7-2
蜘蛛がどこかに逃げ去っていた。
ただの蜘蛛ではない。オホーラの化身、使い魔の蜘蛛だ。
突然言葉が途切れたかと思うと、その身体からも抜け出たようだ。自身の意思ではないだろう。
ステンドたちが異変を警告したのと同時であったことから、何らかの異常が周囲に起こっているのは間違いない。
クロウは注意深く辺りを見回す。
人の手が介在していない天然の森、原生林だ。それほど大きな幹の樹木ではなく、大人の人間二人ぐらいの胴回りの樹々が乱立し、大小様々な草木がその合間を埋めているかと思えば、まるで道のように細長く続く空地のような場所も点在しており、密集した草木ばかりではなかった。
四方八方を囲まれた森の中で、しかし特におかしな点は見られない。少なくとも見える範囲では。
「何が起きてるんだ?」
誰にともなく呟く。
「分からねぇが、多分結界みたいなもんに取り込まれたとか、そういう感じかな気がする」
「同意。マナの匂いが違う」
「探索装置に何か反応はないのですか?」
ユニスが首を振る。
「残念ながら特に異常はなかったよ。これは人の魔力に反応するものだからね。でも、ミーヤ君の言う通り、突然マナの質が変わったのは事実だね。大方、帽子君が何かのスイッチでも踏んで結界が発動したんじゃないかな?予め場所指定でもしていない限り、一瞬で取り込まれるなんてことはないはずだよ」
「は?そんなヘマしてねぇよ!」
「何にせよ、オホーラの接続が切れたのはそのせいか」
「未知の魔物のせいかもしれませんけど、まったくその気配がないのもおかしくありませんか?」
ウェルヴェーヌが言うように、次に疑うべきは魔物の仕業辺りだろう。
「森の中で注意すべきなのは魔物、動物や植物以外にもある」
ミーヤが辺りを警戒しながら言う。
「ああ、オレもその可能性が高い気がしてきたぜ。普段はまったく気にしなくていいんだけどよ、こういう原生林とかではバカにできねぇ存在があるんだ」
「あっ、昆虫!」
ステンドたちの示唆に閃いたのか、イルルが叫んだ。
「それは魔物化した昆虫が危険だってことか?」
「多少の巨大化とか知能が芽生えた程度の単体なら問題ない。群れが厄介」
「ああ。奴らを小さいからってバカにしてるとマジで死ぬ。統率の取れた昆虫の大群は見かけたら近寄るなってのが探索者の中じゃ鉄則だ。手が付けられねぇからな」
「で、今回のこれがその昆虫だって根拠は?」
二人が危惧する脅威がいまいち分からないが、物量で攻められることの厳しさは何となく理解できる。
「結界云々じゃなく、これが何かの縄張りの罠だったら、ちと納得がいくというか……」
「その場合、帽子君の不注意ということになるんじゃないのかな?」
言葉を濁したステンドにユニスが嫌味をかぶせる。
「うっ……!正直、否定できねぇ……」
「別にお前一人の責任じゃない。とりあえずその真偽を確かめた方がいいんじゃないのか?何か方法はないのか?」
「可能性があるのは蟻か蜂。女王系のリーダーが存在」
「そうだな。けど、蜂なら羽音で気づく。オレが疑ってるのは蟻だったんだけど……ビンゴだったわ」
ステンドが足元を蹴って、その場所を指し示す。
何かにたかる蟻の列ができていた。
「蜂じゃないけどハチミツはここに、なんてな……」
都合よく地面にあるはずがない。ステンドが仕掛けたのだろう……携帯していたということだろうか。気になるが今は放置する。
「くだらないことを言わないでください。それで、これが野生の自然な蟻じゃないという証拠はあるのですか?」
ウェルヴェーヌの冷たい視線がステンドに突き刺さる。人によっては胃が痛くなりそうな鋭さだが、まったく意に介していない先導者は笑いながら、ぱちんと指を鳴らすとその指先を茂みの方へと動かした。
「まぁ、あの辺を見てな。証拠が出て来るかもしれねぇ。知ってるか?蟻の群れってのは働き者とサボり屋がたいてい2対2で割れるんだぜ。全体の四割が対極になるってこった」
「意味が分かりません。それとこれと何の関係が?それに他の六割はどこに?」
「他はつまり普通の奴らってことだ。んで、まっとうな人間社会だと『不平等だーっ!』て叫ばれるようなその状況でも、蟻のサボり屋どもは放置される」
「……要するに蟻の社会は腐っていると言いたいのですか?何もしない能無したちが、過去の栄達の資産だけでのさばってる国のようだと?」
「いやいや、そういうことを言いたいんじゃねぇよ。いきなり社会風刺を挟まないでくれ。混乱するぜ。とにかくだな、そういうサボりの蟻も有事の時には働き者に変わるシステムなんだ。良く言えば予備軍ってわけだな」
「なるほど。けれど、まだこの話のつながりが見えませんが?」
「焦るなって。ここからだ。今言ったみたいに普通の蟻の集団なら、今ここに集まってきたサボり屋は放置されるはずなんだが――」
そこでミーヤがうなるように後を引き継ぐ。
「それを許さない他の蟻がやって来たら、それが魔物化した蟻の証明になる」
その言葉と同時に茂みから何匹もの蟻が飛び出してきた。ハチミツをなめている蟻とは体格がまったく違う。二回りほど大きく、動きが機敏だ。その牙も恐ろしく鋭利で研ぎ澄まされていた。魔物の蟻の群れは、サボる集団を許さないということか。
「というわけで、ヤバいのが確定。ユニス、風魔法で魔防壁を頼む。土系は効かないから気を付けろ」
どうやら蟻の魔物が今回の犯人のようだが、まだ腑に落ちていないことがある。
「蟻がどうやってオホーラを追い出したんだ?」
「あのな、クロウ。今はそれより警戒しろ。小さいからってなめてると死ぬぞ。やつらは物量で押してくる。数千匹に一斉にたかられてみろ、数秒後には骨だけになってるぜ?」
一気に群がられるとそういう事態もあり得るのか。想像するとなかなかにえぐい攻撃だと思った。
「全部風で巻き上げろってことかい?あまり風系は特異じゃないんだけどな――」
そう言いながらもユニスが装置を一旦地面に置いて、魔法の準備をしようとする。
「あれ?これって……」
「くそっ、やっぱ魔力減退系の結界かよ。一気に強めやがったな」
ステンドが悔しそうに言いながら周囲を見回している。
まったく話について行けていなかった。クロウは説明を求める。
「いま、オレたちは多分アホみたいな数の蟻の集団に囲まれてる。んで、その蟻がある種の魔法陣を自分たちで築いていると思えばいい。魔法士が大地に直接描く代わりに、蟻自身がその文様になってるみたいなもんだ。しかも、奴らは地中にいることもできるからな。オレたちから完全に隠れているわけだ」
その魔法陣でこちらの魔力が制限されているということか。それならば、その影響で賢者との接続が切れたのも納得が行く。事前に気づけなかったのかという疑問はあるが、既に起こったことを考えても仕方がない。
いまどうすべきかに目を向ける。
「何か、打開策は?」
「どんな形でも魔法陣ってやつは、要石的なやつが必要だ。特に場所に作用する場合にはな」
「要石?」
「家で言う柱となるような土台を支えるものってイメージだよ。魔法陣は精密にできてるからね。その柱が少しでも崩れると結構簡単に崩壊する」
つまり、それを破壊すればいいということだ。
先程からステンドやミーヤたちが周囲に目を光らせているのはそれを探していたということらしい。
どんな形状なのか聞こうとして、クロウは眼前に何かが飛んできたのを見て反射的に手で払いのける。何匹かの蟻が地面に落ちた。
「羽蟻タイプもいるのかよっ!?」
今のは飛べる蟻だったようだ。他の皆も眼前に飛び込んでくる小さな虫を振り払っている。
「ケツに毒針持っているやつもいるかもしれねぇ。口や鼻から入ろうとするのにも気を付けろよ」
次々とステンドが物騒なことを言ってくる。確かに小さいからとバカにできない敵だ。素手で払うのも危険か。
「これ、魔力減退って感じじゃないよ。色々と何か吸い取られてる感じがする。早く壊さないとまずいね」
「良く分からないが、我が麗しの大楯で突破口を開けばよいか?これしきの小さき者がどれほど群がろうと我が美技の前には無力!」
「オマエ、話聞いてなかっただろ?一人で突っ込んでいったら、あっという間に蟻だらけの服を着ることになって、中から食い破られるぜ?てか、既に鎧の表面びっしりついてるぞ……」
「なんとーっ!!!?」
ブレンの鎧はブリガンダインと呼ばれるタイプで、革生地の裏に鋲を打って防刃している。基本的に隙間なく埋めているはずだが、人の手作業である以上綻びはあるし、蟻のサイズだとその隙間を抜ける可能性はある。
派手な装飾がされた表面を手で振り払っているブレンの案は即座に却下された。
「とにかく、その要石を壊せばいいんだな?どんな形をしてるんだ?」
クロウは改めて怪しいものがないか見渡してみるが、薄暗いのでたいして見える範囲が広くない。人にとって光というのは大事なのだと思い知らされる。
「それはオレにも分からねえ。前に見たときは数千匹の蟻が変なオブジェみたいに固まってたぜ。統率してる女王蟻次第って話をどっかの学者が言ってた気がする」
「範囲外に出ようとすると見えない壁に当たる。その境界線上に必ず一つはある」
ミーヤの助言にステンドが首を横に振る。
「いや、一般的にはそうなんだが、さっきも言ったように蟻の結界の場合は地面の下も考慮しなきゃならねぇ。平面じゃなく立体的に考えると、例えば地上の四隅の境界をまわっても見つからねぇ可能性があるわけだ」
「む……撤回する。必ずは過剰」
「あー、割り込んで悪いけど、早く何かすべきだね。これ、僕らのやる気も削いでる。昆虫が精神干渉の魔法を使うとか信じたくないけど、ここが太古の地下世界の名残ならかつていた強大な魔法を使う生物がいても不思議じゃないよね?」
浅葱色の絹のマントで身を包みながら、ユニスが躍るようなステップを踏みながら言った。何をしているのかと思えば、増えてきた羽蟻の襲撃から身を守る動きらしい。
「統率してるやつがいつなら、それを叩くのがセオリーだよな?」
クロウは今までの話をまとめてそう判断する。いつのまにか足元の地面にも大量の蟻が行進してきおり、さながら蟻の絨毯といった様相で迫ってきている。半数を踏み潰せても、残りが足から登ってきただけで厄介なことは想像に難くない。物量の恐怖というものが目の前にすると良く分かる。
「その居場所が分からねぇのがヤバいんだよ」
(ふん、何やら小さいのがわらわらおるようじゃな。やけにうるさいと思っておったら、どこぞの巣に迷い込んだのかえ?)
不意にラクシャーヌが目覚めたようだ。危険がなければ眠っているはずなので、それなりに今この状況が危ういということか。
(女王蟻とやらがいるみたいなんだが、お前分かるか?)
(わっはっは!わっちを誰だと思っておる?蟻ごときの王なぞ片腹痛いわっ!)
寝起きだというのに威勢よく高笑いをすると、ラクシャーヌはクロウの中から飛び出していきなり地面に向かって拳を突き立てた。
「ラクシャーヌ様?何を――」
驚いたウェルヴェーヌが言い終える間もなく、大地が揺れた。
地面に向かって何か魔法を放ったようだ。しかし、その衝撃で地震が起きたのならどれだけの威力なのか。いや、局所的であるならあり得るか。問題はその意図だ。
その答えにユニスがいち早く気づいた。
「そうか!地中に魔力波を送ってこの結界をかき乱したんだ。その美しい発想はなかったよ」
「そもそもそんな魔法、この状況じゃできねぇだろうが。相変わらず、ラクシャーヌはとんでもねぇ」
ここにいる者は皆、災魔であることは既に知っている。魔力減退だかの結界の影響がないのか、あってもものともしていないのか。いつものツナギ服姿のラクシャーヌは、腰に手を当てて仁王立ちしていた。
「ふむ、一応最低限の気概は持っておったか」
「どういうことだ?」
「曲がりなりにも女王気取りであるなら、わっちの挨拶で出て来るであろうよ。臆病風に吹かれるような王についていく民などおらぬ」
「下に女王蟻がいるってことか。なるほど、今のは宣戦布告みたいなもんだってことだな」
「たわけっ!目下の者にそんなことするわけがなかろう?今のは出てこぬと壊すという脅しじゃ。辺り見て見るがよい。雑魚どもはみな、わっちの威光にひっくり返っておろうが」
言われて周りを見ると、行進していた黒い蟻の大群が、その足を止めてその場で文字通り裏返っていた。
ラクシャーヌの魔法の余波を受けて痺れているようなものだろうか。それほどの力の差があるのなら、確かに女王蟻はねぐらに籠っているわけにはいかないだろう。力を示さない王など、張りぼて以外の何物でもない。蟻社会がどうだか知らないが、畏怖や威厳というものは行動でのみ証明され、だからこそ王は頂に立つ。
そんな災魔の挑発に乗ったのか、恐れをなしたのか、あるいは怒りにかられたか。地中からドドドド、と轟音を響かせて何かが飛び出してきた。
まるで間欠泉のように水柱の如く大量の蟻が吹き上がり、瞬く間に巨大蟻へとその形を変えていく。大量の蟻が集まって一体化しているようだ。
驚くべき光景に唖然としていると、あっという間に一匹の黒光りする蟻の顔が地上に表出していた。その鋭い牙は二メートルはあろうかという大きさで、複眼の目がぎょろりとクロウたちに向けられた。大抵の者ならそこで腰を抜かすだろうほどに恐ろしい姿ではある。
だが、ラクシャーヌは鼻を鳴らしてつまらなそうに言った。
「やはり、この程度の小物じゃったか」
女王蟻も相手が災魔だとは思うまい。少し同情を覚えた。




