9騎士団
初夏の夕方に涼やかな風が吹いた。
クライヴとエイジャイは山間の道を進んでいた。
二人の進む道は狭く、馬を二頭並べることさえ難しかった。右側は山の斜面になっていて、左側は深い谷になっている。道は緩やかな曲線を描いていて、先が見通しにくかった。
待ち伏せに適した地形だ。
クライヴは馬の上で体を揺らしながら、古い詩歌を歌っていた。エイジャイも面白がって調子を合わせて歌い始めた。
ふとエイジャイは道のわきに咲いていたキスツスの花に目を留める。一日しか咲かないこの花は、死の予兆として知られている。
エイジャイはマーカスの最期の言葉を思い出す。
『騎士なき騎士団がやってくるぞ。魔術師狩りの猟犬たちが。必ずお前たちは殺される』
突然、エイジャイは馬を止めた。
「小僧、待て」
「ジジイ、どうしたんだ?もう少しでリバーサイドだぜ」
エイジャイは黙って腕を振る。すると虚空から蛇が現れる。エイジャイの魔術だ。
蛇は濡れたように輝く体をのたくらせながら曲がった道の先へ進んでいった。
蛇が曲がり角に差し掛かると、角の向こうから剣を振り下ろす音がした。
「小僧、待ち伏せだ」
エイジャイとクライヴは武器を構える。油断ない目で曲がり角を見つめる。
すると、六人もの男たちが歩み出てきた。男たちはみな黒い騎士服を着ていた。狭い道を一列に並んだ黒衣の騎士たちが進むさまは葬列のようだった。
騎士たちの後に続いて、背の高い初老の男が歩み出てきた。髪にはまばらに白が混じっていて、大きな青い目にはどこか哀愁のような霊性を帯びていた。彼は足音がしなかった。呼吸の音も。
男が歩いてくると黒衣の騎士たちは、彼に敬意を払い道を譲った。
エイジャイはクライヴに耳打ちした。
「『幸運者』のネスターだ。元々は騎士だったが、今は盗賊だ。危険な奴だぜ」
すると、ネスターが言った。
「盗賊も昔の話だよ。『騎士なき騎士団』に魔術の腕を買われてね。今は王に仕える身」
ネスターはエイジャイからは離れたところに立っていた。エイジャイのささやき声など聞こえないはずだった。
「王は《血の復讐》を禁じた。お前らは王の権威に真正面から喧嘩を売ったのだ」ネスターは言った。「王の名とその定めるところの法において、お前らに死を宣告する」
ネスターはゆっくりと囁くように喋る。消え入りそうなほど静かな声なのに、なぜか遠くまでよく響く。
エイジャイはクライヴを顎で指し示した。
「少なくともこの小僧はマーカス殺しには関係ねぇ。それどころかマーカスの命を助けようとさえしたんだぜ。この小僧は無実だ」
「神とお前の名誉に誓えるか?」
「神と俺と、そのうえ父の名誉と女房の貞操までかけて誓えるぜ」
クライヴはエイジャイに掴みかかった。
「ジジイ、俺を庇う必要はねぇぜ。俺は戦いを恐れたりしねぇ。臆病者じゃねぇ」
「クライヴ、おめぇは立派な男だよ。おめぇがマーカスを殺さなかったのは臆病だったからじゃねぇ、勇敢だったからだ。誰もおめぇを臆病者なんて言えねぇ。俺が言わせねぇ」
クライヴはエイジャイの声が心にそっと触れるのを感じた。エイジャイの暖かい茶色の目が、その眼差しが胸に深くしみこむのを感じた。
クライヴは掴み上げたエイジャイの襟を離した。
エイジャイは剣をネスターに向かって突き付けた。
「決闘だネスター。俺とお前で、一対一で」
「立場をわかっているか?俺の後ろの騎士たちが見えないのか?」
エイジャイは鼻で笑った。
「俺はおめぇを知ってるぜネスター。おめぇは騎士だからな。決闘は断れねぇ。騎士と人殺しの違いは名誉だけだからな」
ネスターは音もなく笑う。
「今はお前の口車にのってやろう。どちらにせよ、お前は死ぬのだから」
ネスターがゆっくりとエイジャイの方に歩み出てくる。ネスターの周りの空気が揺らめくのを感じる。魔術を帯びた神秘の気配があたりを満たしていく。
エイジャイが馬を降りようとするのをクライヴが呼び止めた。
「ネスターの野郎は相当な魔術師だぜ。戦ったらジジイは……」
エイジャイはクライヴの言葉を遮った。
「クライヴ、絶対に手を出すなよ。たとえ俺が殺されても」
エイジャイは思う。葉っぱが木から落ちて枯れる前、こういう感じがするのだろう。
※
夕暮れが終わろうとしていた。湿った夏の夜気のなかを晩鐘の低い音が聞こえてくる。
空は西から東へ薄い黄色、かすかなオレンジ色、静かな青緑色、底のない青色へグラデーションを描く。
遥か北には影のような雲が出ていた。時々月のように白い稲光が閃くのが見える。まもなく雨が降るだろう。
※
エイジャイは地面にすわり込んでいた。人形のように力を抜き、手足はだらんと垂れていた。
彼の肩は引き裂かれていて、傷口からは血が流れ出ていた。彼の血は古ぼけていて色あせていた。
エイジャイは胸に突き付けられたネスターの剣を見る。
「最期の言葉を聞こうか」
ネスターは囁く。
エイジャイはネスターを見上げる。
ネスターの黒衣は夜闇に溶け出していた。まるで闇の中にネスターの顔と手と剣だけが浮かんでいるようだ。
「ジジイ」
クライヴは呟いた。彼は自分の短剣の柄に手をかけていた。彼は獲物に狙いをすます猛獣のように身を低くかがめる。
「クライヴ、手は出すなよ」
エイジャイの言葉を聞いてクライヴは逡巡のあと、短剣から手を離した。
代わりにクライヴは瞬きもせずじっとエイジャイとネスターを見つめた。
これから起きることを決して見逃さないように。一瞬たりとも忘れることのないように。
握り締められた彼の手からは血が滴っていた。
ネスターはエイジャイの心臓に刃を突き立てた。
「お前の死体は見せしめのために吊るされる。お前の死体は縄の下で朽ち、墓穴を掘る者さえいない」
エイジャイはあふれ出てくる血をとどめようとして傷口を抑えた。迫りくる死に対してあまりにも無力な戦いだった。
死に対する自身の敗北を悟ったエイジャイは傷口から手を離した。
いまにも消え入りそうなエイジャイの命に反して、彼の目は若々しい輝きを取り戻していた。
彼の胸の傷口からは血と一緒に記憶も流れでていたのだろう。彼は初めてミラに会った時のことを思い出す。
夜明け前の最も暗い闇の中で、ミラの目を、死に至る美しさと夜より暗い闇を孕んだ目を見つめたことを。
彼女の前に跪いて、彼女の手を取ったことを。
彼女の白い手の甲を口づけで汚す許可を願ったことを。
彼女がそっと目を伏せて許しのしるしを与えてくれたことを。
彼は言った。
「必ずミラは来てくれる。仇を討ちに、お前らを殺しに。精々おびえるがいい、あの人は狼だ。お前らは羊だ」
それが最期の言葉だった。彼はあおむけに倒れた。瞳からは輝きが消え、ただ天に広がる暗闇だけを映しこんでいた。
ネスターは静かに笑った。
「私は犬だよ。牧羊犬だ。羊を食い荒らす狼を追い払うためにいる」