9-11
声なき咆哮が聞こえた気がした。
それは音ではなく、空間を震わせるような何かだ。
オゴカンだったものは既に面影は微塵もなかったものの、確かにそこに存在した。
青黒い何か。そうとしか形容しがたい。実態があるようでなく、霧のようでいて質量を感じさせる。身体を構成する部分はぶよぶよとした肉のようなものを彷彿させながらも、なぜかそこにはない錯覚を起こさせる。
そして、その至る所から変幻自在に触手のように伸びてくる何か。
その細長い触手が村人や信者を取り込んでいた。掴んでいる以上、やはりその触手は質量を持っているはずだが、そう思えないことに視覚や感覚が狂わせられる。
気が変になるという状態をクロウは初めて味わっている気分だった。
「何なんだ、あれは……」
近距離で改めて目の前にすると、その奇妙さに思わず声が出る。
(分からぬが、まっことけったいな存在じゃな。何よりわっちは嫌いじゃ)
好き嫌いを表明されても何とも言えないが、ラクシャーヌが敵を前に嫌悪感を示すのは珍しいとも言える。何もかもが異質なものである証左なのかもしれない。
(アレが何であれ、とりあえずぶっ飛ばしてみるしかあるまい?)
暴論ではあるが真実だった。放置しても何も事態は改善しない。
「まともに斬りかかってもダメそうだから、なんかいい感じに剣にやってくれ」
(おぬし、適当な指示すぎじゃろ!?前にもやった魔力を通すやつじゃな?魔法剣とか言っておったか)
「ああ、それだ。魔物とかには有効だったはずだ」
(言うて、おぬしは無意識的に自力でやっておったはずじゃぞ?でなければ、今自分で言ったように地下で魔物を斬れてなかったじゃろうて)
指摘されて、それもそうだと納得する。とはいえ、クロウは今回のあの異物に対してはもっと明確に強化した何かが必要だと感じていた。
「それはそれとして強めの奴を頼む。魔法担当はお前だろ」
(ふむ。そう言われるとその通りではあるか。まぁ、やってみるがよい)
ラクシャーヌは上半身だけクロウから出した状態で、中剣に向かって氷系の魔法をまとわせた。
炎よりも効果が見込めそうだという推測だ。構えた剣身から冷気が迸るのを見て、クロウは満足げにうなずいた。
「それじゃ、いっちょやってみるか」
オゴカンだったものに向かって回り込むように走る。顔のような部分もないので、正面がどこなのかは不明だったが、なんとなく背後だと思われる方から攻めてみる。
シュッと空気を切り裂く音がして、触手がその行く手を阻むように飛び込んでくる。
鞭のようにしなりながら振り下ろされるのではなく、直線的に突き刺しに来る軌道だった。かなりの速度が出ている。慣性も予備動作もなしにどういう理屈でそんな動きができるのか理解の及ばない攻撃だった。
十分に警戒していたつもりても、それを避けられたのはギリギリで少し体勢を崩された。そこへ時間差で別の触手が伸びてくる。
明らかにそれらは知性の感じられる二段攻撃で、ただの魔物ではないと意識させられた。
「アテル!」
剣で防いでもまた次が来ると見て、様子を見るためにも他の手を試すことにした。
「はいなのです!」
迫りくる触手をアテルが盾のように広がって弾く……はずが、その衝撃がいつもとは違ってクロウの身体にまで伝わってきて後方へ飛ばされる。
「はうっ!?」
(反発したじゃと!?)
クロウの驚きはラクシャーヌが代弁していた。アテルの特性は、あらゆるものを分離させる効果だと分析していた。それは物理的な衝撃なども含まれ、今までもかなりの攻撃を難なく他へと逃すことで防いできた実績がある。そのアテルが触手の接触を完全に分離できずに、余波がクロウにまで及ぶというのは初めての経験だった。
「きゃわわ!?あれは『あいててててー』なのです!?」
アテルに痛覚があることすら定かではなかったが、本人が何かしらの感触を覚えているのなら間違いないのだろう。あの触手をアテルに対応させるのは得策ではない。
「ますます、あいつの得体の知れなさが増したな……」
(近づくのが厳しいのなら、わっちが一発かましてやろうぞ!)
ラクシャーヌがクロウから飛び出して、そのまま空中で魔法を発動させる。既に準備は整えていたようだ。
青黒い魔物に向かって落雷のような眩い光が飛翔する。天から降り注ぐのではなくラクシャーヌの身体から飛び出してゆくそれらの光の束は、ジグザグに空気を切り裂いた。
放電しているようなエフェクトを発しながら、それらが触手と本体を貫く。
……ように見えただけで、実際はすり抜けていった。まるで自ら避けたようにも思えた。
「どうなってる?」
再びクロウの元へ戻ってきたラクシャーヌへ問いかけると、災魔は悔しそうな顔でうなった。
(ぐぬぬ、あやつ、ふざけておる!実態をコントロールできるのか、インパクトの瞬間に消えてみせおった)
「そうか。だが、魔法だったら魔力そのものに干渉するみたいな感じで、魔法生物系の大元に直接影響するんじゃなかったか?少なくともあの距離ならかする程度の手応えはありそうなもんだが?」
(じゃから、それすらも凌駕したということじゃ!さっぱり原理が分からぬ!)
あれだけの存在感を持ちながら、魔法ですら触れられないというわけか。本当に謎の生物だ。
「それでも、魔法生物って考えても間違いではないよな?アテル、どうだ?」
遺跡の魔物であり、魔法生物であるアテルならば何か感じるものがあるはずだ。
「難しいのです、ご主人様。ワタシと似ているようで、違うみたいなのです。むむむむって部分が多いのです」
良く分からない性質が含まれているという意味か。だが、完全な否定でないのなら見込みはある。
「じゃあ、とりあえずはやっぱ魔核を探してそいつにアタックするしかなさそうだな」
(ふむ……おぬしに視えるのかえ?)
返事をする代わりに、クロウは集中してオゴカンだったものを凝視する。コツだの方法だのは知らずとも、物体が持つ魔力の違いは何となく察することができる。それは色であったり、魔力の流れであったりと感じ取り方は違うが、全体でとらえたときにその差異は必ず見つかる。
その中心こそが魔核だとこれまでの経験で分かっていた。
蠢く何かを見つめる。凝視する。見極める。
しかし、それらしいものが視えてこなかった。魔力そのものが波打っている。常に移動して流れているため、何一つ固定座標が特定できなかった。
「ダメか……」
集中して探ればどうにかなると思っていたが、そう甘くはなかった。
(わっはっは!どうせそうなるじゃろうと思っておったわ。魔力に関しては、わっちが専門じゃ。任せるがよい、クロウよ。あんな訳の分からぬものに後れを取ってたまるか)
何とも頼もしい自信だったが、そのための時間稼ぎという無茶振りをされる。どうやっての部分に対しての指示はもちろん何もない。
それでもクロウは動くしかなかった。
「できるだけ早めに頼むぜ」
先程の冷気がまだ剣にはある。そこへ更なる魔力を乗せて、謎の物体へと斬りかかる。
物理的な攻撃ではなく、それは魔法に近いものになるはずだった。ぶよぶよと動くそれは触手を振るって妨害してくる。それらをさばきながら接近する。少なくとも触手を斬ることはできている。まったく本体が怯んでいないが、触手とはダメージが連動していないだけかもしれない。
とにかくあの蠢く奇妙な何かそのものに攻撃を当てたい。四方八方から来る触手をアテルと共に弾きながら、じりじりと近づいていく。
触手はクロウを取り込もうとしているような動きを見せてはいるものの、それ以外の動作は見られない。本体の方も出現した場所から動いてはいないように思えた。移動できないタイプなのかもしれない。
それならば必ずこの刃は届く。クロウは更に加速し、ついには間合いに入った。
「はっ!」
そしてようやく本体に対してその一振りを浴びせたと思った瞬間、まったく手応えがないままに空を切った。
急に対象が消えたことで勢いが過ぎて、前のめりに転びそうになる。
慌てて体勢を立て直して振り返ると、そこには確かに謎の物体がまだ存在している。しかし、斬りつけた剣身には何も触れなかった。
「どうなってやがるんだ……?」
感覚と結果が乖離していて、事態をうまく飲み込めなかった。
(あの何かさん、ぱぱっと消えたのです!)
アテルが叫ぶ。
「消えた?」
(はいなのです!ラクシャーヌお姉さまの魔法の時と同じなのです)
つまり、何らかの方法で避けたということか。触手はそのまま受けていたのに、本体は回避した。その事実が指し示すことは一つ。
「直接当たるのは嫌がってるってわけか」
「うむ。要は攻撃が通るって話じゃな」
ラクシャーヌが急に外へと飛び出してきた。そのまま上空へ飛ぶ。
「視えたのか?」
「初めから中心にあったんじゃよ。ただ、その周りを殊更にかき乱して隠しておっただけのことよ」
災魔は獰猛な笑みを浮かべると、矢継ぎ早に雷の魔法を連続で放ち始める。既に回避されたその魔法を再び使っても意味はないとクロウは思ったが、そんなことはラクシャーヌ自身が一番よく分かっているはずだ。ならば、何か意味があってやっているはずだ。
何も言わずとも、ラクシャーヌがクロウに何かを期待していることは分かった。詳細は不明だが、その時が来るのを待てばいい。
オゴカンだったものは、ラクシャーヌの攻撃をやはり回避していた。接触する瞬間に実態を霧状にして通り抜けさせていた。先程と同じことの繰り返しにしか見えない。だが、ラクシャーヌはその攻撃魔法の手を緩めない。連続して繰り出し続けている。
「わっはっは!そろそろごまかせなくなってきたかえ?」
挑発するようなその言葉で、クロウは災魔が何をしようとしているか理解した。
剣を構えながらそれを凝視する。薄気味悪い肉塊と霧状の形態を行き来している間も、それはその場から動いていない。中心は常にそこにあり、状態変化を余儀なくされている関係で周囲の魔力が乱れに乱れている。
常に移動して錯覚させていた魔力の流れが統制を失っている状態だ。今まで見えなかったそれが徐々に露になる。
星明かりに反射して鈍く光るものが見えた。歪な多角柱の形状で部分的に透き通っている。
「なんだ、あれは……結晶石?」
それが何であれ、凝縮された魔力を感じた。あれが魔核に違いない。
クロウは認識すると同時に動いていた。気合一閃。一撃必殺で仕掛ける。ラクシャーヌの魔法で防戦一方の隙をつくことで今度こそ届いた。
しかし。
粉砕するつもりのその一振りは鈍い音と共に弾かれた。
結晶と思われる一部を砕いたものの、クロウの剣の刃も欠けてひび割れた。
その衝撃にクロウ自身も反動で後方へ跳ばされる。
「――――っ!?」
同時に体験したことのない何かが体内を駆け巡った感覚があった。それは痛みのようでいて何かが違った。形容しがたい不快さに酷く気分が悪くなる。吐きそうな気持ち悪さに似ている。それは内部にいたアテルや、外部でもつながっているラクシャーヌにも伝播したようだった。
「なんじゃ、これは……!?」
(あわわわ……マナ酔い、みたいなのです……?)
マナ酔い。だとすれば、これはあの魔核接触によって過剰な魔力にあてられたということか。
よろめきながらクロウは立ち上がり、オゴカンだったものを見やる。そこには依然として蠢く肉塊のような青黒いものが依然としてあった。先程の攻撃は意味を為さなかったのかというと、そうでもないらしい。その黒い霧状の何かが乱れていた。いや、一部が穴から空気が抜けているかのごとく噴出していた。
そのまましぼんで消えていくのなら良かったのだが、そういう感じでもない。青黒い何かが、周囲に充満しているように見えた。
「あれは……どうなってるんだ?」
「分からぬ。じゃが、魔力がなぜか増大しておるな……わっちの破壊魔法に似た匂いがしておる。どこからあれだけの魔力を……?」
(ぜ、全部なのです!そこら中から吸い上げているのです……)
アテルの声が震えていた。魔力関連に関しては鈍いクロウでも、周囲の空気が変わっていることは分かった。
「結界ってやつのせいか?」
「ぐぬぬ、初見時のヤヴァヤヴァな圧が強まっておる……この吸収力ではわっちらも対抗できぬやもしれぬぞ……?」
どこで覚えた表現なのか、ふざけた口調だったが、目の前の得体のしれない魔法生物には災魔ですら不安を覚えていることが伝わってきた。それほどの何かが現在進行形で展開されているらしい。クロウは無意識に剣を握り締め、その刃が欠けたことを思い出す。
全力でもう一度魔核斬りつけても壊せる自信がなかった。すぐに思いつく有効打がない。その間にも相手の危険な気配が増している。何かを仕掛けてくる準備段階なのは明白だった。
(ご主人様!結構もう、やばぁやばあ、なのです!)
ラクシャーヌの微妙な表現が移った状態で、アテルが焦った声をあげる。魔力が奪われているということらしい。クロウ自身はそれほど感じていないが、代わりにラクシャーヌが厳しそうだ。事態は切迫している。
あの魔核を早急にどうにかしなければならない。
「ラクシャーヌ、破壊魔法でどうにかならないのか?」
「なに?元々が範囲魔法じゃぞ?絞り込んでも魔核にピンポイントで当てるのは不可能じゃ」
「中心に当たらなくてもいい。それでも弱らせることはできるだろ。とにかくこのまま好き勝手やられるのがまずいってのは俺にも分かる」
「ふむ。で、おぬしはどうするんじゃ?先程の様子じゃと、魔核が見えても破壊まではできぬ。ましてやその剣ではな」
「ああ、だから俺は結界の方をぶっ壊してみる。ヤツの威勢がいいのはそのせいだろ?」
「なるほど、それは一理あるようじゃな。しばらくまた動けなくなるが、このまま座していても危ういか……巻き込まれるなよ」
一度決断すれば行動は早い。ラクシャーヌは破壊魔法の準備のためにクロウから離れた。
「アテル、この結界の要石的なもんがどこかにあるはずだ。探ってくれ」
災魔に後を託して、クロウは自分のやるべきことに取り掛かる。
(はいです!魔力の流れで気になるのは幾つかあって、ここから近いのはあっちの方向なのです!あのでっかいのに流し込んでいるみたいなのです)
「オーケー、そいつをぶっ壊しに行く」
結界を壊し、破壊魔法をぶつける。単純な方法ではあるが、今打てる手を全力で実行するしかない。
オゴカンという人間を捕まえるはずが、いつのまにか魔物退治になっていた。
どうしてそうなったのか、今すぐ誰かに説明して欲しいとクロウは思わずにはいられなかった。




