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2合流

 その日は朝から雨が降っていた。雨が透き通った音を立てて、この小さな村を白い霧の底に沈ませていた。遠い懐かしさと、湿り気を帯びた深い感情をかき立てる日だった。


 ミラは鶏の世話をする手をとめた。西の方からやってくる人影が見えた。雨脚が激しくなってきた頃だった。


 人影は夜を塗りこめたような黒毛の馬に乗っていて、顔はフードに隠れて見えない。もしかしたらその下には形のない闇しかない、とさえ思える。


 人影のカバンには配達人であることを示す紋章が吊り下げられていた。

 

 男はミラの前で馬を止めると、彼女に向けて手紙を放り投げる。


 「トーレンの街からだ」


 と、いうやいなや配達人は外套を翻して雨の奥に去っていった。 

 

 ミラは差出人の名を確かめる。彼女の息子からだ。

 

 彼女の息子はトーレンの画工房の職人をしている。十二の時に弟子入りし、もう四年たつ。すでにトーレンでは名が知れつつある。一年ほど前、彼の所属する工房が聖堂の壁画を手掛けた。その中で彼は二人の天使と背景の荒野を担当し、さらには銅版画を数点と、皿の絵付けも経験している。

 

 ミラはトーレンの聖堂に行ったときのことを思い出す。壁画のお披露目で集まった人だかり、この世のものとも思えぬステンドグラスの光、圧倒されるほど巨大な壁画。全てが神聖で、全てが光り輝いていた。彼女は絵の中の二人の天使を自分の息子が手がけたことを誰彼かまわず自慢してまわったものだ。


  彼女はどこか浮ついた気分で手紙を見る。彼女は息子からの便りにいいようのない深い喜びを感じる。


 だが、彼女が手紙の内容に目を通し始めると、喜びは霧のように消えてしまう。まるで文字が読めなくなったかのような錯覚を彼女は覚える。頭の中に薄靄の紗膜が降りてきて、手紙の内容を現実だと受け入れるのを拒否するのだった。


 今はあえて手紙の内容を詳しく語ることはしない。より語るにふさわしい場面が後に控えているからだ。ここではただ知っておけばいい、手紙はミラに深い苦悩を与えたことを、不殺の誓いを反故にするほどに。


 ミラは手紙を読み終えた後もしばらく立ち尽くしていた。ただ雨の音があたりに立ち込める。


 ミラはクライヴを追うために西に行くことを決意する。彼女は旅の準備を始める。




 (俺を追いかけてくる奴がいる)

 

 朝から降っていた雨は夕方になるとやんだ。クライブは馬から降りて、右耳をまだ渇いていない地面につけた。彼は頬に湿った冷たさを感じた。濡れた土の奥から蹄の音が聞こえてくる。追跡者の音だ。

 

 (王の騎士かもしれねぇ。サー・マーカスを狙ってるのを嗅ぎつけられたに違いねぇ)


 クライヴは小川沿いの小道に沿って進み、渓谷に出る。川幅は広くなり、小さな湖のようだった。鏡のように水面は凪ぎ、厳しい岩棚を映しこんでいた。陽光は淡くなり、月の光が日の光を追いやろうとしていた。

 

 クライヴは振り向く。追跡者の姿が見える。逆光のために灰色のぼんやりした影になっている。


 彼は小道からはずれ、拍車を入れて馬を岩棚へ上らせる。夕陽を受けて黄金色に輝く下生えに身を潜める。彼はうつぶせになって追跡者の足音に耳を澄ませる。あたりには白樺が寄り集まっている。風が枝を揺らすたび、雫が落ちてくる。



 クライヴは息を潜めて蹄の音が近づいてくるのを待つ。彼は水袋から水を飲み、乾燥肉を口に運ぶ。肉は筋張っていて固い。追跡者の気配がうつろな響きをたてて近づいてくる。


 クライヴは小さな声で歌を口ずさむ。誇り高き騎士たちと異教の戦士たちの戦いの歌だ。


 「我は鷹よりも、燕よりも早し」


 呻くように、自分に言い聞かせるように彼は歌う。


 「我にまさる勇士はなかりき」


 そして、追跡者の音がクライヴの目の前まで来る。冷たい風が吹く。クライヴは短剣を引き抜き飛び掛かる。白樺の枝が揺れ、雫が葉から落ちる。


 短剣は空を切る。気づけば追跡者の姿は消えている。

 

 「いきなり切りかかるなんて、どういうつもり?」


 クライヴの後ろから声がする。絹のリボンのような声だ。子供っぽい甘さと、大人の落ち着きを持っている。

 

 クライヴは振り向く。そこにいたのはミラだ。剣をクライヴに突きつけている。剣先が彼の喉に当たる。血が一筋流れる。

 

 「すまねぇ、あんただとは思わなかったんだ」


 クライヴは短剣を捨てて両手を挙げた。


 「どうやって俺の後ろを取ったんだい?あんたの魔術か?」


 ミラは答えない。彼女は剣を下ろし、短剣を拾ってやる。二人は馬に乗り、川沿いの小道を進み始める。


 「俺を追いかけてくるってことは気が変わったのかい?」

 「事情が変わったの。金が必要になった」


 雲が沈みかかった太陽を隠して空が暗くなった。

 

 「親父の言った通りだぜ。鷹は走れず、馬は飛べない。生まれ持った本性は変えられない」


クライヴは振り返ってミラを見た。


「あんたは生まれついての狼だ。羊を狩るのをやめることはできねぇ」

「私は変わった。もう十年も殺しはしてない」

「でも、あんたは俺を追いかけてきた」


 クライヴはミラから視線を外して空を見上げた。太陽は山際の向こうに滑り込み、冷たい北部の月が空を満たしていた。


「今回だけだよ」ミラはつぶやいた。「今回だけ」


 風が吹いて木々から雫が落ちた、まるで雨のように。



 瞬き始めた星空の下を二人は行く。冷え切った夜だ。馬は息の霧を吐いた。闇のなかで何もかもが希薄になっていた。遠くには見捨てられた古代の塔が見え、夜半を告げる鐘の音が遠くから聞こえてきた。


 西方の湖を渡ってきた風が冷たく吹きすさぶ。ミラは身を縮めて手をこすり合わせる。クライヴは気楽なもので、しきりに口笛を吹いている。旅路の苦難を主題にした曲だ。月の光はまるで霜が降りているようだった。



 「腕利きが要る。エイジャイを誘おう」 


 ミラは言った。クライヴはふてくされたような顔つきになった。


 「必要ねぇよ。俺ならやれるさ」

 「エイジャイはいい奴だし、一角の魔術師だよ」

 「俺だって魔術の腕には自信があるぜ」


 クライヴはさえぎるように言った。


 「俺じゃ頼りにならないって言うのかい?」

 「必要なのは自信よりも慎重さだよ。私はあなたを心配しているの」


 ミラの言葉にはクライヴの心を揺り動かす何かが備わっていた。彼はひどく動揺した、彼女の言葉や青い目に宿る母親のような慈愛に。


 「クライヴ、私を仕事に誘うことをソーンヒルに話した?」


 ミラがたずねた。

 少しの間の後、クライヴはうなづき、弱弱しく言った。


 「親父は言ってた。母親を敬うようにミラを敬えって」

 「ならそうしなさい」


 クライヴは熱く大きなものが胸に込み上げてくるのを感じた。ミラの言葉は、眼差しは、流水で出来た岩のように永遠だった。彼は心の奥深くの柔らかい部分が切なくなった。古ぼけた涙がにじむのを彼は必死にこらえた。


 「わかった」

クライヴは言った。

 「リバーサイドに寄ってエイジャイを誘おう」





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