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「ほおら、暁、お前の番だぞ」
俺の目の前で、わざとらしく手を振る高橋。
小さく、でも相手に聞こえるように舌打ちしてやった。
顔がにやけているのは、きっと俺が見ていたものにも気付いているからだろう。
それがさらに癪に触って、口を開かないまま助走の準備に入った。
バーを正面右手のいつものスタート位置から見据えると、息を吐き出し、助走のルートから踏み切って跳び上がるまでの一連の動きをイメージする。
そうすると、頭にあった雑念や感情が消え、跳ぶことにだけ集中できた。
その瞬間は、何にも縛られない自由で孤独な世界の王。
空に舞い上がるか、地に落ちるか。
総てが俺次第だ。
この何物にも代えられない瞬間があるからこそ、俺は跳ぶのかもしれない。
一歩身を引くと、大きく息を吸って走り出した。
イメージ通りのルートに入ってカーブを描き、バーに向かう。
助走はばっちり嵌まった。
勢いに乗って、踏み切った身体が宙に浮く。
実際、跳んでいる時に空を見たり、風を感じるなんて事は不可能だ。
頭の中は飛び越えたバーから身体を抜くイメージでいっぱいで、一瞬後にはマットの上。
見上げると、バーは跳ぶ前と変わらずそこにあった。
思わずガッツポーズが出る。
そして、無意識にバーの先にいた永瀬の姿を探している俺の目に、思わぬ光景が飛び込んできた。
いつものように、短めの髪を揺らしながら、待ち合わせ場所の校門に向かって走っていく永瀬。
その体が、大きく揺らいで髪が乱れるのが見えた。
それはもう、遠目にもはっきりと分かるほど。
ああ、倒れる。
そう思った時には身体が動いていた。
マットから飛び降り、地面を2、3度蹴った所で急ブレーキを掛ける。
永瀬の傍にはいつもの男がいて、そいつが転ぶ寸前の永瀬を抱き留めたから。
どう考えたって、俺の場所からじゃ間に合わない距離。
それでも、俺ではなくあの男が助けたことに言い知れない感情が湧く。
拳を強く握ると、そのままスタート位置まで戻った。
イライラする。
助けたのはあの男だという、その事実。
そして、頭から離れない、二人が抱き合う光景。
2人はもう帰ったはず。
そう分かっていても、部活の間は二度と校門の方を見なかった。
代わりに、ひたすら無心で走り、跳ぶ。
それだけを繰り返す。
自分の感情の出所は分からない。
でも、永瀬が関係していることは明白だから。
訳の分からない感情に、───他人に振り回されるのは嫌だから。
しばらくは二人を見るのを止めよう。
そう決めて、最後の跳躍の後に地面に落ちたバーを見つめた。