村雨のこと
村雨の話をする。
村雨は俺の幼馴染で、家が隣であっちは野菜を作っている。うちは米農家。子供の頃から俺たちはお互いの家の作業を手伝ったり、西瓜を齧ったり胡瓜を齧ったり甜瓜を齧ったりしていた。幼稚園児の頃の村雨は気弱な性格で人見知りでよく俺の後ろに隠れていた。いまからじゃ考えられんな。ははは。誰かと揉めたりするとすぐ俺のところへ飛んできて「うっちー」と泣いて縋り付く、鬱陶しいやつだった。
小学校に上がって男子は男子、女子は女子と遊ぶ習わしがなんとなく出来上がった中でも俺と村雨は家の都合で顔を合わせ続けた。よく日焼けしてきいきい高い声で喋ってよく動いてよく食べるほそっこい野生の猿みたいだった村雨は、小学校の高学年に上がる頃から少しずつ胸が膨らんできて尻が出てきて女性的な丸みを帯びた体つきへと成長していく。そのくせ笑うときゅっと口角が上がってクールな感じになる。屈託がなくて、男女問わずに明るく振る舞う村雨は太陽みたいな魅力に満ちていたけれど、俺はなんとなくそんな村雨の鮮やかさを認めたくなくて自分が村雨のことが好きなんだということも認めたくなくて、少し村雨を避けるようになる。俺と村雨は少しずつすれ違う。
中学生になって村雨は二年の剣道部だという男と付き合い始めた。
剣道部の胴着と兜が発する汗の匂いが染みついたそいつのことが、俺は大嫌いだった。けれど田舎の狭い世界で暮らしているとどうしてもそいつと村雨のセットとすれ違うことがあって俺はイライラしっぱなしになる。
「あいつ臭くね?」
「あのにおい、嫌いじゃないんだよね」
村雨の俺への態度が変わらないことが俺のイライラに拍車をかける。なんとなく悔しくてサッカー部に入って俺も汗を流す。上級生は高圧的で理不尽でくそみたいで何度ぶっ殺してやろうかと思ったかしれない(そして何度か実際にやった)が、意味不明な練習を積み重ねているうちに体がでかくてそれなりの運動神経のあった俺はサッカー部のレギュラーの座を獲得する。別にうれしくなかった。
村雨は二年生に上がってしばらくした頃に剣道部の汗臭い男と別れた。村雨は「うっちー」と泣いて俺の部屋に来た。フラれたのかと思いきやフッたのだという。じゃあなんで泣いてんだおまえ、ばっかじゃねーのと俺が笑うと「そうだよお。馬鹿なんだよお」と剣道部の汗臭い男のことがまだ好きな村雨はわんわん泣く。泣く。泣く。熱を持った村雨の体が俺のベッドに横たわる。俺の枕に涙を押し付ける。布団をぐしゃぐしゃにする。なんだこいつは。わけがわからない。いまはもうほそっこい猿みたいではない、成熟には程遠いにしろ丸みを帯びた村雨の体。触れたかった。俺も熱かった。体中に熱がこもっていて俺の体はそれを発散させることを望んでいた。サッカー部の馬鹿が「一枚やるよ」と渡してきたコンドームが俺の財布の中で沈黙を守っている。びりりと声をあげて俺を飲み込むことを待っている。村雨をこじ開ける瞬間を待っている。村雨の甘い汗の匂い。季節は夏だった。
けれど村雨はまだあの汗臭い男に未練たらたらで、そんな村雨の体に触れたらひどく傷つけるだけなのはわかっていたから俺はじっと堪えて村雨を「ばーかばーか」と罵り続けた。「うっさい。超馬鹿」村雨が泣き続ける。俺の枕が村雨の涙を吸い込み続ける。
結局その後も村雨と俺の関係は全然まったく変わらなくて俺たちは「家が隣の友達同士」だったところへ、爆弾が降ってくる。黒田だ。澄子というきれいな名前でキラキラした女の子。いまとなっては井戸から這い上がってくるあの怨霊によく似ているあの黒田。黒田は都会からの転校生だった。黒田の家は父親が鬱になって会社をクビ(とは厳密には違うらしいが)になってこの田舎に引っ込んできたらしい。黒田の家庭はぶっ壊れていて、黒田はいつも母親の金切り声と父親がパニック障害で突然震えだして「ああああああああああああ」と壊れた機械みたいな声で唸ることに怯えていた。黒田の家にはストレスが満ちている。
学校でも、くそ田舎にとって都会からの転校生なんてのは異物だった。黒田はあっという間にあらゆるものを剥ぎ取られた。シャープペンシル、消しゴム、ちょっとした化粧品、愛読していた小説 (なんとかランドとかいう画家について書かれた話)、居場所、衣服、身分、プライド。都会からやってきたキラキラした女子中学生の黒田は一週間で田舎の猿共に身ぐるみを剥がされてぼろぼろになった。黒田は気の弱いやつで「やめて」の一言がなかなか言えなかった。村雨は教室の隅でおろおろしていた。下川の机を蹴っ飛ばす強さはまだこのころの村雨の中に育っていなかった。好奇心から黒田に近づいたのは俺の方だ。
好奇心。
そう、好奇心だ。都会からきたこのぼろぼろの女。髪が長くて真っ黒で目を隠している。怯えている。俺は黒田に興味があった。髪の毛を捲って顔をあらわにしてみればなかなか悪くなかったし、澄子というきれいな名前は、喧嘩っぱやくていつもイライラしていて性欲に塗れていてあの日に村雨を押し倒さなかったことをいつまでも後悔し続けている濁った俺からはひどく眩しいものに思えた。勿論、黒田の体にも興味があった。
少し優しくしたら黒田は簡単に心を開いた。俺といるときだけはよく話すようになり、そのうち唇を任せて、抱いても、胸をまさぐっても止めなくなった。コンドームの袋がぴりりと音を立てた。黒田は解放を求めていた。ストレスまみれのくそみたいな家。猿共ばかりの学校。俺も解放を求めていた。退屈、イライラ。思い通りにならない性欲。手に入らない村雨。
ある日、いつものように畑のことを手伝って俺の部屋で休んでいた村雨がゴミ箱の中を見る。使用済みの方はきたねーからティッシュを数枚とってそれなりに厳重に包んであったけど、無造作に捨ててあったぴりりと破かれたコンドームの袋の方を見つける。どっかーん。爆弾は爆発した。
「そうなんだ」
村雨が小さな声で言った。ほんの小さな声で言った。
それから一雫だけ泣いた。
右目から頬を透明な涙が伝った。
そのあとはいつもと同じように笑って出たばかりの新刊の漫画 (主人公が悪魔の心臓を得て紐を引っ張ったら変身するやつ)を読んでだべって遊んで、帰っていった。
なんだよ。なんで泣くんだよ。おまえが先に他の男を好きになったんだろ。だから俺はおまえをあきらめたんだろ。おまえだって、いままた付き合ってるやついるじゃないかよ。俺はわけのわからない混乱に襲われて壁を殴った。ごん。音を立てて壁紙が破れた。穴が開いた。ポスターで隠した。マキシマムザホルモンの骸骨の手が交差したポスターが壁の一か所を覆う。
高校生になって、俺と村雨の微妙な距離感は未だ続いている。
村雨はいつも通りだ。おしゃれになった。髪を薄茶色に染めて、出るとこが出て女らしくなった体はふとした無防備な瞬間に俺やクラスの男子の視線を集めるようになった。
俺もいつも通りだ。変わったことはサッカー部をクビになったことだけ。トップ下がいなくなってチームが弱体化して格下にぼろ負けして困り果ててそろそろ謹慎といてやってもいいぞと高圧的に言うサッカー部顧問の品川を俺は鼻で笑った。
黒田はどうだろう? 黒田のいつも通りってどんなだろうか。
家の中で母親が金切り声をあげて、父親が壊れた機械になる黒田のいつも通り。
俺にはわからない。
村雨のことも黒田のこともサッカー部のことも俺自身のこともさっぱりわからない。