきたのだ。
これでも何とかして生き残れたのは、ジェシカ自身が優秀だったからである。
そこに味方として現れたのが、別な大陸の王。
捕虜四万なんて数値は、ありえない事。
ここ数十年でも叩きだしたことのない数値だ。
だから、かなり強い軍を持っている。
もし戦乱の世になってもそれなら十分に戦いが出来るかもしれないとの計算が立つ。
自分の悩みを一気に解決してくれる人物かもしれないと、ジェシカは徐々にフュンを信頼し始めたのである。
「そしてですね。それらを承諾してくれるなら、僕はあなたに無償で贈り続けますよ」
「え?」
「それです。そのシャンプーたちに加えて、化粧品もあげますよ」
「化粧品!?」
「はい。僕が働いている会社の一式をプレゼントします」
「は? か、会社???」
「はい。僕メイフィアって化粧品屋さんでも働いているので、そこの物をあげます」
王が働いている?
ジェシカは言葉を体の中に入れられなかった。
「・・・え・・・」
「はい。それ、シャンプーとリンスだけじゃないんですよね。傷薬とかもあるんですよ」
「傷薬まで!?」
「はい。なので、どうでしょう。見返りはあんまりいい物じゃないかもしれないですけど。相互不可侵条約。これを結んでもらえたらね。あなたのお家にとっても悪くはないかと思いますよ。どうです」
「そうですね」
フュンが言っている破壊。
それがもし成功するなら、レガイア王国が大分裂するという事。
その際、相互不可侵であるならば、彼らを気にせずに動き出すことが出来る。
混乱自体を利用するのに、密約があるとないとでは、大いに戦略が違ってくる。
「・・・わかりました。結びましょう。同盟ですね。秘密同盟という事ですね」
「はい。そうです。アーリアとイバンクでです」
「紙に残します。それを互いに隠しておきましょう」
「はい。もちろん。お願いします」
アルミース密約。
またの名を、アーバンク秘密同盟。
これが決定したのが、アーリア歴5年2月4日であった。
フュンのワルベント大陸の足掛かりとなる同盟である。
そして、世界を揺るがす悪だくみの最初の段階の同盟だ。




