第16話 ありがとう
「あの、ありがとうございました」
結局、稽古の時間が終わるまで医務室にいた私は、お医者さんに会釈をして、部屋を後にした。
荷物を取りに教室に戻らないといけないけど、クラスメイトに顔を合わせるのが憂鬱だ。下を向きながらゆっくり歩いていると、誰かに声をかけられた。
「あ、心葉さん」
返事よりも、頭を上げるよりも先に、肩がびくっと震える。
今日はもうほっといて欲しかった。
「なに?」
緩慢に顔を上げた私は、声の主を見て、呼吸が止まるかと思った。
その顔には見覚えがあった。
瑠璃に転生してからではない。
ゲームの中で見たわけでもない。
私がまだ、夏目花凛以外の何者でもなかった頃、高校生活という日常のまっただ中にいた頃――彼、池井悠人は私の世界の中心だった。
思わず目をこすると、幻想はすぐに消えた。
たしかに雰囲気はよく似ている。優しそうな顔立ちも、光が当たると茶色に見える髪の毛も。
でも、目の前の男の子は、心葉瑠璃と同じくらいの年頃だし、なによりここはゲーム『くくり姫』の世界。
池井くんと会えるはずがない。
他人の空似。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
「稽古が終わったから荷物を持って行こうと思って」
茫然と見つめる私の前で、池井くんに似た少年は荷物をかかげた。
「え、あ、その…………ありがとう」
名前はなんて言うんだろう。
同じ教室にいたのは間違いないんだろうけど、荷物を持ってきてくれたってことはやっぱり心葉瑠璃と仲がいいのかな。
それとも、指南役の先生に頼まれただけとか。
「いやあ、その、驚かせちゃったよね。あまり関わりないのに、急に荷物持ってきたりして。いちおう同じ組なんだけど、僕の名前くらいは覚えてたり」
「えっと……ごめんなさい」
「いや、いいよいいよ! 謝らなくて! 目立たない自覚はあるし」
「そんなことは」
反射的に否定しようとして、声が止まる。
乙女ゲームのこの世界は顔面偏差値が高く、美男美女がありふれている。
池井くん似の彼は間違いなく整った顔立ちをしているけど、この世界でそれだけで目立てるかというと、素直にうなずけない自分がいた。
むしろ、髪の色などに現実味があるぶん、ゲームの中で立ち位置があるとするなら、それは普通の――
「僕の名前は池橋六郎。すぐに忘れるかもしれないけど、いちおうそう言う名前」
どことなく卑屈さの漂う自己紹介。
見た目は池井くんに似てるけど、性格までそっくりとはいかないようだ。
「うん、ちゃんと覚えておく。えっと、私の名前は」
「だいじょうぶ、さすがに心葉さんのことをは知ってるよ。というか、知らない人はいないんじゃない」
そういう言い方をされると恥ずかしいのだけど、それもそうか。ここは心葉流の稽古場なんだし。
「はい、荷物」
「ありがとう」
六郎から荷物をうけとった私は、なにか言おうとして、でもなにを言えばいいのかわからず、結果としてその場に立ちつくす。
先に口を開いたのは、六郎だった。
「あのさ。試験の時に僕と会ったこと、覚えてる?」
「えっと、それってついこの前の初級試験のことよね」
「うん。といっても、話したとかじゃなくて、なんだろ。すれ違った? みたいなものなんだけど」
私の方にそれらしい記憶はなかった。
でも、心当たりならなくもない。
「もしかして、私がキリカといっしょに、その……横取りした一人?」
「そう、横取りされちゃった一人です」
全身をぴしゃりと叩きつけられた気分だった。
恨み言の一つでも言いにきたのだろうか。
まあ、そうでもなければ、特に関わりのない私にわざわざ荷物を持ってくることなんてないか。
「そんな険しい顔しないでよ。別に、怒っているわけじゃないからさ」
「……そうなの?」
「まあ、正直、試験の最中にイラつかなかったというと嘘になるけど、今はまったく。結局は未熟だった僕が悪いんだし」
そう言って微笑む六郎が、本当のところどう思っているのかは私にはわからなかった。
「ただ、それで心葉さんにちょっと興味がわいて」
「興味がわいたって……私に?」
「あ、別に気持ち悪い意味じゃなくって、ほら、心葉さんと魚住さんの二人の動きが、すごい手慣れてる感じだったから」
「……手慣れてる」
私だってあの行為がまぎれもない横取りだとは自覚している。
そこを褒められても、なんだか自分が強盗かスリにでもなった気がして、正直いたたまれない。
「これでも僕も気をつけてはいたんだ。試験は奪い合いだから注意しろってお爺ちゃんにはしつこく言われてたし。実際、ほとんど横取りされないように立ち回ってはいたんだよ。……でも、君たち二人の場合は気づいたらもう終わってるって感じで、手も足も出なかったから」
六郎は試験を思い出しているのか、ぼんやり宙を見つめていた。
「やっぱり、心葉流の跡継ぎは才能からして違うんだね」
「……そんなことないわよ」
「え?」
六郎と目が合った。
目が合っても逸らすどころか微笑を返すぐらいの池井くんと違って、六郎は気まずそうに視線を落とした。
「私は何もしてないわ。妖怪を倒したのは全部、キリカよ。六郎だって、見てたでしょ」
「たしかに僕の時はそうだったけど」
「あなたの時だけじゃないわ。他の人の時も全部、キリカのおかげ。私は後ろであーしろこーしろってわめいていただけよ」
「……でも、その指示、僕にはすごく的確に聞こえたよ」
六郎の言葉は嘘ではないのだろう。でも、それがどれだけ本当であっても、私にとっては気休めでしかない。
「……六郎は試験の手応え、どうだった?」
「僕にしては良くできた方じゃないかな。たぶん、受かっているとは思う」
「私はぜんぜんよ」
私は淡々と言葉を重ねる。
「試験失格間違いなしって感じね」
「でも、結果を見てみないと」
「ゼロ匹よ」
六郎はその数の意味がわかっていないようだった。いや、わかっていて、ありえないと思っているのか。
「私の討伐数はゼロ匹、合格なんて万に一つもないわ」
「いや、そんな、ゼロっていくらなんでも」
「嘘だと思う? 同じ教室なら、今日の稽古を、見たでしょ? 私、このところ妖術がまったく使えないのよ。試験の時もそうだった」
一度、口を開くと止められなかった。
今までため込んできた思いが、隠してきたことが堰を切ったように流れていく。
「妖術だけじゃないわ。そもそも、記憶がないのよ。ほら、私、最初に六郎のこと知らないって言ったでしょ。でも、あれ嘘かもしれないの。だって、記憶がないんだから。もしかしたら、心葉瑠璃は本当はあなたと話したことがあるかもしれない。ううん、話してなくても、知ってておかしくないわ。わざわざ荷物持ってきてくれるくらい優しいんだし。でもね、私はそれを知らない。何もわからない。心葉瑠璃が何を好きだったのか、何を思ってたのか、どうしたいのか、今の私には、それが何もわからないの」
才能の話をするなら、それが一番ないのは私だ。
私は結局、何もできていない。
それは妖術に限った話じゃなくて、この世界に来てから、いや、来る前からずっと。
女子高生の頃は、ゲームやアニメ、それに小説を読んだりするたびに「私ならもっとうまくやる」「私が生まれ変わったら」「私がヒロインだったら」そんなことを思っていた。
でも、実際はこれだ。
うまくやるどころか、失敗ばかり。素直になれず、虚勢をはって、口から出るのはでまかせばかり。やっと勇気を出してもその時はすでに遅く、何もかもが空回り。
私の知っている物語のキャラクターたちは、こんなところでつまずきはしない。
妖術だってすぐに教えてもらえるし、なんなら、我流で解決するかもしれない。
記憶が無いのだってなんとかなるだろう。たぶん、周りの人に助けられて、ゆっくりと、それでも着実にこの世界と馴染んでいくんだ。
でも、私にはそれができない。
私がかつて見下していたフィクションと比べて、今の私はどんなに――みじめなことか。
「よかったら……僕が教えようか?」
いつの間にか足元の廊下を見ていた私の耳に飛び込んできたのは、予想もしない台詞だった。
「僕なんかで助けになるかはわからないけど、その、もし困っているのなら……いつでも、手を貸すよ」
「……信じて、くれるの?」
はじかれたように顔を上げると、そこには困り顔で頭を掻く六郎がいた。
「いや、妖術がまったく使えないとか、記憶がないとか、ちょっとよくわからないってのが本音だけど。でも――」
彼の瞳が私を見据える。
そのどこまでもまっすぐな瞳が、もう戻れない過去の誰かと重なった。
「――心葉さんが、今すごく困っているってのはわかったから」
『――花凛が、困っているのは俺にもわかるよ』
目の前の景色が滲んで、何も見えなくなった。
私はとっさに顔を隠すと、その場にうずくまった。
「……ぅあ」
「こ、心葉さん!? ご、ごめん! いや、その、まったく信じてないってわけじゃないんだよ! ただ、突然すぎて噛み砕くのに時間がいるっていうか」
バタリと荷物が落ちる音に続いて、どたどた忙しない足音が聞こえる。
「その、ごめんね! 君がせっかく打ち明けてくれたことなのに、僕すごく無神経だった」
「……ち、ぢが、ちがうの」
言葉は誤解を生む。でも、言葉にしなきゃ何も伝わらない。
だから、これだけは言わなくちゃいけない。
「わだじ、これまでがんばって、妖術とか、おしえてもらおうって、いろいろ、ほんどにいろんな人にいったんだけど、でもっ、だれも」
「……うん」
温かい手が背中に触れるのがわかった。
「だれも、だすけて、くれなくてっ、うまくいかなくって、それで! だからっ!」
「うん」
「ぁあ、あの…………ありがとう」
この世界にきてから初めて頬をつたった雫の味はとてもしょっぱかったけど、医務室で飲んだ白湯のように、あたたかかった。