6-9
「―――っ!?」
耳の痛みに気づいてクロウは目を覚ました。
次いで、自分が岩肌に横たわっていることに気づく。
「起きたかクロウ!ぼやっとするでない!皆を早く下がらせるんじゃ!」
耳元で蜘蛛のオホーラが叫んでいる。
その言葉で洞窟内を歩いていたことを思い出す。急に妙な夢を見たこと、その内容が不思議だったことが脳裏によみがえる。
あれは夢だったんだよな……?
よく分からなかったが、今は賢者の助言の方が大事そうだった。
素早く周囲を見回す。松明が落ちていて、ミーヤが倒れていた。ロレイアやイルルも同様だ。皆、眠っているようだ。
紫の霧が視界を覆っている。いつのまにこれほど広がっていたのか。
とにかく、全員を引きずるように後退させる。自分もいつまで起きていられるか分からない。
できるだけその霧を吸わないように全員を範囲から遠ざけた。
「皆を起こしてさらに後退せよ。ここもまだ安全だとは限らぬ」
「分かった」
今は素直に従うのみだ。ぺしぺしと頬を叩いて起こして回る。
「……あれ、眠っていた……のですか?」
「不覚。いつのまに……」
とにかく急いで洞窟の入口の方へと戻ると、ウェルヴェーヌが心配そうに駆け寄ってきた。
「クロウ様。何かあったのですか?」
予定より大分早い帰還だ。すぐに察せられた。体調に異常はない。ココが少し虚ろな状態のようだが、精神的なものだろうということで休ませれば問題なさそうだ。
とりあえず、小休止をしてから皆で状況確認をすることにした。
「いつのまに霧に取り込まれていた?何か気づいたやつはいるか?」
車座になって先程の状況を振り返る。
「正直、覚えていないっす。なんかふわっと眠くなって、次の瞬間にはもう……」
「ごめんなさい。私も警戒していたはずなのに、風の魔法を使う暇もなく気づいたら気を失っていたみたいです……」
イルルとロレイアが悔しそうに言う。
「奇妙。霧は気体。流れてくる速度は遅いはず」
ミーヤが冷静に分析する。言われてみると確かにその通りだ。通常、空気中に留まっているのが霧であり、風のように流れて来るとしても、それほど早くはないはずだった。しかも、紫色で視認しやすい。そんなものを見落とすとは思えなかった。
「いや、ちと違うな、ミーヤ。詳しく話すには色々と前提知識が必要なゆえ、大雑把にいうとじゃな。霧とは見えない水蒸気のようなものだ。今回はキリキノコの胞子がその水蒸気と同様のものだと考えるがよい」
「むぅ?」
ミーヤのうなり声のようなものは、他の皆も同様でなかなかに賢者の説明を理解できていない。概ね、ミーヤと同じ感覚でとらえていたからだろう。
クロウも同じような感覚だったが、自身の知識の中にもう少し分かりやすい例えがあった。
「霧って確か、原理的には空に浮かぶ雲と同じなんだよな?」
「うむ、その方が理解できそうか?雲が地上に近いものを霧と呼んでいるとも言える」
「え、そうなんすか?」
「雲と霧が同じ現象……だとしたら、やっぱり速度は遅いはずでは?」
「いや、雲がゆっくり動いているのを言っているのだとしたら、それは錯覚じゃ。あれは遠いゆえにゆっくりに見えるのであって実際はそれなりの速さで移動しておる。同様に、霧の移動もも流れがあればかなり早い。規模にもよるのじゃがな」
「そうなのか?」
クロウにはその辺りのことはさっぱり分からなかったが、賢者が言うのならばそういうものなのだろう。
「なら、俺たちは一気にその霧に飲み込まれたってことか?でも、紫色が目前まで来てたんなら、気を失う前にさすがに気づかねえか?」
「うむ。そこよ。わしが気になっているのはその点じゃ」
「ええと、横から失礼します。聞いていますと、オホーラ様は大丈夫だったご様子ですが、蜘蛛だからですか?」
そう言えばそうだ。賢者はクロウが目覚める前からこちらを起こそうとしていた。実際に、耳を噛まれたということは眠っていなかったことになる。
「蜘蛛じゃからというか、使い魔として操っている間はその全身を魔力で覆っているような状態ゆえ、外界からの刺激に強くなっている、という説明になるかの」
「なるほど。そのような理由でしたか。話の腰を折って済みませんでした」
ウェルヴェーヌが一礼して下がると話が戻る。
「それで、気になっているのはあの霧の出現の仕方ってことか?」
「そうじゃ。夢紫の霧にそれなりに速度があるとしても、お主の言うように何かしら兆候はあったはずじゃが、それが一切なかった。いきなり周囲を覆われたという感じであった。で、あれば前方から吹き付けてきたというより、下方から吹きあがってきたと考えるのが妥当かもしれぬ。上からも考えられるが、横穴の天井はなかなかに高い。距離的に足元からの方が時間的には合点がゆく」
「オホーラはずっと意識はあったんだろ?分からねえのか?」
「お主の頭の上じゃったからな。クロウが倒れた時には既に霧に包まれておって、発生源は確認できなんだ」
「下からってことは、地面の岩の中にキリキノコが隠れてたってことっすか?」
「不可能。さすがに気づく」
イルルとミーヤが首を傾げる。キノコが足元にあったのなら分かるはずだ。だが、賢者は否定する。
「いや、わしらはキリキノコの正確な形状を知らぬ。ワゼル王が持ってきたものをよく見たか?あれはキノコ類の一部のようではあったが、全体像が一般的なそれとは違う可能性が高い」
「確か、ワゼル様は朦朧とした状態でかろうじて逃げ出した時に、偶然何かをつかんで持ち帰ってきた、というように話されていましたね。後で見て、キリキノコだったのではないかという推測でした」
「そうか。ちゃんと確かめたわけじゃねえってことだな?」
「詳しくは不明じゃが、地中から広がるタイプのものであってもおかしくはない。もう一度、今度は足元にも気を付けて確かめるべきじゃ」
「もっと慎重に行くってことか」
「うむ。わしに考えがある――」
クロウはゆっくりと歩を進める。
横穴の冷たい空気にまだ変化はない。
今回はクロウが単独で先頭を歩いている。大分距離を開けて、その後ろをロレイアが続いている形だ。二人は蔦のロープで結ばれており、定期的にそのロープを引っ張って合図を交わしている。賢者が考えた安全策だ。
一定の距離でローブは完全に伸びきった状態になってクロウは進めなくなる。そこからロレイアが決まった歩数を前進し、また合図を送ると、今度はクロウがその歩数分先を進むと言った順序だ。この形でなら、ロープが伸びきらないまま時間が過ぎ、合図もない時にはクロウに何かあった可能性が高い。ロレイアは風の魔法を発動させながらクロウを追えるという寸法だ。
最悪、ロープを手繰り寄せればクロウも回収できる。その場合「引きずられて岩肌で傷だらけになるんじゃねえのか?」というクロウの指摘は無視された。その痛みで途中で起きるかもしれぬし一石二鳥だ、というオホーラの返しで拒否権はなかった。
「それで、おぬしはココの夢を見たというのか?」
クロウは先ほどの夢を賢者に説明していた。
「多分、シロも出て来たし、そういうことなんじゃねえかな、と」
そのシロは現在、クロウの内部ではなくココの中に戻っている。ココも何か嫌な夢を見たようで、今はずっと膝を抱えて大人しくなっている。シロによると何かトラウマのようなものが蘇っている状態で、そっとしておくのが良いとのことだった。
「ふむ……?おぬしの場合、ラクシャーヌやらアテルやら、色々と中におるからそういうこともあるのやもしれぬが……もしかしたら中のシロを通じて、一番近くにいるココと共鳴したということかもしれぬ」
「ラクシャーヌたちは魔物だし、元々寝てたしな……そういう意味じゃ、確かにココの影響を一番受けやすかったのか。けど、俺自身よりそっち優先なのか?」
「転生人だと夢紫の影響度が弱いという可能性も考えておる。ゆえにこそ、ココの方に流れたという見方もできなくはないが、現時点でそこは解明できぬじゃろうて」
「まぁ、そうだよな。そういや、アテルの時もなんだか同じようなことがあったな。どうにも他人のそういうもんを見るのは気が引けるぜ」
「ふむ?そういう体質ということもあり得るが、精神的に違う種族の感情などを抱え込むのは危険な気もする。あまりお薦めはせぬ」
「別に好きで見てるわけじゃねえよ……中身的にありゃ、あいつらの過去っぽかったしな。ココたちにとっての悪夢が誘発されたってことなのかね」
「そうじゃな。前にも言ったが、怖いもの見たさの心理が何らかの過去とつながって悪夢の続き、みたいな形で再現されたのかもしれぬ。最近、例のウガノースザという宿敵の名前を思い出したこともあって、刺激されたという推測もできよう」
「思い出したくない過去なら、ない方がいいのかね……」
クロウにはその辺りはよく分からなかった。自分に関する限り、いきなりラクシャーヌに殺されそうになるところからしか過去がない。しかし、あのまま殺される夢を延々と見続けたいかと言われると、そんなことはないと思う。いまいち、怖いもの見たさという感情は理解できなかった。
そうして何度目かのロープでの合図を送っていると、不意に妙な気配が前方から漂ってきた。
「オホーラ、何か変な感じがするんだが、気のせいか?」
「いや、その感覚は間違っておらんじゃろう。明らかに空気が変わった。先程までにはなかったものじゃ。状況が変わったのやもしれぬ。念のため、異変ありの合図に変えるがよい」
ロープの引き具合で状況の変化を予め伝えられるようにはしてある。
クロウはロレイアに送り直してから、改めて前方を見つめる。松明で照らされた暗がりには、少なくとも目に見える変化はない。
足元もしっかり確認しておく。ごつごつとした岩盤の地面だ。やはりおかしなところはない。
「……見ても分からねえし、進むしかないよな」
クロウは更に警戒を強め、一歩ずつ着実に先へと進む。
霧のようなものは見えない。紫の色はそこにはない。
しかし、賢者が警告する。
「待て、クロウ。何かおかしい……」
「何がだ?」
その場で止まるものの、クロウには異変は感じられない。いや、わずかに異音がした。今までになかったノイズだ。
「……何の音だ?」
横穴内はその性質上、様々な音が反響し合って出元を探るのは難しい。
辺りをきょろきょろと見回しても、音の出所の特定はできない。ただし、近づいて来ている気がした。
「ん、下がるべきか?」
「いや、ここで迎え撃つ気構えでいた方が良さそうじゃ。下手に後退しても、まずい予感がする」
「そうか」
そうと決まれば何かを待つだけだ。既に、それは疑惑から確信になっている。確実に何かがこちらへ向かってきている。
音の正体は分からないが、どうやら岩壁かあるいは足元か、見えない場所を這っているような音のような気がしていた。形容しがたい不快な音だ。籠っていながらどこか耳に障る。
剣を構えながら油断なく周囲に気を配る。
地中からという可能性も考えなくてはいけないので、気が休まるときがない。
と、そこへ後方からロレイアが追いついてきた。
「クロウ様、どういう状況ですか?」
振り返って答えようとした瞬間、右の方から何かが伸びてきたのが視界の片隅に映る。
シュッ……
鋭くその何かを反射的に斬り飛ばすと、もわっと霧が噴き出してきた。
「これが正体かよっ!?」
「いかん!下がれ!」
賢者に言われなくても、この場は危険だと分かっている。
ロレイアと共にまたもや退避行動に移ろうとしたとき、一気にそれは牙を向いてきた。
四方八方から素早く鞭のように蔦が飛び出してくる。
岩の中を這いまわって音を立てていた正体だ。
そして、その先端にはお馴染みの傘のあるあの形が見えた。
キリキノコは地中から生えるのではなく、何らかの植物の触手の先にあるものらしい。
背を向けて逃げるには数が多すぎる。
「ロレイア、後ろに合図を送ってくれ!ここで踏ん張るしかねえ」
クロウは開き直って仕掛けることにした。




