静寂
黒田の父親が死んだ。
自殺だった。黒田が家に帰ったら首を吊ってた。黒田の父親が務めていた会社はあんまりにも労働条件がひどかったらしくてそのことを公にされたくなくて随分多額の示談金を提示してきた。黒田の家はにわか金持ちになる。引き換えになったものがものだけに全然まったくうれしくはないのだろうけど。
金切り声を挙げてきいきいと騒がしかった黒田の母親は父親が死んだのを契機に静かになった。けれどその静かさは決していい静かさではなくて今度は逆にひとっことも喋らなくなった。焦点のあわない目で宙空を見ているようになった。黒田の望んだ静寂は思いがけない形で手に入り、黒田はそれを喜んだ。
「お昼寝しててもね、声で起こされないの。食器の割れる音もしないの。父さんの唸り声もしないの」
黒田は澄んだ笑顔で話す。黒田の顔つきはちょっと疲れているようには見えたけどどうみても父親が死んで悲しいという風ではなくてもう少し的確に表現すれば「肩の荷が降りた」感じで、親が死んだこととぶち壊れたことをこんな風に喜ぶ黒田を前にしておまえほんっとうに追い詰められてたんだなと切なくなって俺は黒田を抱きしめる。黒田は自分がなんで抱かれているのかわからなくてきょとんとする。でも抱かれてるうちになんか悲しくなってきたらしくて凍結されてた感情が体温で溶けるみたいにして黒田はあああああううううううううううと俺に縋り付いて泣く。人間はきっかけがないと泣けないし泣けないとずっと苦しいんだ。ずっとずっと苦しんだ。泣き出してしまったら止まらなくて黒田はきれぎれに思い出のこととか話してるみたいなんだけど言葉が喉に引っかかってしまってうまく出てこない。きちんと聴き取ってやれないのがもどかしい。黒田の中には壊れた機械になる前の父親との思い出がちゃんと残っていて愛情が注がれていた幸せだった頃の記憶が溢れて黒田を地上で溺れさせる。黒田はうまく言葉を吐き出せない代わりに涙と鼻水とで俺の服をぐっちゃぐちゃにする。溢れ出た涙と鼻水と思い出は俺にもなにかを与える。まあいいやと俺は自分の服を諦めて173センチの黒田を胸に押し付けるようにして頭を撫でてやる。俺は自分の体のでかさがあんまり好きではなかったけれどいまだけは黒田より身長が高くてよかったと思う。おどうさあんと黒田が体を震わせて全身から熱を発する。黒田は必要な量の思い出だけを掬って洟を啜って涙を拭って体の中に戻してそれはきっとこのあとの黒田の体を温める大切な燃え尽きない薪みたいなものになるんだろう。小さな太陽になるんだろう。胸の中の黒田の熱さで火傷しそうで俺は冬の木みたいな黒田の体のどこからこんな熱量が生まれるのか不思議に思う。
火葬が行われて父親の体は1200度の高熱に焼かれて白っぽくてすかすかな骨になる。骨にならなかった部分は灰として残るか煙に乗って煙突から飛び立っていく。風に乗って街に散っていく(千の風になって、だっけ?)。母親の方は相変わらず一言もしゃべらないし目の焦点もあっていなくてぼけっとしていて俺は母親の代わりに黒田に付き添って黒田の父親の骨を拾う。黒田の父親は痩せてて体を折りたたんだらちょっとしたスーツケースに入りそうなくらいほっそりした人だったけどいまとなってはぱりぱりに砕かれてスーツケースの十分の一くらいのサイズの骨壺の中にすっぽりと納まってしまった。人間って死んだらあんなに小さくなるんだな。
夜になって俺が自分の家に帰ると、村雨が俺を待っていた。通夜には来たけれど葬儀の日までは一緒に来なかった村雨が「おつかれ」と言う。俺がなにも言わずに自分の部屋に引き上げるとノコノコと引っ付いてくる。俺は無駄に興奮していて誰かを抱きたい気分だったから「ついてきたらヤるかも」と村雨を脅すけど「ヤる?」なに言われてるかわかってない風の村雨が部屋まで入ってきてドアを閉める。ほんとにわかってないんだろうか、こいつ。大学生の彼氏がいて。
俺の興奮は多分死が近づいたら子供残したくなるとかそういう感触と近くてあのかぴかぴに乾いた白い骨はものすごく身近に死を感じた瞬間だった。
「だいじょうぶ?」
「どうだろう」
俺にもわからない。
俺はいま大丈夫なのか。
「なんか話したいことある?」
ある。
俺はずっと村雨との距離感がわからなくて困ってたことを話した。おまえは別の男と付き合うし俺が黒田と付き合ってたらおまえは泣くしでも遊びに誘ったらついてくるし二人きりでどっかいくのもお互いの部屋も余裕で意味わかんなくてぐちゃぐちゃで変になりそうだった。村雨は「ごめん」と言う。なんで謝る。村雨も同じように距離感で困っていて俺のことが結構好きででもそれが恋愛的な好きなのか友達的な好きなのかわからなくて男と付き合ってみてそれを確かめてみようとかしてそしたら俺が黒田と付き合ってるみたいでどうしていいかわからなくて俺たちはもうどうにもならなかった。それでそのうち俺は黒田のことがほんとに好きになって村雨も本気で好きだと思える年上の彼氏ができてあーだこーだとうーだいーだと俺たちはぐだぐだと話し続ける。ちょっとわかった気がする。村雨はいいやつなんだ。俺が死にそうな顔で道歩いてたら彼氏ほっぽって俺のことをがくがく揺さぶって大丈夫なのかとかやっちゃうやつなのだ。それが彼氏にどう思われるかとか一瞬忘れちゃって大変どうしようどうにかしようって思っちゃうやつなのだ。だからそれでいいんだと思う。俺は村雨が死にそうな顔をしてたら黒田ほっぽって村雨をがくがく揺さぶって大丈夫なのかって聞いてやればいいんだ。それで黒田がどう思うかとかは一瞬忘れてたごめん埋め合わせするから悪かったでいいんだ。つまり俺と村雨は友達で、それもちょっと特別な友達なんだ。それは黒田や彼氏くんにとっては結構さみしいことなのかもしれないけど俺と村雨はそういう間柄なんだ。
それから俺は誰にも話そうとは思えなかったことを村雨ならまあいいかと思い、話始める。
俺はウサギとイチゴの畑とゆっくり昼寝ができる静かであたたかい家を持ちたいという黒田の夢のことについてと、そこに俺の存在がどれだけそぐわないかを村雨に長々と話す。黒田は俺にへばりつかずに別の男を探すべきなんだと説明する。俺と俺の暴力が黒田の夢をどんな風に握りつぶすかを力説する。
村雨は俺の話をきょとんとして聞いていて、全部聞き終えたあとで「そんなの勉強していい大学入って働いてうっちーがそんな家を建ててあげればいいじゃん?」と言った。
俺の中にいろんな言い訳が思い浮かんだけれど俺はなにも言い返せなくてそうか、そうなのか、あいつが別のやつを選ぶんじゃなくて俺が建ててやればいいのかと妙に腑に落ちた気分になって黙った。
気づいてなかったのかよと村雨がげらげら笑った。
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