5-1
薄暗い部屋の中に影が二つ。
まだ陽も高いというのに、窓も締め切ったその空間で囁き声が静かに響く。
「この町は思ったより手強いようですね」
「ふん、そうでもない。ギリギリの対応力が高かっただけで、普通に後手にまわっていただろうが。突き崩す隙はクソほどあるわ」
「何か妙手がおありで?」
「ああ。今回の件でだいたい確信を得た。肝はやっぱあの爺だ」
「道楽の賢者オホーラ、ですか?」
「ふん。外交大臣とか言っているが、あれが実質の宰相みたいなポジだろうよ」
「確かに、色々な場面で必ず顔を出してはいますね……」
「だから先にあいつをヤる。これ以上、こんなところで足止めされてるわけにはいかんからな」
「アレを使うのですか……しかし、まだ調整段階のはず。賢者相手に勝算が?」
「バカかっ!この俺を誰だと思ってやがる。余裕に決まってんだろうがっ!」
影の一つが激高したのか、何かを投げつけた。壁に当たって砕けたのはグラスのようだ。ガシャンという音が部屋にこだまする。
「失礼しました。それでも、私は訊かねばなりません。どのような手段で?」
あくまでも冷静にもう一人の男は質問を重ねる。この手の対応には成れている様子だ。怒りに任せていた男も、すぐに平静さを取り戻す。
「はっ、俺だって考えなしの脳筋じゃない。相手は一応賢者サマだからな、もう少し爺について調べてから確実に仕留めるさ。間抜けにも、まだこっちの影には気づいてないんだからな。すぐにでも成果が上がってくるだろう」
「では、その報告を待ってから決行、ということですね」
「ああ、もうすぐだ。もうすぐ、この町全部を俺のものにしてやる」
暗闇の中で、獰猛な笑みが一層大きくなっていた。
目が覚めた瞬間、胸元にやけに暖かい感触があった。
また災魔が朝から勝手に食事をしているのかとも思ったが、どうにもいつもと様子が違う。無意識に手で確かめると、何か柔らかいものとふさふさとした毛のような手触りがあった。違和感に意識が覚醒し始める。
クロウはあくび交じりに掛布団を剥がすと、半裸の褐色肌が見えた。
「……ココ、なんでここにいるんだ?」
「ふにゃ?」
寝ぼけ眼の少女が、金色の瞳でクロウを見上げる。
「あ、クロ様なのん」
「そりゃ、俺の寝室だからな……」
「ココ、まだ眠い……すぴー」
「二度寝かよ!?」
しがみつくような格好のココを引きはがしてベッドから起き上がる。ふと見た窓からは陽光が差し込んでいた。朝だ。
昨夜はココと一緒に寝たわけではない。一人で眠りについたはずだ。夜中に勝手にベッドに入ってきたのだろう。それに気づかないほど疲れて眠っていたのだろうか。
別に危険がなければ起きるはずもないか……
それほど相手に気を許している証左ではあるが、ココとは絶対服従という謎の契約状態なので、前提として絶対的な安心感があるのかもしれない。特殊技能の効力をどこまで信じるかにもよるが、今の所疑う要素はない。
ラクシャーヌやアテルもまだ中で眠っているようだ。この辺の魔物とはつながっているので、なんとなく感覚的に分かる。その意味では、ココもまた災魔に眷属化された一員でありながら、感じるものが違う。いや、感じ方が違うというのが正確だろうか。同じくつながっている感覚はあるものの、その性質が異なるというべきか。いずれにせよ、言語化はうまくできなかった。
ココに対して特殊技能が発動し、混成の呪いというものを解く代わりに主従関係のようなかたちになってから数日。出身も育ちも不明な褐色の少女のことは未だに謎だらけだった。分かっているのは、ココの中にはシロという狼の魔物も存在しており、魂レベルで融合していること。何者かによって無理やりに掛け合わせられたせいで、記憶や身体的、精神的なものが個々に完全であったものから欠損した状態であること。更に、その後の過度な魔力の消費を強いられたせいで、記憶に関しては一部削除されていること、などがシロの自己分析だった。
ちなみに、シロという名前はラクシャーヌが付けたものだ。眷属化に成功した折に、白い毛だからという理由でシロウとしたのだが、ココが自分と同じ二文字がいいと主張してシロとなった。本人にはこだわりも本名もないらしく、素直に受け入れていた。一方で、ココという名前はどこから来たのか、それも不明なままだ。
ココとシロの精神は基本的に表と裏の関係で、どちらかが表に立つともう片方は裏にまわって同時に表面化できなかったようだが、混成の呪いを解いたからなのか、今はお互いを認識して会話もできるようになっていた。その会話についても、ココの声は他の人間に聞こえるのにシロの声は言葉として認識されていないという状態だったが、クロウにだけはシロの言葉が分かるようになった。ラクシャーヌ曰く「わっちが眷属化したせいじゃろうて。感謝するがよい」と断言されたが、特に根拠はない。
クロウとしては意思疎通がしやすくなって悪くはないが、オホーラなどは「魔獣と会話できるチャンスじゃったのに惜しいの」と悔しがっていた。普通の人間には依然として獣のうなり声のようなものにしか聞こえないままだ。同じ口から発せられるココの言葉は理解できるだけに、とても不可思議な現象である。
不可思議ついでに言えば、ココは当然の如くアテルやラクシャーヌのようにクロウの内部に入ることはできない。だが、シロは可能だということが分かっている。勿論、ココの身体と同化しているシロではなく、精神という意味でだ。魂が混ざり合っているのに、分離できるのはどういうことかと思うが、実際にシロはココの身体から離脱してクロウの方に寄生できることを自覚している。
また、その際にはアテルやラクシャーヌが内部にいる時同様、クロウの身体的能力の向上が見られるため、それ自体が証拠とも言える。災魔が眷属化できたという勝利宣言をしたことも、これらのことに起因する。どういうわけか、クロウは魔物の類を一時的に内部に取り込めるらしい。
翻って、ココの方は心身共にクロウの方には入ってこれない。シロという魔獣と混ざっていても、大元は人間であるからだろうと推測された。互いに精神的なつながりは感じていても、物理的なその距離に不満を持っているのか、ココはやたらとクロウにすり寄ってくる傾向がある。完全にクロウを主と認めている形だ。勝手にベッドに入ってきたのも、その表れだろう。
何にせよ、謎は増えていくな……
ココを地下世界に誰が連れて来たのか。一体何のために混成の呪いなどをかけたのか。地下で何をさせていたのか。特殊技能の発動条件は何なのか。
今回の件で新たな疑問が幾つも浮かび上がってきている。
起きて早々、そんなことを考えているとノックの音がしてウェルヴェーヌが入ってくる。
「クロウ様、おはようございます。今朝は既に起きていらしたの……デスネ?」
最後の方の調子が変わる。その視線がベッドの上のココに釘付けになっていた。しかも、ココは例の布一枚を巻き付けた格好な上、着崩れして肌の露出があられもないことになっていた。
メイドは無言で「なぜここにココが?」という鋭い視線を投げてきたので、クロウは答える。
「勝手に夜中に来てたらしい」
「……なるほど。それでくんずほぐれつ朝までハッスルしていたと?」
「どういうことだ?普通に寝ていただけだぞ?」
「服が違います。ココには私が機能的な服を作って着させていました。今はまたあの布に戻っています……一度脱がせたのでは?」
なぜかジト目でねめつけられたクロウは、意味が分からず首を振る。
「いや、俺は何もしてないが?」
そう言えば、ウェルヴェーヌがメイド服のようなものをココに着せていたことを思い出す。この使用人は実は裁縫が得意らしく、色々な女性へ服を作っては贈っているという話を聞いた。実際、アテルは気に入って何着も作ってもらっていた。いずれも、子供が好みそうなフリルや装飾が多いのが気になるところだが。
「…………」
その返事を聞いても尚もウェルヴェーヌは疑わしそうな視線を向けていたが、窓の方に近づいて閉まっていることを確認し、ベッド付近で鼻をすんすんさせてから小さくうなずいた。
「なるほど。換気をした様子もなく、例の匂いもしませんね……失礼しました、クロウ様。私の勘違いだったようです」
「何の勘違いだ?」
「いえ、ついに禁欲が暴発してココに手を出したのかと思いまして」
クロウは一瞬その意味するところが分からなかったが、やがて思い当たった。
「ああ、性欲のことか。今の所、その手の気持ちはまったくないから安心しろ。そうか、普通は同じベッドで寝れば性交するものなのか」
その手の知識はあったが、まったく共感できない感覚だった。特に何をしたいという欲は湧いてこなかった。
「……それはそれで問題なのでは?」
「そうなのか?別に何も困ってはいないぜ?」
「私からは何とも強く言えませんが、一度オホーラ様に相談した方がよろしいかと……」
どこか気遣わしげな目で忠告されたクロウは、また一つ謎が増えたと溜息をついた。どうにも調子が狂う朝だった。
シリベスタ=ユナールは焦っていた。
突然の襲撃にもうまく対応できたと思っていたのも束の間、第二陣の相手の数が想定以上に多かったためだ。
今や皇女の馬車は近衛兵士の倍以上の敵に囲まれており、劣勢に追い込まれていた。
「隊長、このままでは囲みを突破されてしまいます。一点突破で抜けるしかないかと!」
副長のローエンが進言してくるが、その一点の方向が問題だ。
ニーガルハーヴェ皇国からベリオスの町へと向かっている最中、明らかに待ち伏せしていたような場所で野盗に襲われた。見通しの悪い林道の一つで、前後を挟まれているのだ。左右は丁度間隔が狭い樹木が並び立って隙間がほぼなく、戻るか進むかの二択しかない。
来た道を引き返すならば道中の町で本国に救援を求めるなり、体勢を立て直すなりで活路はあるが、同時にこの野盗たちの仲間も潜んでいる可能性が高い。襲ってきたタイミングからして、こちらが出発する日取りと進行速度を分かっていなければ、今この場所で仕掛けられてはいないだろう。
やはり、ここはベリオスの町まで一気に駆け抜けるしかない。まだ丸一日はかかる距離があるが、少なくとも増援はないはずだ。
まったく、交易路があればこんな危険な道を行くこともなかったものを……
どうにもならない愚痴を内心でこぼしながら、シリベスタは前方を見据える。
「ベリオスの町まで一気に行く。私が殿をするから、お前たちは必ず姫様を守れ」
「はっ、必ずや!」
今回の訪問はほぼお忍びのような強行のため、護衛は極端に少ない。馬車も皇族専用のものではなく一般の目立たないものにわざわざしているというのに狙われたのは、どこかから情報が洩れたということだ。エルカージャは第一皇女ではあるが、現在の継承権第一位はヤンサール皇太子で確定路線なので暗殺の対象にはなりにくいはずだった。何か本国で異変でもあったのだろうか。それとも、万が一を恐れたどこかの派閥が先手を打ってきたのか。
皇族である以上その手の陰謀は常に存在しているが、このタイミングで仕掛けてきたことに意味があるのだろうか。懸念ばかりが頭に浮かぶが、今は目の前に集中せねばならない。シリベスタは頭を振って邪念を払う。
「失礼します、姫様」
現状と対策を告げるために馬車の扉を軽くノックしてから、ほんの少しだけ開く。声が届く程度の隙間が必要だからだ。
「あら、シリベスタ。わたくしも出る必要がありますかしら?」
ニーガルハーヴェの第一皇女は、襲撃されている最中でも動揺した様子は微塵もなかった。皇女ながら姫大臣とも呼ばれるほどの政治家で、自らも戦える魔法士であるエルカージャはどんなときでも冷静だ。危機に瀕して、幾度も近衛騎士団と共に切り抜けてきた経験もある。
「いえ、姫様が出るほどのことはないかと。ただ、強行突破をする必要がありますのでしばらく揺れるかと思います」
「そう。それはかまわないけれど、あなた、何か隠してますね?どうにかなるけれど、一筋縄ではいかない。そんな状況ではなくて?」
的確に状況を指摘されて、シリベスタは即答ができなかった。その一瞬の間をつかれる。
「シリベスタ。正確に状況を報告しなさい。無駄なやり取りをしている暇はないでしょう?」
「……分かりました。少しだけ不利な状況なので、私が殿を務めて時間を稼ぎ、その隙にベリオスの町まで駆け込む予定です」
隠し事はもはや時間の無駄なので素直に打ち明ける。
「なるほど。却下します」
「え?」
シリベスタが驚いている間に、エルカージャが扉を開けて降りて来る。
「姫様、何を!?」
「あなたが殿をしなければならない事態なら、わたくしも打って出た方がよいでしょう。どちらを吹き飛ばせばいいんですの?」
「いえ、そんな必要は……」
「黙りなさい、シリベスタ!時間がないのでしょう?早く言いなさい」
一度決めたら頑として譲らない性格だ。諦めて前方の方を指し示すと同時に、部下たちへ再度防御陣形を組ませる。皇女の防衛が第一だ。
エルカージャはすぐさま詠唱に入り、両指にはめた指輪に魔力を込め始める。突然出てきた標的に呆気に取られていた襲撃側も、慌てて矢や魔法を仕掛けてくるが、近衛兵はきっちりとそれらに対処して皇女を守る。
シリベスタは右耳の装石にそっと触れる。そこには黄色のシジャラム鉱石がある。平民の身分の証だ。近衛隊長という役職に就いたとき、エルカーシャ皇女殿下から貴族の爵位も授けられる栄誉も頂いたが辞退した。平民出身であることで馬鹿にされることの方が多いが、だからこその矜持もある。例え平民出であろうと姫様を守れる。そのことを皆に示したかった。
幸いにもエルカージャ皇女は身分による差別はほとんどなく、シリベスタとも分け隔てなく接してくれている。今もそうだ。一介の近衛騎士の身を案じて、自ら矢面に立って対応してくれている。生涯をかけて仕える主に巡り合った。騎士としてこれ以上の喜びはない。
何としてでも守る。
決意を新たに気を引き締めていると、それほど間を置かずにエルカージャの魔法の準備が整う。
「では、放ちますわ。その隙に皆突撃すればよいのでは?」
「はっ。姫様は魔法を発動したら馬車にお戻りください。後は私たちが逆賊を排除します」
シリベスタは部下たちに素早く指示を飛ばし、陣形を縦長の包囲陣にして移動しやすいものへと変える。背後の敵側がその変化に気づいたのか接近を試みてくるが、もう遅い。 「私の前に立ち塞がったことを後悔なさい!お火雨ですわっ!」
相変わらずの変な命名だが、エルカージャの魔法の威力は上級クラスであることは知っている。遠目にこちらの行く手を塞いでいた十数人の真上に何筋もの火の矢が降り注ぐ。一般的には火槍と名称される魔法だ。シリベスタはその効果が十全に発揮されたことを確認して、号令した。
「前衛部隊、突っ込め!道からどけることに専念しろ!後発が止めを刺せ!」
「応っ!」
と呼応する声が続き、近衛兵たちが動き出す。エルカージャは既に馬車へと足をかけていた。
「後はお願いしますわ」
皇女が乗った瞬間、馬車は動きだす。御者も近衛の騎士だ。このタイミングを逃すわけにはいかないことは分かっていた。
「行くぞっ!邪魔する者は容赦なく殺せっ!」
シリベスタも愛馬にまたがって馬車に併走する。魔法で混乱している今ならあの囲みを突破することはたやすい。
こんなところで散らせるほど、エルカージャの命は安くはない。
女騎士の双眸には、何としてでもベリオスの町へ辿り着くという決意の炎が宿っていた。




