1.儲け話
「あんたが『鏡渡り』のミラかい?」
馬に乗った若い男が言った。まだろくにヒゲも生えそろっていない男だ。
彼の頬にはニキビがあり、しきりにそれを掻いていた。腰から短剣を吊り下げ、型の崩れた帽子をかぶっている。
ミラは夫の墓の手入れをしていたところだった。彼女は手を止め、男の方を振り向く。
「昔、そう呼ばれてたこともある」
陽が沈もうとしていた。西の山々は濃い影になり、光を背後に隠そうとする。東の空から闇が忍び寄り残照を押し流そうとすしていた。
差し込む夕日が、ミラの顔に深い影を作った。雪原のそこかしこの家々の煙突から煙が立ち昇っていた。
「寒みぃな」
男はそういって身震いした。彼は手をこすり合わせ、息を吹きかける。
男は馬から降りて西の空を見た。しばらく二人は何も言わなかった。薄れていく夕陽を静かに眺めていた。ミラは男の方を向いた。
「宿はあるの?」
「いや、あてはねぇ」
「なら、私のとこに泊まればいい。粗末なとこだけど、暖炉もあるし、ベーコンもある」
※
橙色の炎が暖炉の中に燃え上がり、朽ちかけた木の梁や崩れかけてむき出しになった漆喰の壁を暖気がそっと撫でた。
粗末な木のテーブルを挟んでミラと男は向かい合っていた。テーブルの上には錫でできた皿や、ナイフや、フォークが並んでいて、スープからは湯気が上がり、ベーコンは食欲をそそる臭いを放っていた。
「親父はよくあんたの話をしていたぜ」
男は言った。
「あんたのことを狼と呼んでいた、羊の群れに生まれた狼だってな。北部でも最高の魔術師の一人で一度に十人の騎士をぶち殺したこともあるって言ってたぜ。でもよ、あんたはまるっきりただの娘に見える」
高みに至った魔術師は時の車輪から外れてしまう。ミラは決して歳をとらない。半世紀前に生まれた十二の乙女だ。彼女は美しい、病的なほどに。
「6人だよ。私がその時殺したのは」
ミラの態度は年輪を重ねた大樹のように落ち着いている。ほとんど憂鬱と言ってもいい。
「もしかして、あなたの父親はソーンヒル?ソーンヒルはいつも話を大げさしちゃうから。夕日が影を引き延ばすみたいに」
ミラは鈴のような声をしている。
「ああ、ソーンヒルは俺の親父だよ。そんで俺の名前はクライヴだ」
クライヴは言葉をつづけた。
「親父からは他にもあんたの話を聞いてるぜ、それも大げさな話かい?」
ミラは黙ってクライヴに続きを促す。
「あんたと親父とその仲間たちは、昔、名うての凶賊だった。どんなことでもやった。あんたは特に腕利きで動く物なら何でも殺した」
ミラは俯く。年月の重みが彼女を押しつぶしたかのように急に小さく見えた。
「昔の話だよ、今はもうやってない、そういうようなことは。あの人が……夫が私をまともな人間にしてくれた」
ミラは黙ってしまった。頭の中で解決しなければならない問題をもっているようだった。二人の間に沈黙が訪れた。聞こえるのは暖炉の炎がはぜる音だけだった。
ぽっかりとあいた静寂の気まずさを紛らわすように、クライヴは様々な話題を持ち出す。北部の寒さについて、ミラの息子のこと、雨の時期が近づいていることを。
「北部に来た初めのころは毎年の雨期に驚いたぜ。この世の終りが来たんじゃねぇかってな。悪しき人々を戒めるために神が大洪水を起こそうとしてるんだって。でも、冬が来ると雨は止んじまった」
とクライヴは言う。
ミラも雨を見るたび神を思い起こす。だが、彼女はクライヴとは違う。雨は悪しき人だけではなく善き人にも降ることを彼女は知っている。雨は善悪に興味がないことを彼女は知っている。
話題はほかにもある。ミラの昔の話や、かつて名をとどろかせた魔術師たち―《長老》や《幸運者》といった面々の逸話―や、騎士と魔術師たちの古き良き戦いの時代の歌、クライヴはそうしたことを聞きたがる。彼はミラをまるで叙事詩に出てくる英雄のように考えている。
「実を言うと、昔話をするためにあんたを訪ねてきたわけじゃないんだ。俺には腕の立つ奴が要る」
クライヴはいっそ滑稽なくらい大げさに声を低めて言った。
「儲け話があるんだ」
「儲け話?」
クライヴがコートのポケットから御触書を取り出す。
「シャーウッド家がサー・マーカス・カートリーに賞金をかけた。マーカスの首を持っていけば、同じ重さの黄金と取り換えるそうだ」
ミラは御触書を見た。
「シャーウッド?カートリー?聞いたことない家名だけど」
「両方ともしがない田舎城主さ。マーカスはシャーウッド家の次女を娶ったんだが、彼女を殴り殺しちまった」
クライヴは言った。
「マーカスは殺されて当然の極悪人さ。裁判になったが、判決は無罪だった。判事曰く、妻は夫の所有物らしい。ある男が自分の物をうっかり壊しちまっても、そいつが間抜けだったってだけさ。だが、シャーウッド家は納得しなかった。親族を殺された者には復讐する権利がある。《血の復讐》だ」
「当代の王は《血の復讐》を禁じたでしょ。誰であろうと復讐者は王の騎士たちに追われることになる」
「復讐は神聖だ。たとえ神様だって禁じることはできねぇ」
「……炎が弱くなってきた」
暖炉を見てミラはつぶやいた。
彼女は立ち上がり暖炉に薪を足してやる。ちらちらと揺れる炎を見て、彼女はふと夫のことを思い出す。
彼女の夫にとってミラは仇であった。ミラは夫の前妻とその幼い息子を手にかけたのだ、彼女が夫と知り合うずっと前――まだ凶賊をやっていた頃――の話である。
※
ミラの夫の家系は代々≪長老≫と呼ばれる魔術師に仕えていた。≪長老≫は口が裂けても高潔とは言えず、どんな嘘つきも≪長老≫を誠実とは言えなかった。 ≪長老≫を棺桶に入れるためなら喜んで金を出すという人間は数えきれないほどだった。
当時のミラは凶賊としては全盛期だった。傷つけること、殺すことは生活の一部になっていた。ミラにとって≪長老≫を殺すというのは落ちている金を拾うというのと同じことだった。
ミラと彼女の率いる凶賊の一党が≪長老≫の居城に忍び込んだのは夏の新月の夜だった。夕方から降り始めた雨は夜になりにわかに激しさを増していた。雨が星の明かりや城下に見える家々の灯をかき消してしまっていた。
その日、≪長老≫は配下の騎士とその家族たちをもてなすための宴を開いていた。
広間は仄暗かった。部屋の隅に置かれたかがり火は今にも暗闇に飲み込まれそうだった。大道芸人が火芸を披露し火の粉がぱっと舞うたび、暗闇の中から騎士たちの拍手の音がした。
ミラたちは闇に紛れて広間に押し込み、≪長老≫も、彼の家族も、彼の騎士たちも、彼の使用人たちもみな殺してしまったのだった。その中には夫の前妻も、まだ口づけの味さえ知らぬほど無垢だった夫の息子もいた。
後にミラの夫になる男だけは風邪を引いて居室で休んでいたために助かったのだった。
そのずっとあと、ミラが凶賊として王の騎士たちに追われ、傷を負い、立つこともできず川のほとりで死を待っていたとき、彼女を助けたのが後の夫であった。彼は彼女が仇だと知らなかったのだ。
彼はミラの傷に油を塗って包帯を巻き。弱っていた彼女にワインと粥を用意し、寒がる彼女のために暖炉に炎を絶やさなかった。
ある時、ミラを探す騎士たちが彼の家にやってきた。騎士たちは女凶賊を探していると言った。小柄で病的なほどに美しく幼い女を。その言葉を聞いて彼はすぐに騎士はミラのことを探しているのだと気づいた。
そして、騎士たちはミラが犯してきた数々の罪や冒涜を、いかにミラが絞首台にふさわしいのかを力説した。当然、騎士たちは≪長老≫の城で行われた虐殺についても語った。
夫はミラが自分の仇であることを知った。
だが、彼はミラを騎士たちに差し出すことはしなかった。そんな女は知らない、と一言いっただけだった。
騎士たちが立ち去ったあとミラは彼に聞いた。なぜ、自分を騎士たちに引き渡さなかったのかと。
夫は言った。
『君は闇の中にいる。君は何者も恐れずに人を殺す。そしていつかは人に殺される。つるぎをとる者はつるぎによって滅びるのだから』
夫は続ける。
『僕は光の中にいたい。人を殺すのではなく、人を赦したい』
『あなたが私を庇ったせいで多くの人が死ぬ。きっと、私はこれからも人を殺すから』
『君は殺さない。僕が殺させない。誓ってくれ、もう二度と罪を重ねないと』
『言葉は空しい。朝に立てた誓いも夕べになれば忘れてしまう』
『どうすれば誓いは君の中で生き続ける?』
『朝起きるとき、あなたが隣にいてくれたら。夜眠るとき、あなたの隣で眠れるのなら。あなたが私に誓いを思い出させてくれるなら。あなたの親切な心遣いや思いやりを私が忘れてしまわないようにしてほしい』
ミラは彼の妻になり、息子を産んだ。遠い夢のような穏やかな日々だった。しかし、彼女が過去の罪を忘れることはなかった。
炎が揺れるのを見るたびに、ミラは身体を掻きむしりたくなるのだ。良心が彼女の中で首をもたげるのであった。
※
「マーカスはかなりの使い手って聞いてる。戦争を二度経験して、首級を上げたこともあるって話だ。マーカスをやるなら腕利きが要る」
芝居がかったクライヴの声がミラを現在に引き戻した。クライヴを見るとミラは必死に毛を逆立て自分を大きく見せようとしている子猫を連想する。
「他を当たってよ、私はそういうことはもうやめた。あの人と結婚した時誓いを立てた」
「結婚の誓いかい?」
「不殺の誓いだよ。私は誓った『剣を振り血を流す代わりに、鋤を振り汗を流す』と」
「大金が手に入るぜ。あんたの暮らしも楽になる」
クライヴは家の中のみすぼらしい様子を見回した。
「誓いを立てたんだってば」
「怖気づいたのかい?あんたは親父が言っていたほどの人間じゃなさそうだな」
クライヴはわざとらしくため息をついた。
「クライヴ、何もわかってないんだね。あなたはまだ子供なんだ」
ミラは冷静だ、氷のように。
「殺しは楽な仕事じゃないよ。よっぽど憎い相手でもいざとなると踏ん切りがつかないんだ」
「へっ、俺はガキじゃねぇさ。今までに四人殺したことがある。そん中には魔術師だっていた」
「腕利きが必要なら、リバーサイドのエイジャイを訪ねるといい。私の昔の仲間の一人だ」
「俺はガキじゃねぇ。一人でやるよ。いま決めた。俺は西に行く。もし、気が変わったなら追っかけてきてくれ」
※
次の朝、日が昇るとすぐにクライヴは馬に乗り去っていった。何度もミラの方を振り返りながら。ミラはこの青年になりかけの少年のことを哀れに思った。彼は誰かに認めてもらいたくて必死なのだ。
やがて、雪原の家々が目を覚まし、人々が騒がしく日々の仕事に向かい始める。村の子供たちが遊びながら歌っているのがかすかに聞こえる。
夜が来て、雨が降ってしまったら
どんなに目を見開いても
光は消えてしまうんだ
ミラも調子を合わせて小声で口ずさむ。
雨が降ってしまったら
光は消えてしまうんだ
過去がひたひた足音をたててミラに近づいてきていた。