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それは黒い霧のように見えた。
巨大な暗黒の雲が地上の上を滑るように迫ってくる。そんな非現実的な光景だった。
珍しい自然現象であるならばまだいい。不気味であろうと、珍しいという感想だけですむ。
しかし、どう考えてもそれは触れてはいけないものだということが本能的に分かってしまう代物だった。命の危険を感じさせる圧倒的な力の奔流。そういった強大なプレッシャーが全身を貫いている。否定しようがない脅威だ。
誰もが気づいてすぐに自衛をはかろうとするも、時間が足りなかった。既にそれは目前にある。
ボルアードを退けたことをトリガーに、仕掛けられていたに違いない。
事前に対策をしていない状態では、どれほど素早く動いても到底間に合わない。
これら一連の襲撃が罠だと分かっていながら、その場の対応だけに意識が行き過ぎていた。各々が複雑な感情を抱えて絶望に抗っていたその時。
クロウもまた一つの選択を迫られていた。
誰より早く反応したとはいえ、やはり時間的余裕は皆無だった。
何か手を打つには遅すぎた、普通の方法では絶対に。
ゆえにこそ。
今現在、クロウの眼前には久々に見る特殊技能の選択肢が表示されていた。
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『いずれかを選択してください』 ー60s
1.黒トサカ鷲の雛鳥を防壁に変えて、魔風を遮る
2.使用人頭の命を防壁に変えて、魔風を遮る
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既にカウントダウンは始まっている。
魔風が何なのかを問う暇などなかった。あの黒い巨大なものがそれなのだろう。
防ぐために差し出すものは一匹と一人、どちらか。
ほんの一瞬、脳裏をよぎる何かがあった気がするが、意識することなく消えてゆく。
一方を選ぶことにそれほどためらいはなかった。
選択が受理され、短い鳴き声が耳に届いた気がした次の刹那。
黒い雲が音もなく霧散した。
まるで初めから何もなかったかのように、あっという間にすべてが掻き消えていた。あの禍々しいほどの空気も何もかも、そこには残っていなかった。
呆然とするユニスたち。
何が起こったのか分からないまま、一早く我に返ったのはイルルだった。
「……まだっす!」
その声で皆が警戒を強めながら周囲へと視線を向ける。
あの黒いものが何だったにせよ、それを仕掛けてきた者がいる。イルルはそのことを指摘したのだ。
「何か、いる」
ミーヤがそう言いながら走り出す。ここまでの罠を用意した首謀者、ガンラッドを発見したのだろうか。イルルが続き、クロウもその方向へと駆け出した。
あの場はブレンとユニスがココたちを守るだろう。
一瞬視界の隅に映ったウェルヴェーヌは、放心した様子で地面に座り込んでいた。目の前で何があったのかは分からぬまま、それでも起こったことは確かに目撃していたはずだ。一番近くにいたのだから当然だ。それしか手がなかったとはいえ、申し訳ない気持ちはあった。
だが、今は気にしている余裕はない。
クロウは爆発的に加速するミーヤの後を追いながら、内部のラクシャーヌに声をかける。既に思考は切り替わっている。
(またヤバいのは来そうか?)
(わっちが知るか!あんなのをポンポン打たれたらたまらんわ。何をしてたんじゃ、まったく)
危機的状況になれば、災魔は眠っていても勝手に目覚める。先程の魔風とやらは当然その規模の危険性を秘めていたので、飛び起きたのが現状だ。そして、そんな事態になっていることに苛ついている。静かに眠らせろということだろう。
(魔物の領域内だと外側のことが把握できないみたいだな。その境界が崩れた一瞬の隙で、正直どうしようもなかった)
(おぬし、自分の力を過信しすぎではないか?間抜けな対応で死ぬのはごめんじゃぞ?)
そんなつもりは毛頭ないが、クロウは自分に危機感の欠如があることを認めるべきではないかと考えた。これまで深刻なまでに絶望的な状況はあまりなかった。どうにかなる気がするという曖昧な根拠で戦い、それなりにうまくやってきた。できてしまっていた。
更に言えば、本当に危険な時は特殊技能が発動するという保険を盲目的に信頼していなかっただろうか。勝手にそれを当てにしていなかったか。
無意識に特殊技能を頼るのは、ある種の依存だ。自分でコントロールできないものに命を委ねることはできない。知らず知らずのうちに、クロウは己が実力を過信していたのかもしれない。災魔の言う通りだ。自己管理不足と同様、考えを改める必要がある。
(そうだな……お前の言う通り、腑抜けていたのかもしれない)
(ふん、おぬしが腑抜けているのは前からじゃ)
ラクシャーヌは当然とばかりに鼻息が荒いが、それはそのまま自分にも当てはまることを棚に上げているようだ。しっかりと指摘してやる。
(けど、お前も同じだからな?俺の中にいたんだから、危ない橋を渡ってたってことは同罪だろ)
(ぐぬっ!?)
自覚はあるのか、災魔はそれ以上何も言い返してこなかった。
そんな内省をしている内に、ミーヤが物凄い勢いである古木を駆け登っていったかと思うと、何かを上から落としてきた。
「うぐぅ!?」
降ってきたものは一人の人間だった。
地下世界で久々に見る仲間以外の人間だ。ぼさぼさの長髪は白髪交じりだが、肌艶はそれほど年齢の高さを感じさせなかった。落ちくぼんだ目は焦点が合っていないようで、どこを見ているのか分からない。陰気な顔立ちの中年男性は、土塗れの衣服とろくに水浴びもしていないであろう体臭も合わさって、浮浪者のように見えた。
男は地上に落とされた苦痛でうめいていたが、すぐさま懐から何かを取り出そうとしたところで、イルルにその手を抑えられる。最後の抵抗をしようとしたのだろうが、あっという間に縄で縛り上げられた。
「ガンラッド=ハルオラ?」
大木から飛び降りてきたミーヤが短く尋ねる。
「…………」
男は顔を背けて何も答えなかった。返事はなくとも、クロウたちは皆この男が捜していた人物だと確信していた。こんな地下世界の森に無関係な者がいるはずがない。
ミーヤとイルルがどうするのか、という顔を向けてくる。
クロウは無言で男に近づき、縛っている紐がしっかりと結ばれているか確認してから口を開いた。
「オホーラの元に連れてゆく。決めるのは俺たちじゃない」
賢者の名前に男ははっとしたように顔を上げたが、すぐにそれを隠すようにうつむいた。既に遅すぎる反応だが、誰もそのことに触れなかった。
男を立たせて皆の場所へと歩かせる。まるで老人のような緩慢な動作で時間稼ぎでもしているのかとも思ったが、ラクシャーヌ曰く「魔力欠乏症に近いようじゃ。干乾びておる。大方、無茶な魔法でも使ったのであろうよ」とのことだ。あの黒い雲は想像以上に負担になったということだろう。
戻る間、誰も言葉を発しなかった。色々な思いがありすぎて声にならなかったのかもしれない。重苦しい雰囲気と無言が支配する時間がしばらく続いた。
やがてユニスたちがいるあの大木に辿り着く。
誰もが連れて来た男を一瞥し、ここまで追ってきた相手をついに見つけたと思ったことだろう。しかし、それについて歓声を上げたりするようなことはしなかった。そんな勝鬨を上げられるような雰囲気ではなかった。
ウェルヴェーヌが悲壮な様子で黙々と何かをかき集めていた。それを静かに手伝いながらブレンがそっとクロウに耳打ちしてくる。
「あの雛鳥の羽根だ。最期に眩く光の如く、耽美に我らを救ってくれたからな」
あれは自分の特殊技能のせいだと口にしようとしたところで、オホーラが素早く遮った。
「クロウ。まずはその者について対処すべきじゃ」
「そうか」
その真意は読めなかったが、クロウにも賢者が今はやめておけというメッセージを送ってきたことは分かった。特殊技能に関しては、詳細はオホーラしか知らない。今回の件もぼやかしながら説明できる気はしなかったので、ひとまず保留にしておくことにする。
「これはこれは。随分あっさりと捕まったもんだね」
ユニスが拘束された男を見て、皮肉げに唇を歪めた。その頭の上には蜘蛛の使い魔状態のオホーラがいる。
「で、賢者様。こいつで間違いないのかい?」
それは誰もが気にかかっている疑問だろう。以前に裏切られた鳥屋からの情報で作った似顔絵があるのでおおよその判断はつくものの、確信には至っていない。似ていると言えば似ているが、逃亡生活でやつれているせいもあって、違うと言われればそうも思えてしまう。
「正直、面影があると言えばある程度にしか覚えてはおらぬ。じゃが、その者が放つ魔力は別だ。間違いなかろう。大分、弱ってはおるがな……」
「ガンラッド=ハルオラで間違いないんだな?」
それでも敢えて、クロウは確認する。
ここまで追ってきた男だ。人違いなどであってはならない。
「本人に聞けばよい。是が非でも殺したい相手に嘘をつくとは思えぬ」
その言葉に男がゆっくりと顔を上げる。
オホーラが現在、使い魔の蜘蛛の状態であることを知っていたのか、たった今認識したのか、ついにその重い口が開いた。
「オホーラ=ダイゼル=ヨーディリッヒ。そんな姑息な状態で追跡して来るとはな……どこまでも憎たらしい『頭でっかち』め」
ざらついた底冷えするような声が辺りに響く。聞く者の心胆を寒からしむる、何かどす黒いものがこもった声音に場の空気が一気に冷えた。
「わしは一向にふざけておらぬがな。その様子じゃと、わしが使い魔の状態だと知っていて尚、あのような危険な魔法を放ったのか?よしんば成功したとしても、わし本体を殺すことはできんかったと思うが?」
「無様に隠れている身で何を言うのだ?卑怯なのはお互い様だろうが……どちらにせよ、貴様らを野放しにする選択肢はなかった。皆殺しにしてから、改めて貴様の本体を狙うしかなかったのだ」
「やはり追跡されていることには気づいていたのだな?」
「こんな場所まで追ってくるとはな。しかも、そんな使い魔状態で……卑怯にもほどがある」
吐き捨てるようなガンラッドの返事に、ユニスが皮肉を返す。
「君の口から卑怯なんて言葉は聞きたくないね。散々、魔道具で非人道的な仕掛けをしていたのはそっちだろう?」
「生死を賭けた戦いにルールなどない」
「一方的に仕掛けて来ておいてよく言うね」
「何を言うかっ!私だって好き好んでこんな人生を歩んでいるのではないっ!」
ガンラッドが突然激昂して叫ぶ。その勢いにユニスも呑まれたのか、黙り込む。単なる怒り以上の何かを感じたからだろう。魂の叫びのような、鬼気迫るものが含まれていた。
微妙な静寂が辺りを包む中、オホーラが会話を再開する。
「おぬしが並々ならぬ覚悟でわしを狙っていることは分かっておる。して、その理由を話す気はあるか?」
賢者には思い当たる節があまりない。以前話していたように、古代遺跡探索時の失敗でガンラッド=ハルオラという男を死なせたことはあるが、探索者ならば自己責任が前提条件だ。オホーラだけが生き残ったとしても、それを個人のせいにして不当だと断じるのは逆恨み以外の何物でもない。更に言えば、それは少なくとも100年近く前のことだ。
恨みが必ずしも風化するとは言わないが、親子のみならずその孫にまで渡る長い間、それが伝播するとは到底思えない。
あくまで一般的に、ではある。どんな物事にも例外はあり、感情の度合いというものは共通の物差しで測り切れるものではない。かといって、外からそれを知る術はない。当事者が語らぬ限り、伝わらないことも多い。
ガンラッドはその質問に何も答えなかった。
ただ、悔しそうに使い魔である蜘蛛状態の賢者を睨んでいる。視線で何かを殺せるのなら、蜘蛛はもう何度も息絶えたことだろう。それほどの強い念が感じられる嫌な目線だった。
位置的に真正面から晒されているユニスが、呆れたような声で言う。
「賢者様、残念ながらこいつはペラペラとしゃべる悪党とは違うようですよ。閉じた扉に話しかけても意味はありません。一思いに終わらせたらいかがですか?」
追い詰められてから自分勝手な事情を告白し出す犯罪人は少なくない。ガンラッドはしかし、その手の類とは違うようだ。
オホーラとしては狙われた理由を知りたいところだが、相手にその気がないのならどうしようもない。無理やり自白させる方法もなくはないが、嘘が紛れる可能性はあるし、そこまで労力をかける必要性も感じていなかった。せめて何か話してくれるのなら、情状酌量の余地があると考えていただけだ。
「……ハルオラの子孫よ。何も語らずに終わってよいのか?わしは貴様の本当の名すら知らぬままじゃぞ?」
自分を殺そうとしている相手に向けるにはおかしな内容に思えるが、賢者は相手にもどうにもならない事情があることは察している。普通の人間より長い年月、世の中の理不尽なものを数多く見てきただけに、加害者にもそうせざるを得ない理由が存在することを知っていた。容認はできずとも、多少は寄り添うことも可能だろう。
「貴様に分かってもらおうなどと思わん。こちらの事情が何であれ、貴様が死ぬ以外にできることは何もない。慈悲があるというのなら、今すぐその首を差し出せ。できるものならばな!」
ガンラッドは歯ぎしりするようにそう言い放つ。
敗者の立場とは思えない強気な要求で、決して曲げない強い意志がそこにはあった。
クロウたちはただ賢者の決断を静かに待つ。それぞれが思うところはあるものの、誰も口には出さなかった。
これは当事者たちの問題だ。他の誰も間に入ることはできない。
「なるほど……そこまで強固な意志というのは、おぬしに刻まれたその呪いのせいか……」
「――っ!?」
賢者の指摘に、ガンラッドは明らかな動揺を見せた。
なぜ分かったのだと叫ぼうとした自分を抑えるように、強く唇を噛む。口の端からどろりと血が垂れる。
どんな弱みもオホーラの前では見せるわけにはいかないというように、三本傷の魔道具使い(ユーザー)はただひたすらに怨敵を睨みつけていた。




