6マーカス
三人はカートリーの城にたどりついた。円、曲線、曲面を反復する西方風の様式の装飾が城壁を覆っている。尖塔にはカートリー家の紋章である《嘶く牡鹿》を描いた旗がはためいていた。
城門は固く閉じられている。
「どうやって忍び込む?」クライヴは言った。
ミラは剣を引き抜き、城壁の上に向かって放り投げた。
「こうやって」
クライヴが気付くとミラは放り投げたはずの剣を握っていた。剣には歪んだミラの姿が映り込んでいた。ミラは城壁の上に立っていた。
「あんたの魔術を使ったのかい?」クライヴが言った。
ミラは何も答えない。
「『鏡渡り』がミラの魔術さ。自分の姿が映った物の間を渡り歩くことができる」
エイジャイが言った。
ミラはロープを垂らした。クライヴとエイジャイはそれを伝って城壁に登り、城の中に忍び込んだ。
空が曇り始める。雲が光を鈍らせ、光と影の境界をあいまいにしてしまう。雨の気配が忍び寄っていた。
※
雨と夜と月を抽象化して描いた細密な模様が城の通路の壁や柱を飾っていた。通路の天井には壁画が描かれている。宗教画だ。嘆いている老人の絵だ。
ミラはその絵画が何を描いているか知っている。古代の物語の一場面だ。善き人の受難の物語だ。
絵の中の老人は天を仰いで嘆く。老人の裸体はやせ細り、筋が浮きあがっている。老人は自分が善き人であると天に訴える。なぜ自分に災いをもたらすのかと老人は嘆く。だが、彼の訴えを聞く者はいない。彼の訴えに天が答えることもない。老人の背後にあるのは闇、ただ闇だけ。
「マーカスの野郎はどこにいるんだ?城中探すのは骨が折れるぜ」
エイジャイが言った。
「ジジイ、俺の魔術を見てな」
クライヴは壁に掛けられていた松明を外す。炎が揺らめく。火の粉が舞い細い筋になり地下に向かう階段に向かって流れ込んだ。
「俺の魔術は進むべき道を教えてくれる」
階段の奥は光の届かない墓場のように暗かった。
「この先みたいだぜ」
「気をつけろよ。俺たちはこの階段を降りることはあっても、登ることはないかもしれねぇぜ」
「ジジイ、マーカスはクソ野郎さ。俺たちが負けるはずねぇ」
クライヴの言葉はどこか空々しく響いた。
※
三人は階段を下りていく。クライヴの持つ松明の炎の幽かな光が壁にミラたちの影を投げかける。伸びた影は暗闇の中で奇想の怪物のように見えた。
暗く肌寒い、ミラは感じた。彼女は腰に吊り下げた剣を確かめる。もう何年も彼女は剣を振るっていない。うまくやれるだろうか、彼女は不安になる。一人の人間を殺すこと、一つの精神を消してしまうこと、一つの魂を忘却に追いやること。その難しさをミラは知っている。
夫への誓いが彼女の頭をよぎる。
『剣を振り血を流す代わりに、鋤を振り汗を流す』
彼女は思う、階段を降りる一歩一歩は裏切りだ。昔の穏やかな暮らしが、昔の満ち足りた喜びが、昔たてた誓いが、一歩一歩記憶の深い海に沈んでいく。一歩一歩、彼女は階段を降りていく、さらに奥の闇に向かって。
※
階段を下りた先は小さな納骨室だった。黒い大理石で造られた棺が規則正しく並んでいる。
棺の上には代々のカートリー家の当主を象った胸像がある。この家系はこの国で最も古い樹の樹齢より長く続いているのであった。どこか奇妙に似通った顔達の列は新入りが加わるのをじっと待っている。
「この奥だ」
クライヴが言った。舞う火の粉の流れは納骨室の奥の礼拝堂まで続いている。礼拝堂のステンドグラスが上下あべこべとなって、黒い棺に映り込んでいた。
三人が礼拝堂に入ると、互いに向かい合っている二人の男がいた。
一人は喪服を思わせる黒いローブの上に、毛皮の襟がついたマントを羽織っている。彼の顔は納骨堂にあった死者たちの胸像に似ていた。
ミラは直感した。彼がサー・マーカス・カートリーだと。ミラはこの男を胸像の列に加えるためにここに来たのだ。
もう一人の男は鎧を着て、剣と盾を構えている。いかめしい顔の男だ。きっと彼の唇は微笑むことを知らないだろう。男の盾には星と炎の紋章が描かれている。
「見たことねぇ紋章だ」クライヴが言った。
二人の男は納骨堂に入ってきた三人の闖入者を油断なく見つめる。
「私はダンカン。シャーウッド家に仕える騎士だ。サー・マーカスに裁きを与えるためにここに来た」
星と炎の紋章の男が言った。
「お前らも私の首が欲しいのか?お前らもこの騎士も薄汚い人殺しだ。なんの権威もないのに人を裁こうとしている」
マーカスが言った。
「その言葉そのままあなたに返そう。あなたは罪人だ。妻殺しだ。この世のあらゆる鞭にうたれるのに、あらゆる石を投げられるのに値する」
ダンカンはマーカスに言い返した後、ミラたちに向かって指を突き付けた。
「この男の命は私のものだ。お前たちは手を出すな」
ダンカンは静かに剣を抜いた。
ミラたち三人は思わず顔を見合わせた。
「ミラ、エイジャイどうする?」
「魔術師がみな騎士とは限らない、でも騎士はみな魔術師だ。気を付けないといけない。あの二人がどんな魔術を使うのか見よう」
戦いはすでに始まっている。
マーカスは静かに剣を抜いた。途端に彼の姿が薄れていく。彼の姿も気配も真昼の月のようにおぼろになり、やがて完全に消えてしまう。
マーカスが魔術を使ったのだ。
ダンカンはとっさに壁を背にする。これでマーカスは彼の前方からしか攻めれない。彼は油断なくマーカスが間合いに入るのを待ち受ける。
マーカスの姿は目には見えず、皮膚に感じることもできない。だが、耳で聞くことはできた。マーカスの小さな足音は礼拝堂の静寂の中で場違いなほど大きく響く。
足音は少しづつダンカンの方に近づいていく。彼の間合いのすぐ外で止まる。そこはマーカスにとっても間合いの外だ。
ダンカンは焦らずにマーカスが間合いに入るのを待っている。
動く者はだれもいなかった。息の音さえ喧しく感じるほど静かだった。みな決定的な瞬間の訪れを待っていた。
血しぶきが舞う。どうと倒れ伏した、ダンカンが。彼の盾の上に血が飛び散り、星と炎の紋章を塗り消してしまう。
ダンカンの腹からは剣が突き出ている、マーカスの剣だ。だが、マーカスは一歩も動いていない。
マーカスはダンカンに向かって剣を投げたのだ。
「この男の死体は城門から吊るそう。私を殺そうなどと考える者が二度と現れないように」
マーカスはダンカンの死体に唾を吐いた。マーカスはしばしのあいだその倦んだようなくぼんだ眼を閉じた。その姿は黙禱を捧げてるようにも、ただ疲れて休んでいるようにも見える。
「お前ら三人もこの男の横に並ぶことになる」
彼はゆっくり目を開いて、ミラたち三人に指を突き付けた。
「決闘だ。最初に死ぬやつを一人選べ」
「決闘?決闘は名誉をかけるもんだぜ。てめぇは女を殴り殺した。正々堂々戦った男に唾を吐いて侮辱した。名誉なんかあるもんか、この卑怯者が」
クライヴはいきり立った。
「では、お前は臆病者だ。卑怯者相手に三人がかりで挑むのだから」
エイジャイが笑った。彼の暖かな茶色の目が孤を描く。
「クライヴ、おめぇさんはそこで見てろ。こんなことには関わらねぇ方がいい」
「俺は臆病者じゃねぇ」
クライヴはエイジャイをにらんだ。
「クライヴ、決闘に付き合ってやる必要はない。もし決闘するなら私たちは手助けできない。たとえあなたが殺されても」
ミラは知っている。どんな勇気も、どんな名誉も、矢や剣を阻む盾にはならないことを。
だが、ミラの言葉は逆効果だった。クライヴは詩的な名誉、すなわち戦いの栄光を何よりも重んじる。そして、正義や栄光は流血によってのみ得られると思っている。流血、そして死。
「俺は臆病者じゃねぇ。ミラ、ジジイ。あんたらは寝てていいぜ」