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視界が開けた途端、そこが修羅場だとすぐに分かった。
そこかしこから聞こえる悲鳴と泣き声、痛みによるうめき声。四方八方から火の手が上がり、熱風を肌に感じた。
目に見える建造物は軒並み崩れ落ちて半壊しており、上空には黒い雲。火の粉と煙が蔓延する中、阿鼻叫喚と言う言葉が脳裏に浮かぶ。
「なんだ、こりゃ……」
思わず男の口から声が漏れる。
状況が全く把握できない。ただし、本能が告げている。
このままでは死ぬ、と。
男はとにかく安全な場所を探すべきだと無意識に周囲を見回して絶望した。
そんな場所がどこにもありそうにない。
幅が狭い通りのど真ん中。瓦礫の山に囲まれた状態で男は膝をついていた。
自分がどうしてこんなところでこんな状態にあるのか、それがまったく分からなかった。
そもそも、自分が何者なのかすら何一つ思い出せなかった。
「これって……記憶喪失ってやつか……?」
そう思った瞬間。
風を感じた。
ふわりと自分が浮き上がる感覚。
次に、熱さを感じた。
やばい。
全身が総毛だって身構えるが、すべては遅かった。
身体も意識も巨大な何かに突き飛ばされるように弾けた。
景色が歪み、あっという間に背中から何かに叩きつけられた。
「がはっ!!!!!」
血と息が大量に吐き出される。体中が軋むように痛んだ。爆風か何かで吹き飛ばされたことは分かった。そして、どこかに衝突して止まったことも。体はほとんど動かない。痛みがじわじわと広がってゆく。かなり危険な状態だ。
霞む視界の端で、誰かがぶつぶつと叫んでいた。
「だから、僕は言ったんだ。災厄がやってくるって。なのに、あの領主ときたら信じないばかりが、僕を足蹴にして放り出すなんて……ははは、罰が当たったんだ。いい気味じゃないか。もうこの町は終わりだよ、僕を信じなかったんだから当然だよね。……でも、僕もダメそうだ……あははは……まったく、報われないな……」
最後は乾いた笑いになっているが、本人は気づいていないようだ。声色が完全にあきらめた者のそれになっている。
言っている意味は良く分からないが、現在の酷い状況の元凶は、どうやらその災厄とやらのようだ。
とはいえ、具体的に何かはさっぱり分からない。
おまけに、自分自身すら分からない。
本当に何も分からなすぎだな、と男は自虐的に口の端を緩めた。痛みは増えていくと同時に、どこか他人事のように薄れているようにも感じた。痛覚が狂っているのか、奇妙な感じだ。
壁にもたれかかっていた身体がずり落ち、視界が上空へと移る。
薄暗い青空。黒い雲が辺りを覆っていた。雲は白いはずだよな、などと考えているとその中に動き回る点が見えた。
無意識にそれを注視する。遠すぎて点にしか見えなかったそれが、不意に人の姿を取る。輪郭でしか分からないが、間違いなく四肢があり、頭があり、それは人型の何かだった。誰かではなく何か、だと思ったのはおそらく、人は空を飛ばないからだ。最新の魔法でも人は空を飛べない。
魔法?
自分の思考に疑問が浮かぶ。魔法なんてまるでファンタジーだと別の考えが過ぎる。良く分からない違和感。認識のズレを感じる。
「……でも、そうだ。もうひとつ、新たな星があったはずなんだ……災厄と対極の存在?いや、そういうのじゃなかった……でも、それを打ち消すような……あれ、どうして思い出せないんだ?僕は……」
まだ例の声はぶつぶつと続けていた。まだ若い青年のような声だ。全身の痛みから逃れるように、その言葉を聞いてしまう。反応してしまう。
「おい、お前……さっきから何を言ってる?災厄ってのは何だ?あの飛んでる奴が関係してるのか?」
「ふぁっ!!?だ、誰だい!?誰か近くにいるのかい!?」
「近くかどうかは知らないが、いるぜ。残念ながらこっちは満足に体が動かせないんでな。お前の方で確認できないのか?」
「ははは……冗談きついな。僕も絶賛何かに押し潰されてる最中だよ。生憎と身動きが取れないのは同じだね。瞼も自分の血で塞がっている状態で、拭えもしないよ」
どうやらお互いに満身創痍のようだ。
「そうか。ついてないな。んで、災厄ってのは何なんだ?」
会話することで、男は痛みを紛らわしたかった。思いつくままに話題を振る。
「運で片づけるのはよくないよ!こんなの許されるはずがない。僕は稀代の占い師、テオニィールだ。こんな場所で死んでいいはずがない」
テオニィールと名乗った男は、興が乗ったのかまくし立て始めた。
「君はさっき、災厄が何かと聞いたね?よくぞ聞いてくれたよ!僕はずっと前から言っていたんだ、この街に災魔が来るぞって!つまりそう、あの空を飛んでるあれが災魔に違いないよ。というか、君はこんな状態なのになんで知らないんだい?街を襲ってきたのはまさしくあれじゃないか」
サイマ、という言葉の響きにまったく覚えがなかった。だが、次の瞬間、不意に脳裏にその意味が浮かぶ。
災厄の魔物、略して災魔。自然現象の災害と同じレベルで、環境に破壊をもたらす厄介な存在。どこから来てどこへ行くのか、一切が不明の一過性の天災。たた、通り過ぎた後には壊滅的な被害だけが残る。
魔物という単語にも引っかかりを覚え、すぐさま人類の敵、魔族の手先などといった情報がまるで辞書を引いたように思い出してゆく。記憶はまったくないが、そうした知識はあるらしい。というより、新たな言葉を聞くたび、心の引き出しからその資料を取り出して読み出すような、そんな思い出し方だ。
一方で、自分自身についての情報はまったく出てこない。
「それにしても、僕らはもう虫の息だね。どうにかならないものかな?ああ、せめて身体が自由に動かせるなら、君を占ってその未来で安心できるかもしれないのに!いや、でも、それで君が死ぬ未来が視えたら逆に絶望しかなくなるね。それはよくない、よくないよね?」
勝手に人を殺さないでくれと思ったが、男は口には出さない。それよりも災魔というものが気になって仕方なかった。理由は分からないが、知りたいと強く願う。
「災魔ってやつは空を飛ぶものなのか?」
「え?さぁ、どうなんだろうね?詳しく知ってる人はいないと思うよ。だって、近距離であれに遭遇したら基本的に死ぬでしょ。でも、今のあれがそうなら、きっとそうなんじゃないかい?考えてごらんよ、災害にも匹敵するものがのこのこと歩いてやってきて『やあ、これからここを滅茶苦茶にするね』とか言い出したら、それはそれでどうなんだろうって話じゃないかい?」
確かにそれはシュールな光景だ。バーっと飛んできて、いきなり暴れ出す方がイメージしやすい。
もっと災魔について聞こうと思ったが、急に視界が暗くなった。考え事に没頭してよく見ていなかったが、上空に変化が訪れていた。災魔だという人型の何かの周囲に、よく分からない光の膜のようなものが見えた。それは徐々に巨大化しており、円形になってまるで電気を帯びているようにバリバリと音を立てている。あたかも電力を丸めて球状にしたようだ。
「おい、なんだ、あれは?」
「なんだって?何だと言われも、僕には君が何を言っているのか分からないよ?具体的にあれのことを教えてよ」
「あれはあれだろうが。見えないのか?やたらでかくて丸い……電気みたいな何かだ」
思ったより上手く説明できなかったが、目に入ればすぐにあの異常さは分かるだろう。
「見えない?ああ、なるほど。君には魔法が見えるみたいだね。残念なだけど、僕には魔法は見えないんだ。正確には、魔力状態の魔法はってことだけどね。あれ?ということは君は特殊技能持ち?ってことはもしかして――」
不意に言葉が途切れた。
いや、遠ざかったのだと分かった。いきなり身体が上空へと引っ張られたからだ。物凄い速さで引き寄せられる。ならば先程の青年も同じではないかと思ったが、何かに潰されているという話だったので、重しがあって抜け出せなかったのかもしれない。この場合、それは不幸中の幸いだったようだ。
あっという間に信じられないほどの高度に持ち上げられ、男はなす術もなく流れに身を委ねる。元々、身体は満足に動かせない。できることはなかった。勝手に回転する視界の中、災魔とやらの人影に近づいてゆく。なぜだか分からないが、そこに引き寄せられているようだ。
不思議なのは男の他に吸い込まれているものはなく、自分一人だけが急速に距離を詰めている点だ。竜巻か何かならあらゆるものが巻き上げられていくはずで、違和感を覚える。
といっても、既に訳の分からないことが重なりすぎていて、半ば感覚は麻痺している。混乱を通り越して、どうにでもなれという気持ちが強くなっていた。
「RAAAAAAAーーーーーー!!」
近づくにつれ、その人影が何か叫んでいるのが聞こえた。
言葉ではないのかもしれないが、他に何もすることもないので耳を澄ませてみる。
「XSHAAAAーーーーーー!!!」
やはりただの雄たけびのような何かにしか聞こえない。
「BLUOOOOO―――――!!!!」
しかし、その叫びはどこか悲痛なものに思えた。何か伝えたいことがあるようにも感じる。
泣いている、のか……?
なぜか男はそう感じた。まるで母親を求めて泣き叫ぶ赤子のような、そんな悲鳴にも似た声に聞こえたのは気のせいだろうか。
いずれにしろ、自分はもう長くなさそうだとはっきりと理解した。
先ほど見た光の幕のようなものを通り抜けたからだ。どうやら魔法というもの、というか魔力そのものらしいが、その圧力をひしひしと感じていた。それは大規模魔法に相当する大きさだった。人間ならば何十人もの魔法士が集中して練り上げ、錬成して放つ高度魔法の威力レベルだ。
魔法自体を自分でも良く分かっていないはずだが、それが町に落とされたらすべてが吹き飛ぶということだけは分かった。そんな高エネルギーの塊の近くにいるのだ。無事で済むはずがない。
ってか、なんでこんなことになってるんだろうな?
風前の灯火を前に、ひどく冷静な思考が浮かぶ。そもそも目が覚めた瞬間に絶体絶命状態で記憶もなく、いったいどうすればよかったというのか。
完全に無理ゲースタートじゃねえか?
不意にゲームという娯楽を思い出して、皮肉に唇が歪む。そういう無駄な知識だけはきっちり思い出すくせに、実際そういう体験をしていた自分の記憶は皆無という不可思議。連想されるすべてに己が存在しない。ただ、誰かがそれをしているイメージだけはある。そして、その誰かは確実に自分ではない。客観視しているわけでもなく、自分ではないという確信だけがある。空っぽの人間だ、などという表現があるが、実際に自分がそうだと痛感するとひどく虚しく思う。
一方で、そのことを特段悲しんでいるわけでもない。自分の感情は一体どうなっているのか。
淡々と映画か何かを見せられているようだ。それでいて、その中心は間違いなく自分であり、何らかの痛痒は感じる。現実感はないのに、どこかしら実感は存在する。
夢落ちってこともなさそうだよな……
ひたひたと迫る死を感じながら、そう思わずにはいられない。現実逃避で目を背けたいとは思うが、そうではないという確信がどこかにあってそれもままならない。
ただ、死にたくはない。強くそう思う気持ちだけは胸に居座っていた。
何が起こっているのか知らないままで死にたくはない。たとえ、自分が何者なのか分からなくても、死を受け入れることはできなかった。世界がどんなに理不尽だとしても、こんな終わり方はあんまりじゃないだろうか。
だが、目前に『終わり』は迫っていた。強大な魔力を感じる。今にも爆発しそうに膨張している。
間近になっていく人影を見る。もはやそれは影ではなく、人だった。驚いたことに子供だった。真っ赤に目をはらしながら叫んでいるのは、その小さな体を痙攣させるように大きく手足を開いている幼女だ。正確な年齢は分からないが、幼いことは確かだ。
いや、人……じゃない?
死の一歩手前だと言うのに、その幼女に目を奪われる。頭に猫のような耳が生えていた。額に小さな角が一つ見えた。よく見ると、手足の一部が毛皮のようなもので覆われていた。尻からは丸まった毛の塊、尻尾のようなものがあった。獣人という種族も脳裏をよぎるが、それとも違う。
そういえば、災魔とか言うやつだっけか。
先程の青年の言葉が思い出される。人ではない何か。天災の類がこんな幼女から引き起こされるとは、世界はどうなっているのか。
「ーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
その災魔と目が合った。言葉にならない何かが発せられる。
いや、突然、聞こえた。
それは「助けて」とそう言った。そう叫んだように聞こえた気がした。
その瞬間。
光の膜が震えた。世界が大きく揺れる。頭が激しく振動した。そう錯覚するほど、身体も精神も揺さぶられた。
とうとう終わりだと本能で理解した。
しかし。
唐突に脳裏に選択肢が浮かぶ。文字通り、何かのゲームで見た選択画面のようだった。
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『いずれかを選択してください』 ー60s
1.災魔を殺して災厄魔法を止める、引き換えに自らが犠牲になる
2.災魔を生かして災厄魔法を止める、代償として生涯呪われる
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何が起こっているのか分からない。死ぬ瞬間というのは走馬灯が見えて過去の記憶が蘇るという知識はあったが、こんなパターンがあるのだろうか。あるいは、記憶がないからこんなことになっているのか。それにしても、酷すぎる二択な気がした。
説明が足りていない。犠牲になるというのはやはり死ぬということなのか、呪いとは具体的にどういうことなのか。
是非とも解説が欲しいところだ。しばし思考が止まって固まっていると、右上の数字が減っていることに気づく。いつのまにか20sになっていた。推測するより先に、制限時間だと悟った。
選ばない、という選択もあるな、と脳裏にちらつくが、おそらくそれはただ座して破滅を待つのと同義だろう。ここで何もしないというのは一番の愚の骨頂だと理解する。
かといって、どうすれば正解なのか。
この災厄魔法とやらを止めるために災魔を殺すか生かすか、とあるがそんな生殺与奪権が自分にあるとは思えない。
―10s
そこに疑問を抱いていると数字が更に減っていた。迷っている暇はない。だが、思わずにはいられない。止めるとは言っているがどうやって止める気なのかと。自分はどうみても特別な力があるようには思えない。そんなものがあるなら、先程から死にかけていないはずだ。現在の状態もほぼ瀕死のボロボロな状態だ、何ができるというのか。
ー5s
ダメだ、考えてる余裕はねえ!
思考がぐるぐると駆け巡ってはいたが、答えが出るものは一つもない。思い悩んでいる暇はなかった。
どうやって選択するのかも分からなかったが、気づけば『2』を選択していた。深い意図はない。ただ、殺すという決断ができなかった。死にたくないとそう思っただけかもしれない。
ともあれ、男が選んだ刹那。
世界が爆発した。音もなく、それは拡がって弾けた。
強烈な真っ白な光に包まれ、男は意識も身体もその光に呑みこまれた。