31 平穏な日々編-10
聡慈の仕事を見学しに薬屋を訪ねて以降、エウリアは時々薬屋に遊びに行くようになった。
宿の手伝いを終えシャジエと共に手が空くと、彼女を連れて遊びに行くのだ。
「いつ生まれるのかなぁ?」
「きっともうあと一月もしないで生まれるよ。だってオクアルさんのお腹まんまるだもの」
本人の目の前で楽しそうに話す少女二人。
「そうね。この子も多分出たがってるわ。最近頻りにお腹蹴ってくるんだから」
天真爛漫なシャジエ、聡明で幼いながら美しいエウリア、生まれてくる我が子はどんな子だろうか。
オクアルは騒ぐ二人も気にならず、腹の内側からのポコポコと伝わる感触を楽しんでいた。
お姉ちゃん、と言う言葉の虜になってからエウリアは、以前よりも勉強をしたがるようになった。
勉強の一環で魔言語も教わっている。
聡慈はそのため魔言語の辞書を作れないかと新しい試みに取り組み始めていた。
聡慈のイメージでは、魔言語は音階と幾つかの楽器のような音で表現できそうなものである。
ただそれをどうやって文書として表すか。元の世界の音楽に深い造詣があったならば、もう少しスムーズだったかもしれない。
だが限られた知識しか無いため、聡慈が記す魔言語の文書表現は、音符と曖昧な楽器の名前と擬音が混在した、彼にしか分からないものになっている。
しかしそんな適当なものでも魔言語の理解を深めることには一役買うのか、エウリアに教えることについては順調に進んでいると言っても良かった。
言葉を習い、素振りをし、宿の手伝いをし、数字を覚える。
薬屋に行っても宿の手伝いをしてもお客さんに可愛がられる。
エウリアの毎日は充実していた。
今日もエウリアはシャジエと薬屋に遊びに来ている。
いよいよ生まれるかと気配を出しているので、日を置かず訪ねているのだ。
「気をつけてね」
「ありがとう二人とも……あ!?」
立ち上がる時にエウリアとシャジエから手を貸されていたオクアルが突然下腹を押さえた。
「どうしたの!?」
「き、来たかも……」
「何が……って、もしかして赤ちゃん!?」
オクアルはジワッと何かが漏れ出すように感じた。
破水である。
間もなく陣痛が来ることは事前に聞かされている。
「ごめんね、うちの人を呼んで来てもらっていい?」
彼女はゆっくりとその場に座って二人に頼んだ。
「わ、分かった! ナンブットゥさーん、ソージさーん!」
すぐそこに居るのにシャジエは慌てて駆けて行った。
他人事なのに――あまりに慌てるシャジエがおかしくてオクアルは落ち着くことができた。
「エウリアちゃん、こっちに来て。手を握ってほしいな」
うろたえるエウリアを手招きしてそっと手を出し、傍らに座らせる余裕がある。
「う、生まれるのかい!? どうしよう! 産婆さん呼びに行かないと!」
穏やかな雰囲気を破るようにナンブットゥが転がりやって来た。
「落ち着いてあなた。まだ陣痛は来てないから」
「そうですね、では店は閉めましょう。ナンブットゥさんは産婆さんを呼びに行ったらオクアルさんと一緒に居てあげてください。私たちは手伝いに備えて近くで待機してますから」
「わ、分かりました、行ってきます!」
どうしても落ち着くことができず、駆けて行くナンブットゥは苦笑で見送られた。
「はぁ、はぁ……」
それほど時間を要さず戻ったナンブットゥだが、顔が青く産婆も連れていない。
訝しむ一同に彼は告げる。
「さ、産婆さんが来られなくなった……同時に他の妊婦さんが、予定よりずっと早く産気づいてしまったって……そっちへ行ってしまったって」
「そんな」
オクアルの顔に翳りが差す。
ナンブットゥはオロオロと狼狽えている。
その時
「あの、うちのおばあちゃん昔産婆をした経験があるんですけど」
店に顔を覗かせたのは常連客のメグムイだった。
「何ですって!? ぐえっ」
「ひっ……あ、ソージさん」
飛びかからんばかりのナンブットゥを引き止めたのは聡慈だ。
メグムイは怯えかけたがすぐ安堵した。
「メグムイさん。お婆さまは体の痛みがあった方ですね? 失礼ですが出産に差し支えはありませんか?」
「あ、大丈夫だと思います。お灸のおかげで大分楽になって、『やっぱり体は動かさにゃ』って畑仕事に精を出してるぐらいですから」
「それは頼もしい。ではこちらへ来ていただくことは?」
「それは構わないと思いますが……」
辺りを見る。
出産させるには雑然としているように思う。
「できれば豊富な水と清潔な布が用意できる清潔な空間がいいと思いますけど……」
「なるほど」
聡慈も納得である。
「あ、そしたらうちの宿は!? 来れる、オクアルさん?」
シャジエが身を乗り出して申し出た。
「ラグナの海臨亭よね。うん、まだ歩けるかな……」
オクアルはお腹を見て答える。
「エウリア、おじいちゃんと宿へ行こう。リンを連れてここに戻って来ておくれ。私はシャジエと共に理由をナムフェイさんとフィネさんに説明しておこう。できるかい?」
「うん! 大丈夫!」
聡慈を真っ直ぐ見返してエウリアは答えた。
「では皆さんラグナの海臨亭に集まりましょう、ではまた」
各々が動き出す。
ナンブットゥは店を出て走って行く者たちに何度も頭を下げていた。
事情を聞いたシャジエの両親はすぐに閉店の看板を出し、タライや桶、布を準備していった。
エウリアはミルドラモンと共にリンに乗り薬屋に向かった。
聡慈は宿の前の通りに出て、来るべき人たちを待つ。
最初に来たのはメグムイとその祖母だ。
「あんたがソージさんなんだね。孫の言うとおりいい男じゃないか」
「ちょっとおばあちゃん!」
流し目を送る老婆にメグムイが顔を赤らめ怒っている。
「ははは、ご冗談を。それはさておき突然の要請に応えていただきありがとうございます。妊婦も間もなく来るでしょう。どうぞこちらへ」
「……なるほど、これはこの辺にゃ居ない紳士だねぇ」
「もう、ほら早く」
呟く祖母を相変わらず赤い顔でメグムイは背を押して急かした。
「来たよ!」
リンで薬屋に乗りつけたエウリアは、店の戸を開くなり声を上げた。
「これがエウリアちゃんの言ってた幻魔かい? 馬みたいに思えるんだが、振動とか大丈夫だろうか?」
ナンブットゥは心配そうだ。
「心配いらんぞい。多少の上下動はあるが、この子は魔法で滑らかに走ることができるんじゃ。さ、背に乗って、奥さんを後ろから支えてやりなさい」
まだ顔色の良いオクアルは頷いて夫の手を取りリンに近づく。
「よろしくね」
「ファアア〜」
賢いリンは脚を曲げ背を低くしてやり、オクアルをその背に乗せた。
「ほれ、しっかり両脚で挟んで、奥さんを支えての」
「こ、こうですね」
乗馬経験の無いナンブットゥはミルドラモンに指導され、緊張しながらリンに跨り妻に手を回した。
「よし、リン頼んだぞい! 荷物はこれでいいんじゃな?」
「はい、それだけです。色々ありがとうございます」
「いいんじゃよ。ワシらもすぐ行くぞい」
「がんばってね!」
「エウリアちゃんありがと」
風のように走り去るリンを見送り、ミルドラモンとエウリアは夫妻から託された赤子の衣類を手に、宿へと歩き出した。
「おじいちゃん早く戻ろ」
「焦らんでもこれからが長いんじゃ。ワシらは助けを求められた時に全力を尽くせるようにしっかりと休んどくことが大事じゃぞ」
「う〜ん、分かった」
エウリアは走りたい気持ちを抑えミルドラモンと手を繋いで宿へと向かった。
これから何が起こるのか、無事に生まれることを疑わない彼女は楽しみにソワソワするだけだった。




