愛憎
ぼくは数年前、ひとりの女性と音信を途絶えた。
学生のころから仲は良かったものの、付き合ってからさほど日が経たぬうちに離れ離れになり、遠距離での電話越しに些細なことで喧嘩をしたあげく、紋切型の台詞をはいた彼女に嫌気がさし、煩わしくなって陰湿に黙り込んだまま、電話を切ってしまった。
以来、その子とは二度とふたたび会ってはいない。話してもいない。かけ直す気になれなかった。
彼女からも折り返しては来なかった。互いにすでにその機を逸してしまっただろう。その後しばらくして届いた、想いが込められていたであろう誕生日を祝うそっけないメッセージに、こちらもそっけない返事をしたきりである。
彼女はかつてぼくが愛し、かつ憎んだ女のうちでも最良──最上とは言わない──の女であって、今後もそう易々と代わりが現れようとは思えない女であった。
彼女への想念は他者にたいする愛であると同時にまごうことなき自己愛であったろう。
それは他者にたいする憎しみであると同時にまぎれもなく自己嫌悪であったろう。
その愛憎はすべてとは言わずとも多くは自身に跳ねかえって来た。このような感情を抱かせてくれた女は彼女をおいて他にはいない。
あなた方も古代ギリシアの哲学者プラトンの有名な説は知っているだろう。恋とは失われた半身を求めることという説である。
それを信じるか一笑に付すかは、人それぞれだと言い切っていいけれども、ぼくは彼女に出会ったことでその説を少なくともくだらないと切り捨てることはできなくなった。
その愛が、あるいはその憎しみが自己に返って来るのは、かつてその身がぴったり一つであったからに相違ない。
と、そのような狂信で胸を焦がしているわけではないものの、しかし彼女のことを想う時間は、それ以外の女性との思い出にひたる時間にくらべて不釣り合いに長く、そして濃いのだ。
読んでいただきありがとうございました。