犬
学校。朝。村雨は下川が黒田になにかしようとする度に「だっせーだっせー」と言い続けた。面目を潰された下川はクラス内での標的を村雨に移そうとしたけど、村雨は強くて明るいやつで友達も多いから人望の差で下川から発言権を奪ってしまう。じゃあ男の江崎を後ろにおいて暴力で村雨に対抗しようとか思ったみたいだけれど、江崎は女子に暴力を向けるのが嫌で、おまけに村雨の後ろから江崎と下川を見ている俺の視線に完全に腰が引けている。腹を蹴っ飛ばしたのが尾を引いているらしい。ははは。村雨は俺の使い方を心得ていて俺はちょっと呆れる。番犬うっちー。忠犬うっちー。実際のところ手を出す気なんかさらさらないつもりだったが、村雨が男の暴力に晒されたら俺は相手をどうにかするのだろう。相手が女でも引き剥がすくらいのことはするのだろう。わんわん。
黒田はどうすればいいかわからずに教室の隅で小さくなっている。自分のせいで下川と村雨がもめていることを申し訳なく思っている。ざまぁとか思ってればいいのに黒田はそういうやつなのだ。
村雨が俺を見る。何を言うわけでもなく。じーっと見る。くいっと顎を小さく動かして黒田を指す。自分でやれよと思うけれど、あたし、黒田のことよく知らない、と目線だけで言う。アイコンタクトでこれだけやりとりできる俺たちっていったいなんなんだよとあきれる。……わかったよ。
俺は自分の椅子から立ち上がる。黒田の正面の、持ち主がどっか行ってる椅子に横座りする。
「本の話、してくれよ」
なんて切り出せばいいかわからずに、ぶっきらぼうな言い方になる。
黒田は驚いた顔で周りを見る。俺は黒田に教室では話しかけるなと言っていたし、黒田がなにかされていても大抵黙ってみていて、江崎や下川ともぶん殴る前はよく話していたから。俺と黒田が付き合っていることを知らないクラスの面々が俺たちの取り合わせを奇妙な目で見ている。「あいつ暴れたのってそういうこと?」と誰かが言う。そういうこと。
黒田がえらく小さい声で話し始めたので俺は黒田の口元に耳を寄せる。黒田はドストエフスキーの罪と罰の話を始める。1866年にロシアで書かれた小説で、金がなくて大学に通えなくなってくたびれた若い男が質屋をやってるケチで悪辣な婆さんを殺して金を盗む話だ。その若い男は「人々を苦しめているこの金が大勢の人間を救うことに使われたとしても殺人の行いは悪か?」とか考えて自分の行為を正当化しようと試みるけれど、婆さんを殺した際にその妹に犯行を見られてしまって口封じのために妹も殺してしまって自分の中での正当性を失う。
そもそものところその金は婆さんが婆さんなりの方法で必死に稼いだもので資本主義的な考え方では男の行為に正当性なんてものは微塵もないのだと黒田は言う。だから現代の価値観とはまるで相容れない。金を持っている人間を殺してしまってばらまいて大勢の人間を救うってのは社会主義的な考えで、こういった考えの土壌や理解があったからのちにロシアではスターリンが出てきたんだろう。と、こんなふうに。
文学の話だったのにソビエト社会主義共和国連邦の指導者の名前ができて俺は面食らう。文学と政治が繋がってるなんて考えもしなくて、変な感動が俺の胸を打つ。
でも俺は全然別のことを考えていて、黒田が話す内容は黒田を殺して黒田の財産を奪って表向きの平穏を保っていたうちの教室のことみたいだなと思う。
「いいや、それは違う。そんな読み方は間違ってる」
と、線の細い男が俺たちに絡んでくる。顔と名前が一致しなかったけどたぶん皆島とか君島とかそんな名前だったはず。どうでもいいけどこいつ耳いいな。興味あることが聞こえてきたから澄ましてたんだろうか。
皆島はラスコーリニコフの苦悩、懺悔、娼婦との関係、盗んだ金を埋めて使わなかったことにこそ価値があるんであって社会主義やスターリンなどになぞらえられるのは不愉快だと言う。俺はラスコーリニコフ(主人公らしい人物)の名前すら知らなくてぽかんとする。黒田も突然の闖入にビビッて押し黙る。皆島はちょっと残念そうな顔をする。言葉をふっかけて相手を黙らせることよりも黒田からなにかしらの反論が欲しかったらしい。なんだこいつは、ウルトラ馬鹿かと思う。そんな高圧的な言い方で相手の話を頭から否定してまともに相手されるわけないだろ。くそか。黒田だって別にこんなウルトラ馬鹿を相手にしなくてもいいのに、黒田はもごもごと何か言いたそうに口を動かしている。仕方なく俺は皆島に「声を落とせ」と言う。「それから耳を済ませろ。相手の声をきちんと聴け」皆島が頷く。
黒田は「文学も哲学も音楽も宗教も政治も全部繋がっていて切り離せないことだ」と言う。
戦時中の太宰治が戦争を批判する内容が検閲で弾かれる中でそれにどんな風に抵抗したかだとかを例に出して政治と文学の繋がりを話す。戦争を肯定する内容しか認められない中で忍ばせるようにして戦争の痛みや近しい人を喪うことの悲しみを綴ったことを話す。政治と文学の連なりを示す。だから同じようにドストエフスキーが書いた罪と罰の中での考え方とスターリンの台頭は無関係ではなくて、作中で資本主義的な考え方を話したピョートル・ペトローヴィッチが悪役にされていることはこうした主義的な土壌と無関係ではないと思う、少なくとも自分はそう感じたと話す。まったく話についていけずに俺はさっぱり蚊帳の外になる。太宰治といえば人間失格のさわりしか知らなくて薬中で女と心中したことしか知らない俺は黒田が語るやけに人間臭い剽軽者として振る舞う太宰のことが人間失格を書いた人物と同じだとは思えなくて?マークが出っぱなしになる、ドストエフスキーについてはまったくついていけない。黒田はいったいなにを話しているんだろう。かろうじて思ったことはそういえば前に黒田が話していたハツカネズミと人間も当時のアメリカの労働者の社会情勢と密接に結びついた話だったなということ。
皆島は少し考える。声を落として、太宰やドストエフスキーに関する自分なりの考えを話して黒田がそれに答えて皆島がそれにまた小さな声で答える。村雨を見るとあいつは俺がすっかり仲間外れにされているのがおもしろいらしくてくくくと笑っている。
皆島は馬鹿だがアホではなくてちゃんと相手の声を聴くことのできる人間で黒田の考え方に馴染みつつあり、黒田の方も皆島の考え方に一定の賛同があるらしい。アホの俺は少し羨ましく思いながら、きっかけはどうあれなんだかんだで黒田が同じ趣味のやつと結構楽しそうに話しているのを見て意味不明に泣きそうになる。俺はそっと椅子を立とうとしたけど黒田は俺の袖を掴んだ。手が震えている。話をするのが楽しくないわけではないのだけど、まだ怖いから俺にここにいて欲しいというのを感じ取って俺は話についていけもしないのにずっと座っている。
目を閉じて、黒田の声が昔の文豪について語るのを聴いている。