7決闘
決闘が始まる。マーカスは魔術を使い姿を消す。彼の足音だけが忍び寄ってくる。
クライヴは耳の奥が脈打っているのを感じる。壁に取り付けられた燭台の炎が小さくはぜるのを感じる。マーカスの足音が響いているのを感じる。
響く。そして、途絶える。
マーカスの気配は完全に消えていた。
クライヴは自分が危険に踏み込んだのを気づく。マーカスが剣を一突きすれば、クライヴの鼓動は消え、脈動は静まり、息は絶えてしまう。後に残るのは静けさ、そして暗闇だけだ。
マーカスはすでにクライヴの背後に回り込んでいる。クライヴのうなじに目をやり、慎重に狙いをつける、無用な苦しみを与えないように。クライヴはマーカスに気づかない。
クライヴは燭台をつかむ。彼は魔術を使う。炎がはぜ、火の粉が舞う。
マーカスはゆっくり剣を振り上げる。
舞った火の粉がクライヴの背後を指し示す。クライヴは短剣を抜き放つ。
マーカスは剣を振り下ろす。
クライヴは燭台を投げ捨てて身を躱し、振り向きざまにマーカスの腕を切りつける。マーカスの剣が甲高い音を立てて床に落ちる。
クライヴはマーカスの首に短剣を突き付ける。マーカスは落ちくぼんだ眼でじっとクライヴを見る。
「さぁ、やればいい。その短剣をほんの少し押し込むだけだ」
クライヴはつきつけた切っ先からマーカスの体温を感じる、肌の弾力を感じる。クライヴは鉄がのどを貫き、濡れた切っ先が首の後ろから伸びるさまを想像する。
クライヴは魚をさばくようなものだと自分に言い聞かせる。男になるのだ、クライヴは言い聞かせる。彼は思い描く、自分の名前が戦いの詩の中で輝くさまを、誰もが彼を称えるさまを、マーカスの屍の上で高笑いするさまを、敵の流血で作られた赤い絨毯の上を歩くさまを。
「こいつは極悪人だ。妻を殴り殺した人殺しだ。極悪人なんだ」
クライヴは呟いた。誰に聞かせるつもりもなかった言葉にマーカスは答えた。
「彼女は私の名誉をけがしたのだ。どこの馬の骨とも知れん男と姦通の罪を犯していた。子も私には似ても似つかない」
「おめぇはクソ野郎だ。その子も殴り殺したんだろ?」
どこかすがるようにクライヴが言った。
「親の悪徳が子にまで及ぶことはない。あの哀れな父なし子は私が引き取った」
クライヴはマーカスの目を見る。疲れて乾いている目、傷だらけの茶色い虹彩。
ふいにクライヴは気づく、マーカスは敵ではないことに、マーカスは自分と同じ人間であることに、マーカスは自分と同じように痛みや悲しみや苦しみを感じることに、マーカスは自分と同じように自らが正義の側に居ると信じていることに。
そして、マーカスは誰かを敵とみなし、憎み、傷つけ、殺そうとする、自分と同じように。
クライヴはしばらく体を震わせたあと悪態をついた。
「おめぇは極悪人だ。そうじゃなきゃいけねぇ。じゃなきゃおめぇを殺せねぇ」
クライヴが投げ捨てた燭台から蝋燭がこぼれていた。蝋燭の小さな灯火は深い紅色の絨毯に燃え移り、その光と熱の生命をますます輝かせようとする。しかし、ミラがその小さな火種を踏み消した。
「クライヴ、勝者の権利を使いなさい」
「ミラ、この男は悪人じゃねぇ。この男を殺しちゃいけねぇ」
クライヴは言葉を返しながら、自分の心理の変化に驚いていた。彼にはマーカスを殺そうなどという気持ちはまったくなくなっていた。
「マーカスが善人でも悪人でもそんなのはどうでもいいでしょ。重要なのはマーカスの首は黄金と交換できるってことだよ」
ミラは言った。静かだが有無を言わせぬ強さのある口調だった。
「ミラ、頼むからやめてくれ」
クライヴの懇願をミラは無視した。彼女はゆっくりマーカスに向かって歩いていく。床に広がったダンカンの血だまりを慎重によけながら。彼女はまるで亡霊のように足音がしない。
クライヴがミラを止めるためにしがみつこうとする。彼女の白い肩をクライヴが掴もうとする瞬間、エイジャイがクライヴを羽交い絞めにした。エイジャイは素早くクライヴの首に腕を回して締め付けると、たちまちクライヴは失神してしまった。
「こいつは……」
誰に向けた言葉でもなく、エイジャイはひとり言のように言った。
「こいつは気が優しすぎるんだ。こんな仕事には向いてねぇ」
ミラたちがクライヴに気を取られてる隙に、マーカスは取り落とした剣を拾おうとしていた。
「無駄なあがきはやめた方がいい」
ミラはマーカスに向き直る。
「もうとっくに、死の運命はあなたの心臓をその手に掴んでる。つぎにあなたが目を閉じたなら、もう二度と開くことはない」
マーカスはミラをにらみつけた。その目には恐怖も憎しみもなかった。そこにあるのはただ疲れたような倦んだ光だけ。
「『騎士なき騎士団』がやってくるぞ。魔術師狩りの猟犬たちが。必ずお前たちは殺される」
ミラは剣を抜いた。音はしなかった。
「それが?あなたはここで死ぬ」
マーカスはミラに切りかかろうとした。その時、マーカスは冷たい風が足元を撫でたように感じた。途端にマーカスの足から力が抜け彼は倒れこんだ。彼のふくらはぎは引き裂かれていた。少し遅れて傷口から血が流れだす。
まるで闇夜に閃く稲妻のように一瞬でミラがマーカスの足を切り裂いたのだった。
マーカスは痛みにあえぎながら床に手をつく。その姿はまるで懺悔しているかのように見えた。
これから、この国で最も古い家系の一つが途絶え、黒い棺の上に並ぶ死者たちの列に最後の新入りが加わることになる。
ミラは剣を振り下ろす。
だが、彼女はしくじる。一度で止めを刺すのに失敗してしまう。
マーカスは痛みに叫び声をあげ、ありとあらゆる種類の言葉でミラたちを呪う。
その姿を見てエイジャイは恐怖を覚えた。マーカスの呪いを恐れたわけではない。エイジャイが恐れたのはこれから世界から精神が一つ欠け、二度と元には戻らないという事実だ。
エイジャイはへたり込んでしまった。彼は目を瞑り、耳をふさぐ。エイジャイは悟る。長い年月はすっかり自分を変えてしまっていたことを。自分がすでに年老いて何の役にも立たない幻であることを。
※
結局、マーカスにとどめを刺すのにミラは剣を四回も振る必要があった。
それでもマーカスの首を綺麗に落とすことはできず、さらに剣を何度か振らなければならなかった。
その間、エイジャイはじっと座り込み精神を閉ざしていた。あらゆる現実世界の出来事を彼の皮膚の表面で止めてしまえるように。エイジャイは失神し倒れているクライヴを羨ましくさえ思った。
エイジャイは気づいていなかったが、クライヴには意識が戻りつつあった。寝ているのか起きているのかも定かではない薄靄のかかったクライヴの頭の中にはマーカスの言葉が木霊していた。彼の呻き声、命乞い、罵倒、すすり泣き、それらの残響が渦を巻いて一つの文章になっていく。
『騎士なき騎士団がやってくるぞ。魔術師狩りの猟犬たちが。必ずお前たちは殺される』