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黒田のこと

 黒田の話をする。

 ある日のこと。インターホンが鳴って夕飯を作ってる母親から「出て」と言われる。

 仕方なしに玄関を開けると外は大雨で真っ暗で一瞬なにもいないように見えたけど黒い髪を雨で濡らして顔の見えない黒田がつっ立っていた。俺の顔を見て「ごめん」と言い、そのまま駅の方へ歩いて行こうとする。たぶん駅前の漫画喫茶に行こうとしている。俺は黒田の手を掴んで家の中に引きずり込んで飯を作ってるリビングの横の廊下を通って二階に上がり、俺の部屋に黒田を放り込む。とりあえず暖房を全開する。俺は一階に降りて脱衣所からタオルを何枚か引っ掴む。部屋に戻り、黒田の服を脱がせると下着までびっちゃびちゃだったからそれも脱がせて裸の黒田の体を拭いてから俺のトランクスを履かせてシャツを着せる。黒田は細い。身長は女子の中ではかなり高めの百七十三センチなのに体重は四十八キロだという。あばら骨が皮膚の下に浮いている。皮膚の上には消火器に突っ込んだ時の小さな手術痕が残っている。腰骨が出っ張っている。乳もない。腕も細い。黒田の体は葉を落とした冬の木に似ている。無機質なそれはある種の機能美とか様式美めいたものが感じ取れて俺は結構気に入っている。

 タオルを変えて黒田の長い髪を頭のてっぺんから拭き取る。転校してきた最初の内はつやつやだった黒田の黒髪は長いこと手入れがされていなくてぼさぼさになっている。雨に降られたいまは毛先がおかしな方向に跳ねている。

 黒田はまだ寒さと緊張でぶるぶる震えていたから俺は黒田の細い体を抱きしめた。

「風呂入るか?」

「いいえ」

 黒田の体に体温が戻ってきたので俺は黒田を離す。黒田は俺の手を掴む。「はなさないで」か細い声で呟く。ワタシヲハナサナイデ。「しらねーけど、握っとけよ」俺は肘のあたりに黒田の手を移してハンガーをとって黒田の着ていた黒い服と下着をハンガーに引っ掛けてエアコンの前に吊るす。

「飯食う?」

「いらない」

「わかった」

 俺はベッドに腰かけて黒田を隣に座らせる。母親が「ごはんできた」と言ったが「あとで食う」と叫び返した。大きな声に怯えた黒田がびくんと体を震わせて俺は「すまん」と謝る。大きな音が苦手な黒田。村雨の怒鳴り声にもビビってた。

「どうしたとか聞かないの」

「訊いたら帰るだろおまえ」

「うん」

 にやっと黒田が口元だけで微笑む。

「アルカイックスマイル」

「そんな言葉知ってるんだ、意外」

「おまえに借りた本に書いてた」

 黒田は俺のことをアホだと思っている節がある。そしてそれは実際に正しい。俺はアホだ。

 アルカイックスマイルとは目元が笑っていない笑みのこと。静止している彫像にいかに動きを与えるかが課題とされていた時代に生命観の表現として流行したらしい。統一感に欠けていてちょい不気味な感じがする。モナ・リザなんかが代表例。

「ちゃんと読んでるんだ、へえ」

「部活クビになって暇だからなこちとら」

「停学はどうだった」

「楽しかったよ、なにせ学校いかなくていいんだから」

「なるほど」

「泊ってけよ」

「帰るよ」

「泊ってけ」

「……わかった」

 強く言われると拒否できないというわかりやすい女の黒田はぐったりと横になって目を閉じる。俺の枕は俺の代わりに女の涙を吸い込むようにできているのだろうか。黒田が静かに泣く。わんわん泣く村雨とは対照的な泣き方で俺はちょっと笑う。

「襲わないの」

「がおー」

「きゃー。ぎゃー」

「おまえ、あえぐだろ。親いるんだよ」

「理解」

 黒田はちょっと視線を下げて俺の我慢を見下ろしてくすくす笑っていたけれどそのうち止まらなくなったのか腹を抱えてけたけたやりはじめた。けたけたけたけた。「下着がスカスカで気持ち悪い」「女物の下着ってコンビニとかで売ってるのか」「そういう意味じゃない」「そうか」。沈黙。天使が通っていく(外国の慣用句だ)のを俺は横目に眺める。沈黙の天使は窓からどしゃぶりの外へと飛び立っていく。

「なんか話してていい?」

「どーぞ」

「うん」

 黒田は1937年にアメリカでジョン・スタインベックが書いた「ハツカネズミと人間」という本の話を始める。最近読んだのだと言う。

 ジョージとレニーという二人の男がいて、二人は農場で働いている。ジョージはちびでレニーは体がでかい。レニーはハツカネズミを飼っているが力加減を間違えて絞め殺してしまう。レニーはなんらかの知的障害を持っているのだと思われる。二人はいつか自分たちの農場を持つことを夢見ている。二人のような労働者は誰もが自分の農場を持つことを夢見ている。けれどそれを実現したものはいない。

 なんだかレニーという男が自分に重なる。

 体の大きなレニー。

 動物が好きなレニー。

 動物を絞め殺すレニー。

 ジョージの夢を握りつぶすレニー。

「いつかうちを出るの」

 黒田が目を閉じて言う。

「あったかい家を作るの。そこにはウサギがいて、イチゴの畑があるの。私はおうちでお昼寝してるの。あたりはとっても静かで眠り込んでしまって。起きたら夕方が近い。大変、急いでごはんを作らないと。もうすぐあの人が帰ってきちゃう、って私は大慌てで支度を始めるの」

「なんで叶わないフラグみたいな話し方するんだよ」

「叶わないと思ってるからだよ」

 けたけたけたけた。黒田が笑う。

 もしかしたら黒田にとって学校でのことなんてのはどうでもいいのかもしれない。黒田の敵は金切り声を挙げてヒスる母親とパニック障害で壊れた機械になる父親で、騒音に満ちた家で、眠りで、叶わない夢なのかもしれない。黒田の敵は巨大だ。俺と村雨は学校とかいうどうしようもなくてどうでもいい閉鎖空間からならば黒田を助けることはできるかもしれない。けれどヒステリーとパニック障害と音と眠りと夢から黒田を助けてやることはできない。俺は無力だ。村雨も。黒田も無力だ。

 それから俺たちはしばらくの間とりとめなく話しをしていて、黒田は疲れ果てて眠りに落ちる。黒田の家はここからかなり離れている。自転車も使わず傘も差さずに歩いてきて体力を消耗している。HPのバーが赤ゲージ。ついでにサン値も危うい。心配してよ! と言わんばかりの黒田のやり方。俺の他に誰も優しくしてくれないから俺の優しさに付け込もうとする黒田の甘え。髪を撫でようかと手を伸ばしたけれど、黒田は眠っているときに触れられるのが嫌いだということを思い出して手を引っ込める。黒田を握りつぶしてしまわないように。

 音をたてないように気をつけてそっと傍を離れる。俺は「さっさと飯を食えじゃないと片付けられない」と怒られてしぶしぶ冷めた米と野菜炒めとみそ汁を食う。

 外はまだ雨が降っていてざあざあざあざあと耳障りな音を立てている。

 俺はもう少し黒田の声を聴いていたかったなと思う。

 ジョージの夢を握りつぶすレニー。

 


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