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ティレムというのは間近で見てもなんとも形容しがたい。
オホーラ曰く、マナが固まったようなものということだったが、その質感も色も形状も視覚でとらえていること以上の何かを感じさせられる。
自然物ではないのは明白であっても、何か近いものに例えなければ説明はできないのが世の常だ。比喩や近似でしか人は物事を伝えられない。
しかし、適切な表現が思い浮かばない。
塔の魔物、縦に長い魔法岩人形、あるいは単なる壁、などと好き勝手に呼ばれるのは、そうした不可解さの証左でもあるだろう。
そんなティレムに四方を囲まれた状態で、クロウたちは一息ついていた。
何万匹はいようかという蟻の魔物軍団の襲撃の最中だった。
その一匹一匹は小さく、たいしたことがないとしても、数百匹に一気に群がられればただではすまない。数の暴力とはよく言ったものだ。いつのまにか衣服の隙間から侵入されていたものを払い落とした。一部毒持ちもいたようだが、数か所刺されたくらいでは大丈夫だと賢者が保証した。裏を返せば、あのまま戦い続けてその数か所が増えていたら危険だったということでもある。
しばらく、蟻を見る目が変わりそうだ。
それらすべての攻撃を今、ティレムは完全に防いでいるのだからたいしたものだった。
「これがココの嬢ちゃんだってのは未だに信じられねぇな」
ステンドがティレムの壁を確かめるように軽く叩きながら言う。跳ね返る音はあるようで、ない。聞こえた気もするし、しなかったようにも思う。とにかく曖昧で不可思議だった。
「うむ。これほど強固な壁を人為的に作れるというのは、是非とも魔法で実現してみたいものじゃが……ココという媒介が必須であるのなら、純粋な魔法での実現は相当難しい」
「オホーラ様、さすがにその発言は配慮が足りていないかと思います……」
ウェルヴェーヌの苦言に、賢者は慌てて咳払いして謝罪する。
「おっと、うほん。すまない。魔法のこととなると我を忘れてしまう。悪気はないのじゃが」
このティレムはココが変態しているもので、その能力は決して本人が望んで手に入れたものではない。むしろ、非道な実験か何かで無理やり身に着けさせられたようなものだ。ウェルヴェーヌが口を挟むのも無理はない。それが人の優しさや思いやりというものだとクロウは理解はできるようになってきたが、やはり共感はできていない。
未だにそうした心の機微というものが掴めなかった。
「でも、本当に不思議っすね」
イルルもその壁をなぞるように手で触れている。みな、どうしても好奇心で触ってみたくなるらしい。
関心がなさそうなミーヤですら、つんつんと指先で無意識のように確かめている。
「それにしても、まだなのか」
クロウだけは上を見上げていた。
ティレムの中央には、人間一人が乗れるだけの四角形の台座が浮いている。そこにいるのがユニスだ。
無数の中から蟻の女王を特定するため、その側近である近衛の役割をしている特殊な蟻のマナを探索している。この防衛はそのためのものだった。
「ふむ、多少はっぱをかけるべきか」
オホーラがそう言ったとき、「見つけたっ!あ、あああっ!?」と言う声が頭上からして、ユニスが降ってきた。
魔法に集中していたため、自分が高所の足場に載せられたことにすら気づいていなかったのだろう。我に返って妙なポーズが解けたとき、バランスを崩しての案の定の結果だった。
そのまま地面に激突かと思ったものの、「よっ」という掛け声と共に浅葱色のマントを翻してどうにか片膝をついて着地していた。この器用さも予想通りだ。落ちても平気な男だと信じていた。決して面倒で対策をしておかなかったという話ではない。
「僕を玉座に載せたなら、そう言って欲しかったね」
膝の埃を落とすようにパンパンと叩きながら、ユニスは減らず口を叩いた。
「おぬしの玉座は一歩動くと足を踏み外すような場所だということか。己の器を理解しているとは、なかなかに関心じゃな」
「なっ、そ、そういうわけでは……」
「それより、特定できたのか?こっちはずっとそれを待っている。ココの防壁も無限じゃないんだ。さっさとカタをつけたい」
「ああ、うん、勿論さ。この方角にある……って、見えないじゃないか!」
目の前にはティレムの壁。どの辺りだと指を差されても分かるはずもなかった。
「おい!まさか、今ので見失ったんじゃないだろうな?」
ステンドの少し慌てた声にユニスは首を振る。
「バカを言っちゃいけないよ。僕の魔力探知がそんな目視だけなんてあり得ない。しっかりと印となる魔力の枝を付けているよ」
「ならば、その印を光らせよ。クロウ、一気にその光に向かって突っ込み、剣風でも何でもよいから上方へ巻き上げるのじゃ。速度が命じゃ。相手に悟られて地中へ逃げ込まれたら負けだと思え。他の者はクロウが飛び込める道を作るがよい」
「光らせるって、簡単に言ってくれるなぁ。できるけど」
「はん、オレたちは露払いをしろってか。オーケー」
あっという間に行動指針が決まった。元々そのための防衛だった。準備はいつでもできているということか。
(シロ、ココのこの状態はすぐに解除できるもんなのか?)
(可能だ。我が合図を送ればよいが、おそらくは長殿の呼びかけでも問題ないと思う)
(俺でも?)
(ラクシャーヌ殿を通じて我らは何らかの力でつながっているのを感じる。その呼び名は知らぬが、ココに届かぬ道理はないと考える)
そういうものなのか、とクロウは納得した。原理や仕組みに興味はない。
「じゃあ、いいか?」
クロウはステンドたちを見回す。各々が武器を構えて頷いた。
ティレム状態のココの一部を軽くコツコツと叩く。それで本当に伝わるかどうかなど分からない。だが、気にせずに続けた。
「三秒後に解いてくれるか、ココ。3、2、1」
その瞬間、手の感触が消え去った。まるで初めから何もなかったかのように。
ティレムが消失した途端、夥しい数の蟻たちが目の前で地面に落ちてゆく。おそらくティレムの壁に張り付いていたのだろう。
更に視界のその奥で、ぼんやりと光る箇所があった。大木にでも群がっているのか、目線の高さで淡い輝きがあった。
別の蟻の一団の塊の中、ユニスが特定した近衛の蟻がいるのだ。そしてその付近に女王蟻がいる。
そこへ至るまではそこそこの距離があり、その間にはびっしりと多数の蟻たちが地面、下草、樹々の間を埋め尽くしている。密集して敷き詰められたその様は、一つの巨大な闇が波打つようにすら見えた。錯覚だと分かっていても、それは不気味に蠢き、音もないというのに圧迫感が迫る。
「我が33の美技の一つ、玲瓏突進術、参る!」
しかし、ブレンはそんな闇の海に向かって臆することなく盾を構えて突っ込んでいく。単に盾を前に走っているだけであるし、前に聞いた美技名と違っている気がしたが、その勇猛果敢さには間違いがない。
その行動で他の者も一斉に攻撃を始めた。
クロウは腰を落として静かに準備する。あの光へと届く道ができる一瞬を逃すまいと、冷静に状況を見極める。
蟻軍団も敵を再び見つけたと押し寄せてきていた。
それに対して、ミーヤが大地をめくるようにその怪力で地面を持ち上げて弾き返す。その横でステンドが「ふん」と何かを振り回す。先程まで巨大な布を振るっていたが、今はその布が細長く変形しており、長槍何本分の長さかと見紛うばかりの距離で伸びていた。長い棒に暖簾のようなものがぶら下がっている形状だ。
それを右から左へと移動させるだけで、蟻たちが根こそぎ刈り取られるように地面から一掃されていく。攻撃というよりは、掃除のような機能を果たしている。文字通り、クロウの道を作っているのだ。
まったく見えないが、後方からはイルルやウェルヴェーヌが蟻たちの接近を防いでいる音も聞こえる。
「ブレンが右へ逸れたら勝負じゃぞ!」
今もクロウの頭の上に載っているオホーラが鋭く叫ぶ。
その進言を聞くまでもなく、クロウの身体は動いていた。ブレンの突進が進行方向の射線から抜けたとき、蟻の絨毯が薄れた場所を駆け抜ける。ぶちぶちと踏みつける蟻たちの感触を感じながら、一気に間合いを付けてゆく。
純粋な物理的な剣術だけではたいした範囲を巻き込めない。剣の攻撃範囲は決して広くはない。
だが、クロウにはアテルがいた。
(アテル、俺の剣を中心に適当に広がっていてくれ)
(はいなのです!)
クロウの剣刃からアテルがその黒い体を伸ばしていく。不思議なことに、クロウにはその重さはまったく感じない。広がった分だけ空気抵抗もありそうなものだが、それもなかった。
だからクロウは難なく剣をすくい上げるように振り払い、その剣風が無数の蟻たちを巻き上げた。
ユニスが光らせた印の蟻もしっかりとその中に含まれている。
小さな竜巻に吹き上げられたかのようなその黒い一団を見上げる。女王蟻があの中にいるはずだった。賢者曰く、形よりも魔力、マナの在り方で判別がつくとのことだ。
魔法関係に疎いクロウにできるのか不安だったが、アテルやラクシャーヌをその身に宿しているならば自ずと分かるはずだという。
感覚を信じろと言うのならそうするしかない。
砂塵のように上昇していくその一群を睨んでいると、視界の右端に何やら気になるものが映る。それを何かと言われても自分でも説明がつかないが、違和感のようなものだろうか。
直観を信じてその落下時点へと移動する。
逃がさぬようにアテルに頼んで捕獲した。対象を無抵抗で包み込めるアテルの能力は稀少だ。
その頃には、大量の蟻の軍団は沈黙していた。女王蟻が敵の手に落ちたことで統率を失ったのか、攻撃する姿勢がまったく見られなくなっていた。
「要するに、そこに女王蟻がいるってことでいいんだよな?」
ざわめきが引いていった森の中で、ステンドが確認する。
女王蟻を捕らえたアテルは、他の余計な蟻をすべて吐き出して、その一匹だけをその身に包んでいる。いつもの卵型の姿でクロウの手のひらに立っているが、少し違うのはその右手のような棒状の先に、四角い黒い箱がくっついていることだ。そこに捕獲しているのだ。
「うむ。とりあえず、これで一息つけるじゃろう」
「で、こいつを捕まえて次はどうするんだ?」
オホーラは何か聞き出すというようなことを言っていたが、いくら知性がある蟻だとしてもしゃべることはあるまい。
「この女王蟻は高度に魔物化しておるゆえ、アテルあたりなら何かしら交流できるのではないかと思っておる」
「だ、そうだが、どうなんだ?」
アテルに尋ねると、「はい!」と元気のいい返事が返ってくる。
「この蟻さんは言葉はしゃべれませんが、なんとなく言いたいことは分かる気がするのです」
「ならば、この森を他の人間が通ったかどうか聞いてみるがよい」
オホーラの言葉にうなずくと、「ふむふむふむ……」とアテルは女王蟻と何らかの交流を始めた。
おそらく、人間種にはまったく理解できない何らかのやりとりが行われているのだろう。
皆でそっと見守る中、しばらくしてアテルが「分かったのです!」とその小さく細い手のようなものを挙げた。
「二足歩行するご主人様のようなものが、確かにこの森を通り過ぎるのを見たらしいのです」
「ほぅ……それは我らと違い、一人だったということか?」
「はいなのです!」
「そりゃ、ガンラッドってことか?」
「個体差は認識でないので、分からないのです」
ステンドの質問にアテルはすまなさそうに首を振った。
「そ、そうか。けど、少なくともこっちの方角であってるってことだよな」
「ええと、でも、どうして蟻はガンラッドを襲わなかったのでしょうか?鈴でもぶらさげていたのでしょうか?」
「鈴は熊除けであろう?魔物化したものを避けるための道具はあるにはあるが、それぞれ特定の対象用じゃ。獲物として別に旨味はなかったのではないか。大量にそやつらの餌を荒らしておったのなら話は別じゃが、縄張りを横切ったくらいでは素通りさせるじゃろうて」
「え?じゃあ、自分らはどうして襲われたんすか?」
「餌としてそれなりに美味そうだったんじゃろう。魔物である以上、判断基準はおそらくマナじゃからな」
どことなくその視線はクロウの方に向いている。
「ん?俺は美味いのか?」
「というか、多分転生人の特性かもな。魔物は、オレたちの魔力を好むって話は聞いたことがある。ほんとかどうかは知らねぇけどよ」
同じような経験があるのか、ステンドの顔は苦り切っていた。
「そうか。で、そいつはどっちの方角に行ったか分かるか?」
アテルの返答で、再び進むべき方向は定まった。
女王蟻については、二度と人を襲うなとアテルが諭すことで、逃がすことにした。
今後もこの森に迷い込んだり、通ることがあるかもしれない探索者のことを考えると、ここで女王蟻を殺して遺恨を残さない方がいいという判断だ。
そんな約束を魔物が守るのかどうか疑問だったが、多少は知性がある女王蟻だ。きっと意味はあるのだろう、多分。
仲間の死骸を片づける蟻たちの群れを背後に、クロウたちはその場を離れる。
森はまだまだ深く、追跡は続くのだった。




