11-7
地下世界に雨は降らない。
広すぎて時折忘れそうになるが天井があるのだから当然ではある。
だからといって、絶対に降らないかというと実は違ったりする。大雨はさすがになくとも雨漏りぐらいの降水がある。
厳密に言えば雨ではなく、地下天井部に蓄積された水分が滴り落ちる現象だ。
湿度や気温、風の影響などでその水が雨のように降り注ぐ。
地上と違うのは、その雨もどきに苔のようなものが多く混じっていることだ。
岩肌に張り付いていたその苔に水分が吸収され、飽和を迎えたときに落ちてくる。先の条件と合わせた結果が地下の雨の正体らしい。
「わー、べちゃべちゃするのん!」
そんな雨の中を走り回っているのはココだった。
「無邪気で微笑ましいですね」
エミルがその光景に目を細めている。その手には大きな葉の茎が握られていた。傘の代用として使えそうなものを近くの樹林から採ってきたものだ。
ただの雨ならば気にならないが、あの苔の感触は人によっては不快にもなる。
「教会らしき建物はまだ見つかっていないと思う。遺跡のようなものの報告は一件だけ。だけど、本当にその名残だけで価値はなかった」
ナガランカのことを伝えた後、ミーヤが探索ギルド代表としてその心当たりがないことを明言した。
「ふむ。おそらくは遺跡だとしてももっときっちりと残っているものを指していると思うゆえ、単なる廃墟という形ではなかろう」
「仮に見つけたとして、そこで何をするというのだ?」
シリベスタの問いに対する答えは持ち合わせていない。
「分からないが、そこに行けば何かあるんだろう、多分」
「……では、今回の目的変更ということか?」
「そうだな。追加目標みたいな感じでいいと思う。元々、俺は魔物をぶっ倒す修行のついでに地下世界を見て回ろうって感じだったからな。それほど路線変更ってわけでもないだろ」
「それであれば今日のところは予定通り、例の記憶が飛ぶという地域を目指すということでよろしいのですね?」
「ああ。気になったところを適当に探索でいい。ココ!もう行くから来い!」
「あーい!」
再びエミルが先導者として、一向は当初の目的地へと向かうことになった。
背丈の高い草原地帯は程なく終わり、田園風景のようなのどかなものに変わった。実際に耕された田畑があるわけではなくその跡地が色濃く今も残っているという感じだ。
なぜ草木が荒れ放題になっていないのかは謎だが、事実としてそのような過去を忍ばせる状態に保たれている。もちろん、実際に作物があるわけではなく、そう見える状態になっているということだ。
畦道らしきものもまだ所々に散見され、遥か昔は誰かがここで農作業をしていたのだろうと容易に想像がつく。
「これだけ立派な畑跡が広がっていると、穀物庫とか作業部屋とかありそうなものですけどまったく見えませんね」
エミルがふとそんな感想を漏らす。
「ひょっほっほっ、建物の風化は自然物よりずっと早く激しいものじゃからな。特に木造などは朽ち果てるじゃろうて。今日でも石造りの遺跡が多く発掘されるのは、それだけの長期間を耐え抜く強固さがあるからじゃ」
「良く分からんが、別に石造りの小屋があってもおかしくないんじゃねえのか?」
クロウが素朴な疑問を投げると、賢者の笑い声がはたと止まった。
「む?考えてみれば確かにクロウの言う通りじゃな。小屋と言えば木製という勝手な前提になっておった。それに、これだけの田畑があるならば近くに集落跡があってもおかしくはないのに、まったく建物類の名残がないのは奇妙にも感じる……」
「同意。ギルド内でも話題になった。この地下世界が過去の地上であった痕跡は見られるのに、住居の類がほとんど見つかっていないと」
ミーヤの言葉にシリベスタが反応する。
「しかし、集落なり村なりがあったのなら、その名残は必ず何らかの形で残るものではないのか?完全に消え去るということがあるのだろうか?例えば、家の土台とかそういうものがあるように思うのだが」
「それはどのくらいの月日が経っているかによるかもしれぬな。基礎、いわゆる土台も木材や石材の混合に過ぎぬ。風化で埋もれても不思議はない」
「そういうものなのですね……」
「じゃあ、逆に畑だけ今でもこうして分かるって方が奇妙だよな?」
「うむ、そこじゃよ。この地下世界はまさにこうした理不尽な謎の宝庫じゃな」
そうして地下世界の不条理さや不思議さに意見を交わしながら、昼頃には目的地付近へと到達した。その一帯は林の横の獣道といった様子の側道で、長くただ一本道が続いているような場所だった。
どこか場違いの立て看板があり、この先正体不明の記憶欠落体験あり、と注意喚起が記されていた。
クロウは注意深く周囲を見てみるが、特段何も感じるものはなかった。
「ふむ。場の雰囲気としても、何も変化はなさそうじゃな」
それは賢者も同じだったらしい。
先導して空間の異常を調べていたエミルも首をかしげる。
「特に何も異常はなさそうですね……」
「匂いも普通」
「時間帯が関係しているのか?」
「ZZZ……」
ココはクロウの背中で呑気に眠っていた。雨もどきではしゃぎ過ぎたらしく、疲れたといって背によじ登った結果だ。
しばらく慎重に辺りを探りながら歩いたものの、やはり目立った変化はない。林に気になる点もなく、獣道にも異常は見当たらない。
何の手応えもないと皆の緊張がやや弛緩し出した頃、ミーヤが「止まれ」と短く叫んだ。
すぐさまその場で全員が息をひそめる。
地下世界を探索している以上、常に危険は意識している。無駄な疑問を投げる前に従う準備はできていた。
「何かいるのか?」
クロウはそっとささやく。油断なく周囲を見回すが、それまで同様に何の気配も感じられない。
「不明。でも、何かを感じた」
漠然とした感覚でしかない返事だが、皆は決してそれを笑い飛ばしたりはしなかった。
ミーヤは熟練の探索者だ。その勘を蔑ろになどできない。
その視線は林の方を向いている。
「虫の音は途切れていませんね……」
エミルが冷静にそう指摘した。周囲に異変を感じたときには動物はその場から逃げ出し、虫などは鳴くのをやめると言われている。
「……違和感が去った」
すっとミーヤが全身の力を抜いた。妙な感覚はなくなったらしい。気のせいだったのかもしれない。
「他に誰か、何かを感じたかの?」
賢者の問いに答える声はなかった。
「奇妙。あたしだけか」
「ミーヤは何だと思ったんだ?印象でいいから教えてくれ」
「不明。一瞬、違う何かが匂った」
嗅覚で異変を感じ取るタイプのミーヤは、目深に被ったフードの中で鼻を鳴らした。それから更に少し待ってみるが、誰も変化を感じなかった。
ひとまず何もなさそうなので再び進もうとしたとき、クロウはふと気づく。
「そういや、シリベスタは何か意見はないのか?」
殿にいたメイド服の戦士を振り返ると、無言で棒立ちしていた。声をかけたのに反応がない。何かがおかしかった。
「シリベスタ?」
次の瞬間、クロウの足元から土埃が舞い上がった。いや、それは辺り一帯に及ぶ範囲だった。
とっさに飛び退ったが、その異常な上昇気流からは逃れられなかった。その拍子にココも背中からずり落ちたが、本人は目覚めたようで「うにゅ?」とどうにか倒れずに踏み止まった。しかし、そちらにかまっている暇はなかった。
土に混じって何かが自身の身体を這いまわるような感触があった。気分のいいものではない上に得体が知れない。
(アテル!)
即座に黒い膜がクロウを覆うように広がる。同時にラクシャーヌも覚醒する。
(何をしておるんじゃ!)
腹から上半身だけを突き出して、災魔は間髪入れずに何か魔法を放った。土埃が一瞬でどこかへ飛び去る。
「何をしたんだ?」
「馬鹿者めっ!おぬしこそ何をされておるんじゃ。あのような下級なものにまとわりつかれている場合か。魔力で払ってやったわ!」
何を言われているのかクロウには分からなかった。
「今のは一体……!?」
エミルが怪訝そうな顔で足元を見つめている。先程のあれが攻撃ならば、地面から何かが出てきたことになる。
「不可解。匂いがしない」
ミーヤも足元を嗅ぎながら、尚も警戒を強めている。まだ終わっていないのかもしれない。
「下級なものってことは、俺たちは魔物に何かされたってことか?」
「まったく無知が過ぎるぞ、クロウよ。あのスローメに攻撃性はないが、張り付かれて呼吸をできなくすることはできる。おまけに、ここのはどうやら他の何かも吸収している節がある。前に言っていた記憶の欠如とやらはそれかもしれぬな」
「スローメ?」
その単語と共に知識が流れ込んでくる。どうやら古代の魔物の一つで、現在の大陸では絶滅したと言われている粘性の液状に近い魔法生物を指すらしい。別名スライムとも呼ばれ、膜状の形態で何かに張り付いたり、丸まった水玉のかたちで移動したりと独特の動きをする。攻撃性はないが生物に接触することで何らかの影響を与えることはある。
オウム返しにその言葉をつぶやいたとき、はっとしてシリベスタの元へ駆け寄る。
メイド服を着たニーガルハーヴェ皇国の近衛兵士長は不自然に固まっていた。既に何かされていたのではないか。ラクシャーヌの言ったことが的を射ているのではないか。
「おい、シリベスタ!?」
棒立ちのままの頬を叩くと、ゆっくりと赤みが戻ってきた。瞳に光も戻ってくる。
「ん?」
「しっかりしろ。正気か?」
「なんだ、急に?いえ、何ですか、クロウ様。正気とは失礼な、ですよ?」
相変わらず微妙な言葉遣いになっているが、頭は回っているようなので一安心だ。
そこで賢者が口を挟んでくる。
「先程スローメと言ったか?ラクシャーヌがそう言ったのか?」
「ああ。そうらしい。魔力で吹っ飛ばしたみたいだが。記憶の欠落も、そいつのせいかもって言っている」
災魔は既にまた中に引っ込んでいる。やるべきことはやったという態度で、後は自分で考えろということだろう。
クロウの身を守ったアテルの方は、スローメに対して「何か似たものを感じました」という感想を残している。アテルもまた液状のような身体性の魔物であり、その印象からして間違っていないように思えた。
「古代の魔物が地下世界にまだ生息しているという話はよく聞きますが……本当に遭遇するのは稀ですね」
「わしは一度、巨大スローメの亜種みたいなものとやりあったことがあるが、あれは触れられると溶かされるといった厄介なものじゃったな……」
「それはヤですね!魔力をあてて吹き飛ばしてもらって良かったです。そういえば、クロウ様の使い魔は凄いですね!会話もできてあの機転の良さに魔力の高さ、私ごときも欲しいです!」
「分けられるもんじゃないから無理だな」
「むむむ。オホーラ様、どうにか私ごときにも作ってください!」
「ひょっほっほっ、無茶を言うでない、エミル。あれは特殊技能のようなものじゃ。この世に二つとないものよ」
エミルにはラクシャーヌが災魔だという情報はないので、そういうごまかし方になる。
「質問。最終的にスローメは地下から上昇急襲し、対象の記憶を奪ったということになるのか?」
「ふむ。ミーヤ殿のその問いに対する答えは確定ではないが、より高い可能性としてならば肯定となる。現物のスローメが消し飛んだゆえ確認ができないが、そのような特殊な効果を持っていても不思議はないとわしは考える」
「というか、オホーラ様。仮にスローメを捕らえられても、記憶の奪取という現象を証明するのは至難の業では?」
「いいえ!そこは確実かと思うのです!」
クロウの中から、不意にアテルが飛び出してきて主張した。
「先程、ご主人様の身を護る際にスローメさんを吸収したところ、ニンゲンさんの記憶らしきものが混じってましたので」
「マジか。具体的にその記憶ってのはどういうもんなんだ?」
「分かりません!断片的な風景とか、感情?みたいなものがバラバラにあるだけなので、ちょっとした知識みたいなものだと思います。前に見せて頂いた絵本をランダムに見たような感じです!」
「ああ、なるほど。当人が失った連続的な記憶ではなく、実は無作為に取り出された情報だということか。単にそれを抜かれた本人は、直前の記憶と錯誤しているわけか……」
「それよりそれより、いったいそのキュートな生き物は何なんですか!!!」
エミルの嬌声が辺りに響き渡る。
そう言えばアテルを見るのも初めてになるのか。クロウは使い魔の使い魔みたないものだと面倒くさげに答える。
「えー!!!ずるいです!クロウ様だけ、どうしてそんなに素晴らしい魔物を飼ってるんですか!不公平です!」
「止めぬか、エミル。おぬしの妙な魔物偏愛は相変わらずのようじゃな……」
スローメという奇妙な襲撃を受けたはずだが、エミルの能天気な雰囲気ですっかりその異常性は消え去っていた。
「……とにかくもう少し進んでから休憩しないか?正直、私は困惑したままで疲れた」
シリベスタの提案は妥当なものだったので、クロウは素直にうなずいた。