2-5
クロウは闇の中にいた。
前後左右に加え、上下もすべて真っ暗闇だった。音も聞こえず、また五感が奪われている感覚だ。
おかしなことに今度は足元の感触もなく、浮遊でもしているのかと思ったが、そういった感覚もない。
それでも、どこか懐かしい感じがするのはこういった経験を身体が覚えているからだろうか。不思議なふわふわとした身体と共に精神である思考もどこか定まらない。
視覚系の魔法を使えばいいと考えている一方で、なんとなくこの奇妙な空間に身を委ねているべきだという思いもある。あるいは、ラクシャーヌに語りかけてこの状況を把握すればいいと訴える思考もある。そのどれもが決定的な一押しにならず、並列にぼんやりとその選択肢を眺めている自分がいた。
ひどく不明瞭な自身の状況が分かっているのに、それに対して何も行動を起こそうとしない。何をするべきなのか分からない。分からないままでいい気がしている。
クロウは闇の中でついに目を閉じた。
すると、不意にラクシャーヌの声が聞こえた。
何かぼそぼそとしゃべっている。聴覚は遮断されている気がしたが、聞こえるのだから今は聞くべきだ。理由は考えない。
耳を傾ける。
集中する。
声が大きくなり、語っているのがラクシャーヌではないと知る。なぜ、あの災魔だと思ったのか。内に響くその性質のせいだろうか、いや、これも今は考えない。
声を聞く。
何かを繰り返しているのか、同じ響きに聞こえた。
更に耳を傾ける。
「……聞こえているのですか?」
ようやく言葉として耳に届く。次に、やはりラクシャーヌの声が聞こえた。
「……じゃから、さっきから聞こえるといっておるじゃろうが!!」
「……聞こえているのですか?」
「おぬし、わっちを馬鹿にしておるのかえ!?」
「……聞こえているのですか?」
繰り返されているのは、二人のかみ合わない押し問答のようだった。ラクシャーヌの相手は分からない。ただ、その見知らぬ声が混じっていたため、先程の勘違いが発生したようだ。理由が分かってどこかほっとする。
それよりも、と気を取り直して語りかけてみる。
「おい、ラクシャーヌ。お前の声は相手に届いてないみたいだぞ?」
「む!?クロウか?おぬしもどこぞに消えておった?わっちがいくら呼んでも応えなかったくせに、急に出て来て偉そうになんじゃ!」
「何じゃと言われても、呼ばれた覚えはないな。というか、誰と話しているんだ?」
「知らぬ!聞こえるかとしつこいから、答えてやってるというに、こやつも無視しよる。まったく不愉快極まりない!」
ラクシャーヌは不機嫌なようだ。
「……ああ、どなたか知りませんが、ワタシの声が聞こえているのですか?」
あの声が割り込んできた。
「聞こえているぜ?お前は誰だ?」
「……ああ、ああ……本当に聞こえているのですね。ワタシはいま会話というものができているのでしょうか?」
何か感極まったような感嘆の声が続いた。
「こやつ、まったく人の話を聞かんな……」
クロウはそうだなと同意しようとして、唐突に眩暈を覚える。頭の中に不意に何かが入り込んできたと感知した瞬間、意識が飛んだ。
ワタシが生まれたのはいつなのでしょうか。
分かりません。
カラダは大分、変わったように思います。
でも、覚えていません。
ココロは初めからはなかったような気がします。
とても不思議です。
結局のところ、ワタシに分かるのはワタシが魔物だということだけです。
けれど、魔物が何なのかも実はよく分かりません。
ニンゲンとは違うということだけです。
元々、ワタシは何かの小動物だった気がします。四つ足動物というのでしょうか。薄暗い洞窟を走り回っていた記憶がぼんやりとあります。
そして、何かに捕まりました。
世界は弱肉強食です。捕食されて、死んだのだと思います。少なくとも、何かに食べられた気がします。全身が噛み砕かれる音を聞いた覚えがあります。あまり、いい音ではありませんでした。
それから、なぜか生き返りました。
痛みと共にすべてが真っ暗になった後、声が聞こえました。正確に何を言われたのかは覚えていません。ただ、面白がるような響きで「試してやろう」というような意味の言葉を投げかけられた気がします。
何を試すのか、ワタシにはさっぱり分かりませんでした。
次に気が付いたときには、カラダが妙な感覚でした。四肢が今までと違って大きくなっていた気がします。視覚や聴覚もそれまでより鋭敏になっていた気がします。漠然と、ワタシは違う生物に進化したのだと悟りました。なぜかは知りません。
ただ、そう分かったとしか言えません。
その覚醒も束の間で、すぐに手足に痛みを感じました。鋭い牙が食い込んでいるのが分かりました。視界が今までとは違うことが分かったのに、ワタシは自分がどこにいるのかは分かりませんでした。何か大きなものに抑えつけられていたからです。その何かが視覚をほぼ塞いでいたからです。
見えたのはただ、カラダから流れる赤黒い血と何か大きなものだけで、あらゆる痛みがそれ以上の思考を妨げていました。
襲われているのだと分かったところで、抵抗はできませんでした。相手は大きく、力も強くて、存在自体がワタシよりあまりにも強大だということが本能的に分かっていました。
だから、貪られ、喰われることしかできませんでした。
カラダが削られる音と痛みを感じながら、どうすることもできませんでした。
死んだと思ったら、また殺されたということです。何が起こっているのかは分かりませんでした。
けれど、それで終りませんでした。
気が付くと、また身動きが取れない状態で目が覚めました。依然として何か大きなものに抑えつけられたままでした。手足はやはり牙を突き立てられ、喰われかけの状態でした。すぐに痛みが襲ってきます。
どういうことなのか考える暇もなく、痛みでまたすべてが歪みます。
そんな意味不明な繰り返しがどれだけ続いたのでしょうか。毎回、毎回、自分が食べられる痛みで目が覚めて、苦痛と終わりを感じて死にます。そして、また始まるのです。気が狂いそうでした。いえ、半分狂っていたのでしょう。痛みがやがて心地よくなっていたりしました。そんなときは、どこか夢心地で食べられるのです。
ただ、いつもそういうわけではありませんでした。やはり痛いときは痛いのです。ずっと狂っていた方が楽だったのかもしれません。いっそ狂い続けていられたらと願ったりもしました。 でも、思い通りにはいきません。苦痛と悦楽と、恐怖と狂気と、逃避と願望と、いろいろなものがごちゃ混ぜになって、繰り返し、繰り返されました。
そんなある時、変化が起こりました。
どうしようもない苦痛の中で、不意に声が響いたのです。
「またオマエは変われるというのか?」
何を言っているのか分かりませんでしたが、今思えば、あれは再びワタシのカラダが進化するということだったのでしょう。
ひたすらに食べられ続けた世界が一変しました。
ワタシのカラダは変化して、もはや手足はありませんでした。それどころか肉体という概念がなくなっていました。それでも、カラダを動かすという意思はあり、動かせる何かはありました。それをカラダと呼んでいいのか分かりませんが、そうとしか言えませんのでカラダを操作しました。
手足を伸ばすような感覚で、ワタシ自身が広がるのです。
地面に触れ、岩に触れ、その感触を感じました。確かにそれはワタシのカラダでした。
何か別のものに進化したのだと理解しました。
もう痛みはありませんでした。食べられていないのですから、当然です。
そして、YYY様が現れました。YYY様が命令されました。
「オマエはすべてを包み込み、ナニモノも逃がさぬようにしろ。それだけがオマエの存在意義だ」と。
それがワタシのすべてとなりました。そうすべきだとココロの底から思ったのです。
それだけをずっと守って生きていました。見知らぬナニカが来るたび、ワタシのカラダで触れて包む。ナニカが動かなくなるまで。その繰り返しです。
けれど、長らく何も起こりませんでした。ナニモノも訪れなくなったのです。
ワタシは考えることだけしかできませんでした。
ココロというものしか動かせなかったのです。ココロが何なのか分からないまま、それだけしかすることがなかったのです。
だから考え続けていました。
ワタシはナニモノなのかと。魔物とは、ニンゲンとは、何であるのかと。ココロがあるのはなぜなのか。
どうして、どうして、どうして。
あらゆることが疑問でした。あらゆるものが不思議でした。そのすべてに答えがありませんでした。
そうして何もかもが途切れ、消えて、忘れられ、同じことを思いつき、繰り返しました。
そうです、繰り返していたのです。どうしてワタシがここにいるのか、ナニモノなのか、ココロとは、そういったすべての疑問はかつて考えていたはずで、けれどそれすら全部を忘れて、また考え始めるのです。繰り返すのです。
ああ、そしてついに、見つけました。
ココロが告げています。
その時が来たのだと。
「かはっ!?」
クロウは自らの嘔吐で目が覚めた。
口腔内に違和感を覚えたのか、えずきは止まらない。しかし、吐しゃ物は何もなかった。
「ぐふっ、何じゃ、何じゃ、この感覚は……!?」
その身体から飛び出してきたラクシャーヌも同様に、喉を抑えていた。
「お前もかよ……ああ、気持ち悪ぃ」
「何か、良く分からぬ思考というか、ぺっぺっ……声というものを聞いた気がしたのじゃが」
「え、それも同じなのか?俺もわけの分からねえ独白みてえなのを聞いてた……あれはもしかして、あの黒いやつだったのか?」
「言われてみればそうやもしれぬ……というか、もうあの真っ黒い霧は晴れておるな」
二人で周囲を見回すと、審問の間の光景が普通に見える。ロレイアたちは倒れて意識を失っているようだ。
「いったい、何だったんだ……?」
吐き気が治まってクロウは立ち上がる。とりあえず皆を起こそうとして、ステンドの手に妙なものが掴まれていることに気づく。
それは真っ黒な棒状の何かで、その表面が波打っていた。