5-4
とある峠の曲道。
片側は崖、その反対側が森の木立になっている場所で一台の馬車が立ち往生していた。
護衛らしき傭兵風の集団がその周囲を警戒するように囲んでいるが、何やら様子がおかしい。動きが鈍いのだ。
まるで何かに抗うように立っているのもやっとという動作で、表情も辛そうだ。突如振り出した雨のせい、というわけでもなさそうだった。
人間をよく観察するフクロウの目から見て、病気の人間のようにも映った。付近の空気の流れも悪い。魔法とか呼ばれているもので何かあの一帯が異常な状態になっているのかもしれない。
賢しいフクロウは、それ以上は深入りしない方がいいと判断した。人間というものは攻撃性が高い。数知れない同胞が狩られ、自然も破壊された。あまり好ましくはない。一方で、思いも寄らない行動をして興味深い存在ではあった。だからこそよく盗み見ているのだが、下手に近づいて殺されるのは困る。
今回はここまでだ。森には入ってこないよう祈りつつ、その場を離れることにした。
上空でそんなフクロウが見守っていたことも露知らず、シリベスタは声を張り上げる。
「どこからか必ず来るぞ!油断せずに迎撃するんだ!このおかしな結界もそう長くは続かない。近衛の誇りを持って耐えて見せろ!」
「応っ!!」
部下たちの頼もしい返事を聞きながらも、近衛隊長であるシリベスタは完全に謀られたことを自覚して歯噛みしていた。
この一帯に駆け込んできた途端、馬が急停止して自分たちの身も不自然に重くなった。自然現象ではあり得ない。
相手の罠にはまったのだ。
おそらくは魔法による何らかの結界をこの一帯に張り巡らせておいたのだろう。先を急いで確認が不十分だったことは間違いない。
もっとも、余裕があったとしても前方にこのような結界があるかどうかを偵察して進むような方法は取れなかった。お忍びに近い少数で旅をしている以上、先行して斥候を放ち、安全を確保しながら進行すると言った要人護送のセオリーなど行えるはずもない。
言い訳は後回しだ。ここはまた姫様に力をお借りするしかない。
現在の近衛兵に魔法士は二人ほどしか残っていなかった。ある程度の魔法は使えるが、防御に特化した者でこうした敵性の結界を破るほどの専門知識はない。その意味では、魔法士としても優れている第一皇女が一番頼りになる。
「……シリベスタ。この結界で足止めされているのですね?」
状況を理解したエルカージャが馬車の扉を軽く開けて話しかけてくる。
「はっ、申し訳ありません!完全にしてやられました」
助けを求めようと馬車に近づいていたシリベスタに気づいたのだろう。皇女自ら率先して動こうとしていた。
「お手を煩わせて誠に遺憾でありますが、姫様の魔法にすがるしかなく……」
「ええ、言いたいことは分かっているわ。けれど、残念ながらこの結界は想像以上に強固なのよ……おそらく、土地そのものに何らかの仕掛けが施されてるわ。要石とか魔晶石とか、その類の魔法を増幅させる何かがあるわ。それを排除しないと、私の魔力のみでは破れそうにないの」
「要石……噂に聞く皇都の石碑と同じようなものですか?」
ニーガルハーヴェ皇国の城には強力な防御結界があり、その維持に必要不可欠な建造物がいくつもあると言われている。あまり魔法には詳しくないシリベスタだが、特定の位置関係に魔道具を配置するだけで魔法の効果が著しく上がる等の原理は知っている。特定の場所に対する結界などは、その応用で要所要所にそうした仕掛けが仕込まれているというのが通説だ。
「そうね。規模がまったく違うけれど、そのようなものだと思ってくれていいわ。ただし、魔力探知を使って見つけなくてはならないから、私がやる方がいいでしょう。その間の護衛を頼めるかしら?」
皇女にそのような真似はさせられない、と普段なら絶対に許可できないが、今は断れる余裕はなかった。どんなに危険であろうと、座して待っていても事態は好転しない。
「申し訳ありませんが、今は姫様にすがるよりなく……お願いいたします。私が必ずお守りしますので」
「ええ。お願いね」
エルカージャは微笑むと優雅に馬車を降りる。結界による重圧を感じさせない綺麗な所作だった。
「姫殿下!?」
近くにいた近衛兵が守るべき対象が表に出てきたことに動揺する。
「結界解除のために姫様のご助力頂く。全身全霊で警戒せよ!」
「りょ、了解いたしました!!」
そう言っているそばから、幾つもの矢が放たれてきた。
盾を持った近衛兵がすかさずエルカージャへと走り寄り、その矢の雨を身を挺して防ぐ。
「ここは俺が防ぎます!」
エルカージャはうなずくと、シリベスタを従えて周囲を見回す。仕掛けは結界の範囲内にあるはずで、通常はその境界線上か中心にあることが多い。一刻も早く見つけなければならない。
「魔力探知をするから、警戒を――」
皇女がそう告げようとしたとき、不意に空が曇った。いや、それにしてはあまりに暗い。はっとして皆が上を見上げると、自分たちの頭上にだけ広がる黒雲が見えた。
「あれはっ!いけない、雷の魔法が来るわっ!」
エルカージャが警告した次の瞬間。
馬車周辺に幾つもの雷撃が降り注ぐ。
魔法士たちがとっさに魔防壁を張るが、すべてをカバーはできない。直撃は避けられたものの、間近に落ちた影響で負傷者が出た。大地を抉るほどの重い一撃だ。死ななかっただけ運が良かったと言えるだろう。ほっとしたのま束の間、ついに木陰から男たちが突撃してきた。
前方から押し寄せるその勢いに浮足立った者たちが「前を固めろ!」と移動する。
エルカージャも補助魔法で応戦しようと身構えたとき、シリベスタが鋭く言い放つ。
「持ち場を離れるなっ!包囲陣を解くんじゃない!!」
近衛隊長だけはその時、背後を見つめていた。前からの突撃が陽動だと考えていたのだ。
今回の相手は慎重派だ。第一、二、三の矢を放って優位性を確保しながらも、一気呵成に仕掛けてこない。定石通りに遠距離からの弓と魔法で相手を弱らせ、それから近接で決着をつけようとしている。結界で鈍化させられている圧倒的に不利な敵に対しても、だ。
絶対に仕留めるという強い意志を感じる。搦め手に惑わされてはならない。
しかし、もう事態は動いていた。
後方を警戒していた部下たちが前方に移った途端、その方角から伏兵が現れて襲い掛かってきた。推察通りの待ち伏せだ。
シリベスタはほぼ一人でこれに対応しなければならなかった。5対1。腕に自信があるとはいえ、力量的に限界数だ。万全の体調での話でだった。この奇妙な結界の重圧下では相当にきつい。
弱音は吐いていられないがな……
振りかざされた初撃の一閃を弾き飛ばしつつ、シリベスタは戦闘に集中するしかなかった。
そんな近衛隊長の背中を見ながら、エルカージャは厳しくなるばかりの現状に焦っていた。敵の攻撃の手が休みなく続くため、対策を立てるための時間がない。冷静に考えている余裕がなく、何をすればいいのか最適な行動がとれない。後手後手でうまくいっていないことだけは分かる。
全体の指揮を取るシリベスタすら、最前線で戦うことを余儀なくされている状況だ。他の近衛兵も冷静に対処できるはずもない。
とにかく遠距離の魔法や矢を牽制するために風の魔法を定期的に周囲へと飛ばしているが、効果があるのかないのか、それすらも分からない。
指示がなければ動けないなんて、わたくしはなんて無能なの……!
魔法には自信があり、戦場に立ったこともある。自らの有能さを疑ったことはなかったが、今こうして独立して戦っていると、エルカージャは己の至らなさが身に染みて分かった。まだまだ足りないものが多すぎた。
それでも何かできることがあるはずだと、孤軍奮闘するシリベスタの後方から炎槍で助成しようとしたとき、どこからか氷の礫が飛んできた。それも、一つや二つではない。
風の魔法は無駄ではなかったのだ。やめるべきではなかったが、もう遅い。
間隙をつかれて、エルカージャの腕に大きな礫がぶつかり、その勢いで背後に倒れる。それほどの勢いだ。しかも、まだ礫が途切れたわけではない。
痛みにうめきながら魔防壁を張ろうとして、腕が上がらないことに気づく。利き腕が痺れて動かせなくなっていた。
迫り来る礫を前に片腕で身を守ることしかできないと思ったとき、
「姫様っ!?」
シリベスタが駆け寄ってきて眼前に立ちはだかる。自らを盾にして守ってくれているのだ。
「おやめなさい!貴方は敵と戦うのです!わたくしは捨て置きなさい!」
「そんなことはできません!必ず、姫様は私が守ります!」
剣で器用に礫をさばいていたものの、それを黙って見ている敵ではなかった。隙を見てシリベスタに攻撃を仕掛け、ついにその身体が真横に弾き飛ばされる。他の近衛兵もエルカージャを守るように交代で駆け寄ってくるが、悉くが間接攻撃からの近接という防戦一方のパターンにはめられて傷ついてゆく。
動けないエルカージャが完全に足かせになっているのだ。
味方が疲弊していく一方で、敵は間断なく責め立てて来る。結界の効果も未だ弱まる気配がなかった。ゆっくりと絶望が忍び寄ってきていた。
こんなところでわたくしは死ぬというの……?
すべてが闇に囚われそうになったとき。
「うわぁぁぁぁーー!!!」
一際物凄い悲鳴が聞こえたかと思うと「ぐはっ!」「何なんだっ!!?」「気を付け――ぐぎゃーーー!!!」と更なる絶叫が続いた。
何事かと視線を向けると、なぜか空に人が舞っていた。
「は?」
思わず声が漏れる。高々と上空に放り上げられたように、確かに人間が浮かんでいた。
そして、その真下に魚に乗った赤毛の女性が見えた。
魚……え、さかなっ!?
思考が追いつかない。ここは地上だ。魚などいるわけがない。しかも、なぜに人が乗っているのか。
よく見ると、その魚はナマズのような細長い脚?をくねらせて、大地を跳ねるように進んでいる。その進行方向に巻き込まれた者たちが弾き飛ばされて上空を舞っているのだ。乗馬しているかのように、魚に乗った女性がそれを操っている。魚は乗り物にもできるのだろうか。
混乱が増してゆく。いよいよ、訳が分からない。
死ぬ間際に幻覚を見るというアレなのだろうか。それにしても、なぜこんな奇怪なものを見ているのか。
エルカージャは自分の置かれた状況も忘れて、その光景を唖然と見つめてしまう。それは他の者も同様だ。殺し合いをしていた両陣営の者すべてが、異様な闖入者によって時を止められていた。
「何なのだ、あれは……?」
誰かが呟いた言葉はその場にいた全員の疑問を代弁していた。
同時に、この状況はあの一匹と一人が敵側の手の者ではないことを示唆していることに気づく。突然の第三者の介入であるのなら、この機を逃す手はない。エルカージャの頭脳が再び熱を帯びて回転し始めた。これを打開策にするしかない。
今の今まで絶体絶命の危機だったのだ。一時でもこの流れが途切れている今、動かない手はない。
だが、皆をまとめ上げる肝心の近衛隊長が近くにいなかった。先程吹き飛ばされた際に、馬車の側面に頭をぶつけたのか意識が朦朧としているようだ。気絶はしていないが、車輪に背中を預ける形でどうにか立ち上がろうとしてもがいている様子が見えた。
あの状態ではすぐに行動はできないだろう。この絶好の機会に頼りにならないと、シリベスタを責めることはできない。自分を守るために無理な体勢でかばったのが原因だ。エルカージャは自身の腕の痺れが治まってきたことを確認し、もう一度魔法で襲撃犯たちを遠ざけることを画策する。
何よりもまず、体制を立て直す必要があった。
だが。
「うぉっとっとっとっとーーー!!?」
また新たに甲高い声が響き渡ったかと思うと、あの魚がこちらに突進してくるのが見えた。うねる魚の細長い脚、あるいは胴と呼ぶべきか、とにかく鱗があるのかないのか分からないその奇妙な部分が大地を蹴り上げるようにして飛び跳ねて来る様は、見ていて気持ちのいいものではない。むしろ苦手だ。
「だぁぁー、この野郎!また勝手に動きやがー――ってそこの馬車、どけーーー!!!」
魚の上に乗った女性がこちらを見て叫んでいた。どうやら、操っているというよりは制御不能になっているだけらしい。
いえ、魚を制御というのは一体どういうことなのでしょう……?
またもや混沌としてくる思考の中で、それよりもあのまま激突されると困るという判断が立ち昇ってくる。かといって、それを防ぐ術はなかった。
なんとかしなければ、と思っている内にそれはもう目の前まで迫ってきていた。
魚の暴走をかろうじて避けた近衛兵と襲撃犯たちの間をすり抜け、「くそったれがーーー!!!」という罵声と共についにそれは馬車へと突撃した。
……かに見えた。
実際は二頭の馬の前で急停止していたのだ。
何事かと思ったが、結界内に入ったことで先の馬のように立ち往生したのだろう。
ただ、その法則に従わなかった者もいた。上に乗っていた女性だけが前のめりに放り出されたのだ。
「ほわっ――!!!?」
見事な放物線を描いて前方の斜め上へと飛んでゆく。物凄い飛距離が出そうだが、着地は大丈夫なのだろうか。
そんな益体のないことを思っていると、突然馬がいなないて走り出した。
「え?」
今まで動けないはずだった馬がなぜ、と疑問を浮かべているのを尻目に凄い勢いで走り去ってゆく。
他の皆も何が起こっているのか分からないといった唖然とした様子で、ただただその馬車が走ってゆくのを見送っていた。色々なことが起こりすぎて、処理が追いついていない。戦いの場だというのに、妙に間抜けな数舜が通り過ぎてゆく。
と、不意にその意味が降りて来た。
結界が、解けたというの?
馬が動けるということはそういうことだ。気が付けば、自身へかかる謎の負担も今はない。間違いない。どういう経緯か分からないが、今は結界の効果が切れている。
今こそ脱出の好機。
強力な魔法で隙を作って、皆と共にこの場から離れる必要がある。シリベスタは既に、どうにか立ち上がって状況を確認している。あの様子ならば、何とか対応できるはずだ。
いけますわ。
そう思っていた矢先。
エルカージャはより先に動いた者がいた。
何かの魔力を感じた瞬間、第一皇女の肩に光の矢が突き刺さっていた。
「姫様っ!?」
遠くから聞こえるシリベスタの声を最後に、エルカージャの意識は途切れた。