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痛みで意識を取り戻したとき、自分がどこにいるのかまったく分からなかった。
無意識に左の肩口に手をやると、べったりと赤い血の感触が伝わってくる。まだ生暖かい。
その傷ですべてを思い出した。
ウェルヴェーヌは巨大な鳥に連れ去られたのだ。鉤爪で肩を抉られ、そのまま空へと引き上げられたところで意識を失ったのだろう。
未だに左腕全体が痺れている状態を鑑みると、麻痺毒の類があるのかもしれない。
とにかく止血をしなければならない。
ゆっくりと身体を起こすと、地面は藁束のようなものが敷き詰められていた。
改めて周囲を確認する。同じように藁でできた壁が見えた。そして眼前には別の材質の壁。何かの毛のようなものがびっしりと詰まっている。柔らかそうで触りたくなるが、他に気になるものがある。斑模様の大きな欠片のようなものがやたらと目についた。近くの足元にもその一部か別の欠片か定かではないものが散らばっていることが分かった。何となく触ろうとしたところで、いきなり辺りが暗くなって影が落ちる。
頭上を何かが覆ったのだと気づき、見上げるとそこには大きな目があった。
「ー――――っ!?」
ほぼ黒目だけの無機質な瞳が自分を見つめていた。
あまり何事にも動じないと自負しているウェルヴェーヌではあるが、徐々に焦点が全体像を捕らえる頃には、さすがに冷汗をかいていた。
どうやら、巣の中に運ばれたようですね……
あの欠片は卵の殻だったのだ。
そしてこちらを見つめるこの瞳の持ち主は、あの巨大な鳥の雛といったところだろう。
幸いというべきか、まだ生まれたてなのか凶暴性は鳴りを潜めている。不思議そうにこちらを見て、首を傾げている様はよくよく見ると可愛らしささえあった。いや、もしもこんな巨大ではなく、手の平サイズであったなら頬ずりしていてもおかしくはない。愛嬌があって、ますます好ましく感じる。
しかし、そんなことを言っている場合ではないことは分かっていた。
ここがあの巨大鳥の巣であるなら、自分は確実に餌だ。それも、この雛鳥へ食べさせるためのものであることは間違いない。鳥の習性に詳しくはないが、そういう食事の仕方だと聞いたことがある。
地下世界に足を踏み入れた時点で命の危険性については理解していたが、こんな形で死ぬのは想定外だった。
というより、クロウ様の側にいすぎて甘えが出ていたのでしょうか……
自嘲気味にウェルヴェーヌは苦笑する。
いつのまにか主人と認めた新しい領主の安心感に慣れ過ぎていた。転生人という変わり種で、過去がまったく思い出せずに感情にも乏しいと言われている青年だが、前任者よりも数千倍はマシだった。否、ほとんど理想とも言うべき主だと感じていた。
いろいろと足りない部分はあるものの、それも含めてクロウという存在はウェルヴェーヌにとってなくてはならない世界の中心になっていたのだと、こうして引き離されてより思い知らされた。すぐ隣にあの何を考えているか読めない顔がないことが寂しい。
肩の傷がじりじりと痛み出して現実に返る。まだ動かせそうにない。
ここがどこだか分からないが、自力での脱出は厳しそうだった。
クロウたちは奪還を試みてくれるだろうか。可能な限り検討はしても、空に飛び去った鳥を何の手掛かりもなしに追うのは無謀だ。それほどの労力をかけて取り戻すほどの価値が果たして自分にあるのか。
考えるまでもなく、答えは出ていた。たかが使用人長ごときに、そんな手間はかけない。この地下世界に来たのは、もっと大事な使命があるからだ。賢者の暗殺を企てている犯人の捜索を優先させるに決まっている。つまり、自力でどうにかしなければならない。
せめて何か使えるものがないかと思ったところで、背中に背負っていた麻袋がないことに気づいた。有用なものが詰まっていたのだが、それすらも当てにできないのは厳しい。
どこかに落としたのだろうか。それは一体いつだろうか。
意識を失う前のことを振り返る。
巨大な鳥が急降下してきて、クロウが対応していたのを覚えている。ココが狙われたのを助けた形だった。その間にブレンが素早くココをウェルヴェーヌに預けてきたのだ。ユニスやステンド、ミーヤたちはクロウの援護ができる距離で囲んでいた。その更に後方でイルルとココと共にそれを見守っていた。
脅威は一旦去ったと思っていた。完全に油断だった。
そこへもう一匹が突然現れたのだ。
隙をつかれた。音もなく急襲されて何もできなかった。
今思えば、やはりあれもココを狙っていたのだろう。なぜかは分からないが、明確に標的はココだった気がする。ナイフでは対抗できそうになく、とっさにココを突き飛ばして身代わりになるくらいしかできなかった。
巨大な鳥の脚爪で肩を串刺しにされ、そのまま空中に持ち上げられたところで気を失った。突発性のショックだとしても普通ではない。未だに痺れていることから神経毒があったのだと思われる。その直前に降ってきた液体毒は地面を溶かすほどのものだった。それらは別種な毒に思えるが、どういうことなのか。
しかし、そこは重要ではない。なぜ自分がわざわざここまで運ばれたのか。そちらの方が気になる。
いえ、それは雛鳥への餌ということで先程結論付けました……思考が乱れていますね。これも毒のせいでしょうか。
ウェルヴェーヌは身体の調子が段々と気だるくなっていることに気づいた。流血しているだけではなく、毒のせいもあるのかもしれない。かなり危険な状態であることは確かだが、止血しようとする意志すら遠ざかっていく。体力的にも精神的にも緩慢になっていることを自覚する。
明確に死の匂いを嗅いだ気がした。それは遠い日の記憶も呼び覚ます。同じ感覚が蘇る。
ウェルヴェーヌは元々は貴族の娘だった。二女で長子ではなかったが、何不自由なく過ごしていた子供時代があった。辺境の国の小貴族ではあったが、比較的安定した暮らしが約束されていたはずだった。それが一変したのは、近隣にとある盗賊団がやってきたからだった。
どこかからか逃げてきたその野蛮な集団は、瞬く間に平和な地域を侵略し、ついにはウェルヴェーヌの住んでいた町にまで攻め込むほどに増長していた。王都からは離れているため、領地を守る国軍はいなかった。練度の低い領主の私兵と自警団のみで防ぐには、盗賊団の勢いと戦闘力には差がありすぎた。
町はあっという間に占領された。貴族や上流階級が真っ先に狙われるのは必然だった。両親は姉とウェルヴェーヌを逃がそうとして惨殺された。あまりにも呆気なく殺されて、現実感がなかった。どうにか地下の食糧庫で姉妹揃って隠れていたが、見つからないはずもなく、姉は引きずり出されて帰ってこなかった。
最後までウェルヴェーヌのことを匿って隠し通そうとしてくれたのだろう。それからしばらく一人で隠れていたが、やがてまた別の者たちが来て見つかった。幼い童が一人で逃げ切れるはずもなかった。
町の男たちは容赦なく殺され、大半の若い女たちは慰み者になって隷属状態となっていた。故郷は盗賊たちに完膚なきまでに蹂躙された。
まだ幼かったウェルヴェーヌはかろうじて性の対象にはならなかったが、それも時間の問題という頃合いに、ある奴隷商が訪れて子供たちを大量に買っていった。一般的に貴族の娘というのは高く売れる。ウェルヴェーヌもその見た目から多少の教育を施せば高級娼婦になれるという見込みで引き取られた。
笑う練習や、媚びを売るポーズを無理やり練習させられるたびに、ウェルヴェーヌの表情は失われていった。自覚などあるはずもなかった。うまくできないときは叩かれたが、それでも泣くこともできないようになっていた。それでも見た目は美しい部類だったので、最低限の作法や動きを教え込まれ、そのまま娼館で修行させる運びになった。
だが、見習いをさせる娼館の方も、お世辞にも良いとはいえない場所だった。元来の性格や境遇、環境のせいもあったのだろうが、周囲が期待するようにはまったく育たなかった。向いてなかったとも言えるだろう。一年ほどで初仕事をする段階になっても、愛想がない能面のような子供という評判で客を取れなかった。
顔だけはいい人形として娼館も売りに出さそうとはしたものの、幸か不幸か丁度いい物好きな客もいなかったので、結局雑用係へと落とされた。そこからウェルヴェーヌの使用人としての人生が始まった。
それからも、ベリオスの町の領主のもとで働くようになるまでも色々あったのだが、走馬灯はそこで突然途切れた。
「Thi,Thi,Thiー!」
舌打ちのようなハミングのようなその音が頭上からして、はっとして見上げる。
雛鳥の泣き声のようだ。
赤子といえど、その体躯はウェルヴェーヌの倍近くある。軽く一飲みされそうな口、その嘴を見てこれで終わりかと半ばあきらめかけるが、急にその羽で引き寄せられた。心地よい羽毛の感触と、まだ生えそろっていない地肌に近いぬくもりに身体ごと押し付けられる。
「ThiThi,Thi?」
何やら語り掛けるようなその声は、決して敵意があるものではないことは分かった。雛鳥はぐったりとしているウェルヴェーヌを気遣っているようにすら思えた。
錯覚かもしれないが、その考えは快適過ぎてそのまま身を委ねてしまいたくなる。まるで遠い昔、母に抱かれていた頃の安心感すら覚える。ただし、そのような記憶ははっきりとは持っていない。単なる想像だ。それでも、そんな心地よさに瞼が重くなる。
このまま眠ってしまってもいいでしょうか……
甘美な誘惑に誘われて意識を閉ざしかける一方で、もう一人の自分が危険信号を鳴らしていた。
いけません、血を失い過ぎています。このまま眠ると死に至るでしょう。起きなさい。
頭の中で二つの相反する意識が戦っているのを感じた。
その時。
「PI,PIIIIーーー!!」
一際大きな鳴き声がして反射的に眼を開く。
今のは雛鳥の声ではない。森の中で聞いた、大きな親鳥の方の鳴き声に間違いなかった。このままここにいては危険だ。
重い体に鞭を打って動こうとするが、雛鳥の羽根にがっちりと押さえられていて叶わない。
もしかして、これは逃がさないために?
そんな考えが脳裏をよぎる。
しかし、雛鳥が何やら親鳥に向かって囀っている声を聞き、そうではないと確信した。
ウェルヴェーヌを守るように訴えかけている、そう無条件に感じられたからだ。何を言っているのかは分からずとも、その心情に疑いを挟む余地はなかった。どうやら、雛鳥は味方になってくれているようだ。理由は不明でもありがたい。
二羽の鳥が激しくやりあっている最中、新たな何かがそこへ闖入してきた。
蛇だ。
こちらもなかなかに大きい。普通に考えれば大蛇と言っても差し支えないのだが、既に規格外の鳥がいるのでそうは見えないだけだ。大口を開ければ、雛鳥くらいなら消化できそうなくらいには巨大だった。
鳥たちは今も囀り合っていて、その存在にはまだ気づいていない様子だ。
ウェルヴェーヌは危険を知らせるべく雛鳥の体毛を軽く叩くが、あまりに弱弱しい。気づいてもらえないまま、慎重に蛇が接近してくる。
雛鳥の心配をしていたが、それどころではなかったかもしれない。あの蛇の大きさなら人間のウェルヴェーヌは一飲みでやられる。自分自身の方が危険だ。
もうどうしようもないのか。
そんな絶望感に打ちひしがれていると、ようやく親鳥が蛇の存在に気づいた。
「PIIIIーーー!」
巣のへりから素早くその脚を繰り出して蛇の胴体を捕まえ、あっという間に空中へと飛び上る。
「JYAAAAーーーーーー!!!」
蛇はその身を宙でくねらせ、負けじと親鳥の下腹へと噛みつく。
上空で世にも恐ろしい巨大な鳥対蛇という対決が始まった。
雛鳥も応援をしているのか、何か盛んに声を上げている。緊張感がまた去ったせいか、ウェルヴェーヌは眩暈を覚えて再び意識を失いそうになる。
やはり、血を失い過ぎていますね……
冷静にそう分析できても、対応策が浮かばない。既に体が満足に動かせない状況だ。おまけに雛鳥にがっしりと抱えられてしまっている。
どちらが勝つにせよ、このままここにいるわけにはいかない。けれど、動けない。意識も朦朧としている。何もかも投げ出して眠りたい。
すみません、クロウ様……
無意識に最後に投げた言葉は、黒髪の青年へ向けてのものだった。その事実に自分自身が少し驚きながらも、納得感はあった。様々なしらがみから抜け出させてくれたのは、結局のところ新しい領主のクロウだったのだ。それほど同じ時間を過ごしたわけでもないというのに、惜しいと思っているのはクロウとの時間だった。
もう少しお役に立ちたかったのですが……
そこでついにウェルヴェーヌは意識を手放した。
空を飛ぶという感覚はなかなかに新鮮だった。
地に足を付けることなく進んでいながら、吹きつけて来る風を感じる。
爽快感というものはこういうことを言うのだと思いながらも、もう少し安定して飛んでほしいとも思うクロウだった。
なにしろ、片手のみで巨大な鳥の脚を掴んでいるだけの状態である。その鳥がこちらを振り落とそうと蛇行しているのだから、悪酔いしてもおかしくはない状況だ。普通なら風を感じている場合ではない。ラクシャーヌが起きていたなら、何を呑気なことをと呆れそうだったが、災魔はまだ眠ったままだった。
黒トサカ鷲はどこかに降りて振り払うというような考えはないようで、ひたすらにどこかへ向けて飛んでいた。何か急いでいるのだろうか。人でも鳥でもやはり、自分以外の考えというものには疎いと思うクロウだったが、そんなことよりウェルヴェーヌの行方が気になっていた。
空へと連れ去られたメイドの姿は、どこにも見当たらない。
同じ目的地に飛ぶと信じてとっさに飛び移ったのだが、その当てが外れると厄介だ。既に元居た場所すら分からない。
考えてみると、ウェルヴェーヌと合流したとしてもどうやって戻ればいいのか。
答えは一瞬で出た。なるようにしかならない。自分は楽観主義なのかもしれないと思い始めているが、それが良いの悪いのか判断もつかない。
どこか他人事のように鳥に運ばれていると、ついにその到着地点が見えてきた。
明らかに鳥の巣と思しき器のようなものがあり、雛鳥らしきものがいたからだ。しかし、その雛鳥はあらぬ空の方を見て鳴いているように見えた。その方向に視線を向けると、なぜか蛇と黒トサカ鷲が戦っていた。
状況が良く分からない。
ウェルヴェーヌとまったく関係がないところへ来てしまったと思った矢先、鳥の巣の方の片隅に見慣れたメイド服を発見した。鳴き喚いている雛鳥が興奮してとことこと歩き回っているのだが、その羽根に挟まれていた。ぐったりとしていて、意識がないことは見て取れた。
「PIIIIIIII,PIIIIIIIIーーーーー!!」
クロウを運んでいる黒トサカ鷲は、仲間の方へと加速する。加勢しに行くようだ。
だが、そちらに用はないので適当なところで手を離すことにする。
鳥の巣とはかなりの距離があるが迷っている暇はなかった。完全に飛び込むような形で鳥の巣を目指して落ちてゆく。
目指すは雛鳥の身体だ。緩衝材代わりで衝撃をやわらげてくれるに違いない。
しかし、空中を物凄い勢いで急降下しているうちに気づく。
これ、方向転換ができないな……?
人間は空を飛べない。つまりは、自由に方向も決められず、調整もできない。身体を傾ければそちらへ曲がる、などという単純な話ではなかった。
これは危険だと今更に感じて、心の中で叫ぶ。
(ラクシャーヌ、起きてくれ!まずいことになった!)
大分遅すぎる気づきで相棒を叩き起こそうと試みる。
そして、クロウは目標の鳥の巣の大分手前、樹々の葉が密集している森の屋根へと突っ込んでいった。




