7-10
「おい、そっちじゃねえ。聞いてるかって、おわっ!?」
森の木々の間を駆け抜けていた雛鳥が急に立ち止まった。
その上に跨っていたクロウは予期せぬ動きに不意をつかれ、慣性の法則で勢いよく前方へ投げ出された。
たまたまあった大木を器用に足場にして着地、無様に転がるのを避ける。
「くそっ、あいつ、絶対わざとだろ」
クロウが忌々しげに吐き捨てると、ウェルヴェーヌが少し表情を緩めて言う。
「シーアには優しくしないといけませんよ、クロウ様」
「いや、十分そうしてるつもりだが?お前の時と明らかに態度が違うのは、もうどうしようもない気がしてきたぜ」
メイドが乗っている時は大人しく従っているので、やはり人を選んでいる気がしてならない。
「やはり、二人乗りでもいけるのは?」
「それも嫌がってるだろ、あいつ」
「そんなことはないと思いますけど……」
ウェルヴェーヌは雛鳥の方へ向かい、何事か語りかける。
すると「ThiThi,ThiThi!」と応対する鳴き声が続いた。どんな内容かは不明だが、あまりうまくいっているようには聞こえない。というより、意思疎通できているのだろうか。
シーアなどと名前を付けるほどウェルヴェーヌはあの雛鳥を気にいっていて、最近はすっかり姉妹のような親子のような関係で共にいる。巣から生還できたのは半ばシーアのおかげでもあるので、それはいいのだが、餌などを自分でまだ取れないため、クロウが供給係となっていて手間だった。
本当はウェルヴェーヌの担当なのだが、未だ病み上がりの状態でそんな真似はさせられないので、適当に小動物などを代わりに狩っているというわけだ。
その対価として、せめて乗り物として役立ってもらおうとしたところ、先程のようにまともに指示に従わない自由奔放さで振り回されるだけだった。まったく労働に見合ってない。ウェルヴェーヌの場合に限り、その背に乗せて従順に歩いているのがまた憎らしいところだ。
嫌われるようなことをした覚えはないんだがな……
クロウは雛鳥の思考がまったく読めなかった。
ラクシャーヌによって毒抜きを終えたメイドは、すぐに体調を取り戻して窮地は脱していた。肩口の傷はまだ癒えてはいないが、動くのに支障はなさそうだ。
「クロウ様、シーアは重いから嫌がっているようです」
ひとしきり雛鳥から事情聴取をしたらしいメイドが、そんなことを言ってくる。
「俺は重いのか?」
クロウは己を顧みる。比較的軽装なつもりだ。ズボンもシャツも丈夫な素材を使ってはいるが普段とそれほど変わらない。皮鎧すら着ていない状態で、一応肌着に鎖帷子くらいだが、それが重いのだろうか。確かにメイド服で女性のウェルヴェーヌと比べたら負けるのは当然ではあるが。
「まだ子供ですから」
シーアを見ながらふっと表情をやわらげるウェルヴェーヌ。そんな顔もできるのだと少し感心する。それにしても、自分自身にも子供のような存在はいるのにこの違いは何だろうか。中で眠っているラクシャーヌを思って、優しい気持ちになることはない。無茶ばかり言っている記憶しかない。いや、たまには役立つことも結構あるか。どちらにせよ、苦笑くらいか。
不毛な考えを振り払ってまた歩みを進めることにする。
現在地は相変わらずの森の中だ。
マナ溜まりからも離れ、元々向かっていた崖の方へと向かっている、はずだ。
なにしろ、大雑把な方角だけを確かめて進んでいる状態だった。ラクシャーヌもアテルもまだ魔力を貯める必要があり、そのためには睡眠が一番効率のいい貯蓄方法だ。あのままマナ溜まりで休養する方がいいのかとクロウは思っていたが、災魔曰く「ここはどうにも人工的過ぎて長く居るには適さぬ。移動しておけ」とのことで離れることになった。
大分気になる言い方だったが、そちら方面に明るくないので素直に従っておいた。
オホーラたちは自分たちを探している。ユニスが魔力探知でどうにかして追跡してくれるだろう。それまでどこか一か所に滞在しておくという手もなくはないが、時間は有限だ。周辺を探っておいた方が後のためにも役立つ。
こうしている間も、魔道具使い(ユーザー)のガンラッド=ハルオラはどこかへ移動している。その痕跡を見つけたい。この森を通ったであろうことは間違いないため、無駄にしている時間はなかった。
それにしても、ウェルヴェーヌとシーアは随分と親しくなったものだ。目が覚めて雛鳥がそばにいることの意味をすぐに悟ったときに何となくは予想していたが、やはりシーアはメイドを守っていたようだ。最終的に本当の親鳥に逆らってまでここにいるのだから、相当入れ込んでいるようにも見える。単なる刷り込みなのか、何か感じるものがあったのかはシーア以外には分からないので何とも言えないのだが。
いつも鉄面皮で小言を言っているメイドが、少し頬を緩ませて雛鳥を撫でている姿はどこか微笑ましい。とはいえ、その雛鳥は自身の二倍以上ある巨体なので微妙な絵面にはなっている。成長するとその更に倍にはなるので自然の中以外だと邪魔になりそうだ。
そんなことを考えるのは無粋だと思いつつ、クロウは森を歩いてゆく。ステンドがやってくれていた先導をしていることになるが、なかなか大変だということが身に染みて分かる。向かおうとする先に道らしき道がないというのは、方向感覚が常に試されているようで真っすぐに歩くこともままならない。
おまけに背丈の高い草木が邪魔をしていると迂回するはめになり、その度に方角が変わったりするので、それを避けるために伐採作業が必要になり、排除する植物の種類によっては毒を持っていたり、奇妙な反応をして危険がないか確認したりと、とにかく忙しい。
探索者の基本役職に先導者がいる必然性が嫌というほど分かってきた。ひょうひょうとしてそう思わせないでいたが、ステンドはやはり優秀なのだろう。
「大丈夫ですか、クロウ様?慣れないことでしょうから、急ぐ必要はまったくありません。むしろ、私が代わりましょうか?」
苦戦しているのが丸わかりなのか、ウェルヴェーヌに心配される始末だった。
「いや、病み上がりのお前にやらせるのはさすがにないだろう。いつもの礼だ。気にしないで休んでろ」
「いつもの……?」
「普段から街の運用関係の雑務は全部任せっきりだからな。本当に助かっている」
「いえ、それが私の仕事ですので。というより、こちらこそ改めて命を救って頂いたことに感謝します。わざわざ追って来てまでたかが使用人のために、本当に申し訳ありません」
「毒抜きをしたのはラクシャーヌの方だからな。それに、お前自身もココを救ったんだ。申し訳なく思う必要もない」
「ラクシャーヌ様にはまた後ほど御礼を言うつもりです……ただ、私は……やはり、私にそのような価値があるとは思えません」
ウェルヴェーヌの声は尻下がりに小さくなり、そのまま沈黙が降りた。
クロウは立ち塞がる棘のある枝木をその後もしばらく伐採していたが、何やら視線を感じて振り返る。すると、シーアの上から自分を見つめるメイドの濃い褐色の瞳とぶつかった。それでもウェルヴェーヌは何も言わない。じっとこちらを見つめている。
「どうかしたのか?」
何か言いたそうな雰囲気なのに、何も言ってこないウェルヴェーヌの代わりにそう声をかける。なんとなくそうして欲しそうだったからだ。
「クロウ様は本当にマイペースなんですね……」
しみじみとそんなことを言われる。微妙に呆れたようなニュアンスが含まれているように感じるが、確証はないし理由も分からない。ならば、聞くまでだ。
「どういう意味だ?」
「いえ……」
軽い溜息のようなものを吐いてから、メイドは続ける。
「少し私の話をしてもよろしいでしょうか?」
「ん?ああ、かまわないが、それなら少し一息入れるか」
邪魔な小枝を切り避けている状態で聞く話ではなさそうに感じたので、クロウは適当な木に寄りかかるように腰を下ろした。メイドはシーアに腰かけたままだ。使用人が主人より高い場所にいるなど不遜だと言い張っていたが、病み上がりだから気にするなとクロウが指示していた。
「知っているかはと思いますが、私は一応貴族の家の生まれです。尊名はウェルヴェーヌ=ニカク=シーリッジ。辺境の田舎貴族なので大貴族とは雲泥の差でしょうが、少なくとも貧しくはありませんでした。ただ、もうその家名もありません。町そのものがある盗賊団に襲われて蹂躙されました。親姉妹も殺された私はある奴隷商に買われました」
急に身の上話を始めるウェルヴェーヌの意図は分からなかったが、静かに耳を傾ける。
「そして、その奴隷商からある娼館に出されました。元貴族の娘ならば重宝されるからという理由でしたが、その頃の私は喜怒哀楽を失っていました。今にして思えば、短期間ですべてを失い、寄る辺もなく見知らぬ場所で、見知らぬ人たちに囲まれてどうしていいか分からなかったのです。誰にも相談できず、自分の殻に閉じこもっていたのだと思います」
ウェルヴェーヌが奴隷だったことは知らなかった。まったく気にしていなかったが、現在の耳の装石は平民のもので、クズ石と呼ばれる茶色の鉱石ではなく黄色のものだった。
「何度笑うように言われても、うまくできませんでした。それでも普通にしていればそれなりに見栄えは悪くないということで、色々と芸事も教えられたのですが、やはり笑わない娼婦など誰も好みません。初めてお客を取るときになって、ついにあきらめられました。笑うことはおろか、表情すらまったく変えない女を抱くようなもの好きはいないということです」
男女の睦言については良く分からないが、無表情でやりとりするものではないことは分かる。何か反応がなければ物足りなく思うものなのだろう。
「結局、私は雑用に落とされました。待遇も悪くなり、本当の奴隷扱いに近いものになりましたが、逆にそれは私にとっては天職だったようです。ただ黙々と誰かの命に従って何かをすることが、あまり苦ではなかったのです。命令する方も、嫌な顔もせずに従う存在は有り難かったのでしょう。私はそうして雑用係、使用人としての価値を知らずに上げていったのです。言われれば何でもやりましたので、広く浅く様々な知識と技術を手に入れ、数をこなしていくうちにそれなりの結果を出せるようになっていました」
あらゆることを器用にこなす万能さはそこから来ていたようだ。経験の差ということか。
「それからしばらくして、娼館を訪れたさる貴族の方から使用人として身請けされることになり、本格的に貴族の召し使いとして働くことになりました。相変わらずうまく笑うことはできませんでしたが、召し使いとしてはどんな場所でも表情を表に出すことは禁止されていたので、逆に好都合だったのです」
淡々と語るメイドはこの時も表情はいつものままだ。見慣れているのでクロウは何とも思わないが、気にする者は多いのだろうか。
「実際に私の中で感情がないわけではありません。ぶたれれば痛いし、おかしいときは笑いたくなります。ただ、それらが顔に出ない、いえ、出せないという方が正しいのかもしれません。どうやったらそうなるのかが分からなくなっていました。もちろん、そんな表情を作ることを意識して作っているのは愛想笑いくらいなものでしょうが、普通は無意識に感情に伴った顔になるということを今では知識として知っています。けれど……」
少しだけ首を傾げるようにウェルヴェーヌは言う。
「私からその機能は失われてしまったようです。無理やりに愛想笑いしようにも、どうやったらいいかが分かりません。昔は普通にできていたとは思うのですが、思い出すことすらもうかないません。別にそれでもかまわないと思っていますし、正直今後も一生そういうものだと思っていました」
そこで長い間が落ちる。
続きはないのかとクロウがウェルヴェーヌを見ると、またもやこちらをじっと見つめる瞳とぶつかる。
その時になって、何か自分が言うべきターンなのかもしれないと思い当たる。どうにも、こういう会話の相槌や返しのタイミングが分からなくなる時がある。相手の反応を待つ機会があるということは、なんとなく覚えたのだが、その瞬間が未だにつかめない。
オホーラはそれは無関心だからではないかと分析したが、そういうことでもない気がした。確かに興味の大小の差はあるが、話したいことがある人間は相手が聞いていようがいまいが話す傾向があるように思えた。それがすべてではないにしても、言いたいことがあるのなら結局は最後まで吐き出すものとして見なしている。だからこそ、途中で他人が口を挟まずともいいような気がしている。
とはいえ、互いに言葉を投げ合って進む会話というものも存在するため、実質一方通行のときとの違いがあるのも確かだ。その二つの判断がクロウ自身には未だにできていない。普通はそんなことで迷わないのだろうか。
とにかく、今は何か声をかけるべきなのだと悟る。なので、疑問に思っていたことをここで口に出した。
「そもそも、なぜ俺にその話を?正直、感情的な話をする相手にはもっとも縁遠い自覚があるんだが?」
「そうかもしれませんし、そうではないかもしれません。クロウ様こそ、もっとも相応しい可能性はあります」
「つまり?」
「うまくは言えないのですが……何か、私が話すべきことがあるように思えたのです。以前から、クロウ様は自分には感情がないかもしれないと悩んでおられましたので」
果たして悩んでいたのかは微妙なところだが、気にしていたことは事実だ。
「普通の人間の反応みたいなものと、自分がずれている感覚はあるからな」
「けれど、それはおそらく私も同じようなものを持っていると言いますか、似た感覚があるような気がしているのです」
ウェルヴェーヌは噛みしめるように言葉をつなぐ。自身でも言語化するのを手こずっている、そんな様子だ。
「お互い顔にあまり出ない、というのは確かだな」
「いえ、クロウ様はそれなりに表情に現れています。分かりにくいかとは思いますが」
「それを言うなら、お前だってそうだろう?自分でも言っていたように、感情がないわけじゃないんだから当然だ」
そう言うと、少し驚いたようにウェルヴェーヌがクロウを見つめる。
「ほら、今がその証拠だろ。ちょっとした変化かもしれねえが、お前にだってちゃんと動きはある。特にそうだな、お前は上手く笑えないって言っていたが、シーアを見ている時には微笑みってやつを浮かべているぞ。少なくとも俺にはそう見えてた」
「私が……ですか?」
「ああ。で、そうだとして俺に何かを伝えたいってことか?」
「はい、あ、いえ、もしかしたら私自身へのためなのかもしれませんけれど……申し訳ございません、良く分かりませんよね」
うまく言葉にできないでいることは分かるので、クロウはここで口を閉じる。
自分なりにまとめる時間が必要だと感じて待つことにする。その間に、メイドが言わんとするところを汲み取ろうとするが、やはりよく見えてこない。感情の起伏が少ないという点で、同類だと思っていることを表明されただけなのだろうか。
いや、それだけのことにあまり意味はなさそうだ。何かしら伝えたいことがあるはずだ。
しかし、それを類推できるだけの技量が自分にはあるとは思えない。クロウは感情的な機微には疎い自信がある。自ら察してくれというニュアンスのことは苦手だった。ウェルヴェーヌが幼少期に色々あって感情を表に出さなくなったという経緯は分かったものの、だからどうしたという現時点の何かにはつながらない。
決して順風満帆な人生ではなかったというだけで、同情はあってもそれ以上でも以下でもない。もっと不幸な人間は世の中にはたくさんいるだろうし、それらについてクロウ自身がどうこう思うことはあまりない。あるいはその経緯がクロウにも当てはまるかもしれないと言いたいのだろうか。いや、それもなさそうだ。
似たような記憶があれば微かに何か感じ入るものがあるかもしれないが、まったく思い出せない。その効果を狙って話したのだろうか。結局、考えるだけ無駄な気がしてきた。
「その……多分、私はクロウ様もいろいろと感情というものが普通の人のように表に出てこないだけで、ないということではないと、そう言いたかったのだと思います。拙い話で申し訳ありませんけれど」
「そうか」
それはおそらく善意からのものなのだろう。感謝を述べるべきなのかもしれないが、自然に出てこない時点で言うべきではないかもしれないと思うと、それ以上の言葉が続かなかった。どうにも余計な思考が巡っている気もする。
「それと、私自身はなんというか、そんな価値もない平凡な没落貴族ということを知って欲しかったのかもしれません。わざわざクロウ様が――」
「それはもういい。無駄に自分を卑下することはない。現状、お前は俺にとって相当役立つ使用人だ。できる限り助けるのは当然で何を言われてもそこは変わらない」
メイドの言葉を遮ってクロウは立ち上がる。
正直いまいち要領を得ない話だった気がするが、そもそも他人の言葉の真意をしっかりと把握できる自信もない。特に心情面が絡むとお手上げなので、打ち切るように行動を再開することにする。
「なんにせよ、俺もお前も感情がないわけじゃないってことでいいんじゃねえか。それが顔にあまり出ないからって、それを殊更に気に病んでるわけでもないし、問題ないだろうよ」
「そう、かもしれませんね……あら……」
いつもの調子でウェルヴェーヌがうなずいてから、不意にすんすんと鼻を鳴らす。
「何か妙な匂いがしませんか?」
「匂い?」
そう言われると何か嗅ぎ慣れない香りを感じる。無意識にシーアを見る。動物の方が嗅覚は人間より優れている認識があった。雛鳥の大きな目は瞑られていた。
「そいつ、寝てないか?」
「え?」
ウェルヴェーヌがシーアを覗き込もうとしたところで、シーアの足がかくっと崩れ落ちた。
放り出されそうになったメイドは慌ててその背にしがみつく。
クロウはそんな光景を見ながら、自身も急激に眠気に襲われていることに気づく。
この香りのせいなのか。
そう思った時には、抗いがたい睡魔に既に魅入られていた。
何かの罠かもしれないと思い至ったと同時に、意識が遠くへと飛ばされていった。




