ついてくる
実は、幽霊の出るホラー小説って書いたことなかった。
王道なのに。
で、書いてみました。
書き手にとって「幽霊、アイテムとして最高!」と実感しました。
登校途中、横断歩道の信号が青になるのをぼんやりと待っていた時、向こう側の車道と歩道の境に立っている人がいた。
あんな場所に立っていて危ないな、と思うよりも、別のことが気になった。
その人が、わたしに顔を向けていたからだ。
すらりと背の高い、若い女の人だった。
歳は十九か二十歳くらい。
女はスカート丈の長いワンピースを着ていた。とろりとした風合いの合成繊維を薄桃色に染めた生地に、大きな白い花が散らばっている。
ずいぶんと古めかしいデザインのワンピースの上には、何も羽織っていなかった。春とはいえ、今朝は冬に逆戻りしたような寒さだったのに。
小さな顔の中心にすっと通った鼻筋、華奢な顎の上には小さな薄い唇が見えた。
遠目からも、顔の下半分はとても整っているのが分かる。
だから、多分、綺麗な女なのだ。
多分、と言うのは、顔の上半分が、腰まである長い髪に隠れて全く見えないから。
それでも、女がわたしを凝視しているのが分かった。
何故なら、女の顔を覆う髪よりも黒々として、時折濡れたように光る丸い何かが、わたしの方を向いたまま、離れないでいたから。
(何だか、気持ち悪い)
信号が青に変わった。
わたしは、友達の美紀ちゃんと一緒に横断歩道を渡り出した。向こう側に立っていた人達も、信号の色が変わると同時に忙しく足を動かし始めている。
女がわたしに近付いて来た。
長い髪の間から見え隠れする目が、わたしの顔に吸い付いたように動かない。
その視線を避けようと、わたしは顔を伏せながら歩いた。
アスファルトに引かれた白い大きな横線を見つめながら歩いていると、突然、わたしの視界に、小さな足が入ってきた。
靴は履いていなかった。目に映ったのは、可愛らしいレースのフリルがついた踝丈の靴下だ。それも、汚れ一つ付いていない真っ白なものだった。
驚いて顔を上げた瞬間、わたしは女とすれ違った。
すれ違いざま、女はわたしのすぐ後ろでくるりと一回転した。
ワンピースの裾が大きく翻る。薄桃色の中に群生している白い花が、目の端に飛び込んで来た。
ぎょっとして後ろを振り向くと、わたしの後ろにぴたりとついて歩き出した女の姿が目に映った。
何度も後ろを振り返るわたしに、クラスメイトの美紀ちゃんが不思議そうな顔をした。
美紀ちゃんとは家も近く、幼い頃から仲の良い友達だ。
「真由ちゃん、どうしたの?」
尋ねられて、わたしはすごく小さな声で、美紀ちゃんに耳打ちした。
「どうしよう、美紀ちゃん。知らない女の人が、後ろからついて来ているの」
「え?」
美紀ちゃんは急いで後ろを振り返ってから、強張った表情をわたしに向けた。
「真由ちゃん、女の人なんていないよ」
「そ、そう?」
美紀ちゃんに言われて、ゆっくりと後ろを振り返った。
後ろの正面に女が立っていた。
「ひっ」
(やだ、気味悪い。すごく気持ち悪い!)
わたしは美紀ちゃんを置いて走り出した。
後ろから美紀ちゃんの慌てた声が聞こえたけれど、振り返らなかった。
*
ゆっくりと歩いて校舎に向かう友達を追い越して、教室に急いだ。
教室に入ると、クラスの皆がいつも通りに楽しそうにお喋りしている。後ろを振り向くと女はいなかった。さすがに校舎の中までは入ってこないようだ。
ほっとして、教室の前から二番目にある自分の席に座った。
教科書を机の中に入れてから、ランドセルを仕舞おうと後ろのロッカーに行く。
ロッカーから顔を上げると、開け放された教室の内窓の外に、廊下をゆっくりと歩いて来る女の姿が目に飛び込んで来た。
「どうして…」
わたしは目を大きく見開いて、女の横顔を凝視した。
横向きだった女の顔が、こっちを向いた。女はわたしに顔を向けながら、教室の後ろから入って来た。
誰一人、騒ぎ出す生徒はいなかった。
奇妙なことに、クラスの皆は女が教室に入ってきたのに全く気付いていないのだ。
そのことに、わたしは酷く驚いた。
一人で教室に入って来ていた美紀ちゃんを見た。
ちらりと目が合ったものの、美紀ちゃんはわたしから視線を外した。
登校途中、突然置き去りにされて、腹を立てたのだろう。わたしを無視するように、隣の席にいる詩織ちゃんに話し掛けている。
楽しそうにお喋りを始めた二人も、後ろの女には気付いていない。
そうじゃない。
女が見えるのはわたしだけなのだ。
そのことを理解したわたしは、一目散に黒板まで走って逃げた。
女はロッカーの脇を通り過ぎ、教室の角まで歩いていくと、窓際の壁の前で足を止めた。
右向け右の要領で黒板に顔を向けると、わたしを見たまま動かなくなった。
予鈴が鳴った。
小林先生が教室に来て、教壇にしがみ付いてぶるぶる震えているわたしに首を傾げた。
「どうしたの、相田さん。気分が悪いのかしら」
わたしにしか見えない若い女の人が、教室の右端に立っています。なんて、言えるわけがない。だけど、恐怖で喉の奥までカラカラになっていて、掠り声も出なかった。
「貧血?それともおなかが痛くなったのかな?」
小林先生は心配そうにわたしの顔を眺め回した。
保健室に連れて行くと言われて、わたしは飛び上がった。
だって、教室の後ろにいる女が後ろからついて来るだろうし、もし、保健室のベッドに一人で寝ていることになったとしたら…。
考えただけでも、ぞっとして、恐怖のどん底に落ちる思いだった。
「大丈夫です。座っていれば治ります」
そう言って、わたしは自分の席へと歩き出した。足が震えて動かすのに苦労したけれど、何とか席に戻れた。
授業中、ずっと後ろが気になった。
我慢できずに何度も後ろを振り返る。
女は同じ場所に立ったまま、やはりわたしをじっと見ていた。
二時間目も三時間目も、給食が終わり五時間目が始まっても、女はそこにいた。
友達と一緒に教室から出る時も、顔だけ動かして、わたしの行先を追うだけで、体は動かそうとはしなかった。
帰りのホームルームが終わると、クラスの皆がロッカーからランドセルを取りに行くのをわたしは息を飲んで見つめていた。
やはり、誰の目にも女の姿は映らないようだ。皆に混じって、わたしはロッカーから自分のランドセルを急いで引き出した。
ランドセルを抱きしめるようにして席に戻り、教科書を放り込む。
用事があるから先に帰ると美紀ちゃんに告げてから、わたしは教室を飛び出した。
先生に怒られるのも構わずに廊下をダッシュして昇降口に行った。
上履きから靴に履き替える時、廊下を歩いて来る女が見えた。
校舎の長い廊下を、わたしが全速力で走るより速く、女は歩いてきた。
校舎の内廊下から昇降口を繋ぐ通路を通って、こちらに向かって来る。
わたしは悲鳴を上げた。靴を履き替えている友人たちが何事かと目を丸くする。
クラスメイトがわたしの名前を呼んだが、返事もせずに昇降口から走り出た。
死に物狂いで足を動かした。一刻も早く家に帰りたかった。
家には母がいる。家は二世帯住宅になっていて、同居する祖父母もいる。いつもは仕事で帰りが遅い父も、今日は早く帰ってくる。
だって、今日は、特別な日だから。
学校から家まで走り続けたのは、これが初めてだった。
ずっと走ってきたせいで、きりきり痛む脇腹を押さえながら、家のインターホンを何度も押した。鍵は持っているのだが、ぶるぶると震える手では鍵を鍵穴に差し込めなかったからだ。
内側からガチャリと音がしてドアが開く。すぐに玄関へと飛び込んだ。
玄関ドアが閉まる瞬間。
細い隙間から見えたのは、門の前に立ってこっちを眺めている女の姿だった。
*
「お帰りなさい。あら、真由ちゃん、どうしたの。そんなに息を切らして」
玄関ドアの鍵を急いで閉めるわたしに、出迎えてくれた祖母が首を傾げた。
「おばあちゃんに早く会いたかったから、走って帰って来たの」
怪しまれないような言い訳をしてから、無理やり笑顔を作る。わたしの言葉に、祖母は満足そうな笑みを浮かべた。
祖母と一緒にリビングに入った。ソファに座ってテレビを見ていた祖父がわたしを見る。わたしは祖父にしがみ付くようにして隣に座った。
「おやおや、どうした。四月には六年生になるというのに、今日は随分と甘えん坊だな」
言葉とは裏腹に、祖父は自分に体を寄せるわたしを嬉しそうに見た。
「いいじゃない。真由はまだ小学生なんだから」
祖母もにこにこと笑いながら、わたしの隣に座る。祖父母に挟まれて、わたしはほっとした。
学校とは違って、家は窓もドアもきちんと閉まっている。
(だから、女は、この家には入れない。入ってこない)
「真由。ケーキの飾りつけするの手伝ってよ」
祖父母と一緒にテレビを見ていると、母がキッチンから顔を出した。皿の上には、真っ赤な苺がずらりと並んだケーキが乗っている。
「ケーキの上にロウソクを立てるだけだから」
母から十二本のロウソクを渡された。ロウソクの色は、女のワンピースと同じ薄桃色だった。
「それってお手伝いになるの?」
祖母の冷やかしを背に受けながら、わたしは円を描くように、ケーキの上にロウソクを刺していった。
「わあ、すごい。幸美さん、あなた、プロのケーキ職人になれるんじゃない?」
わたしの後ろからケーキを覗き込む祖母の言葉に満更でもない母が言った。
「プロになれるかどうかはともかく、頑張って作りました。味の保証はしませんが」
「よく言うわよ。世界一おいしいケーキよね。ねえ、真由ちゃん」
私は黙って頷いた。ダイニングの窓の外に人影が見えたような気がして、最後に立てたロウソクが、少し斜めになってしまった。
「謙一はいつ帰ってくるの?」
「もうすぐです。十分くらい前に駅からメールがありました」
母がテーブルの上に料理を並べ始めた。
祖父母の為の刺身と煮物、それからわたしの好きな鶏のから揚げとエビフライ。父の大好物のビーフシチュー、グリーンサラダにビーツのスープ。料理自慢の母が食卓に次々と料理の花を咲かせていく。
玄関のドアが開く音がした。
ただいまの声と共に、スーツ姿の父がリビングに入って来る。
「おお、すごいごちそうだな」
テーブルの上の料理を嬉しそうに眺める父の後ろに、あの女が立っていた。
「パパ、早く着替えてきてね」
にこやかに母が言う。祖父と祖母が両隣で席に着いた。
二人の後ろを滑るように歩いて、女がわたしの背後に立った。
「ほら、突っ立っていないで、真由も座りなさい」
わたしはへたり込むように食卓の椅子に腰を下ろした。
部屋の中はエアコンで温まっている筈なのに、わたしの背中がひんやりと冷たくなっていく。
セーターとスラックスに着替えた父が、二階から降りてきた。母の隣に並んで座ると、弾んだ声で宣言した。
「では、これから、真由の誕生日会を始めます」
光を絞ったダウンライトを残して部屋の全ての照明が消された。
薄暗くなったダイニングのなかで、わたしの目の前に置かれたケーキの上の小さなロウソクに、一つ一つ、火が灯されていく。
十二の小さな炎が目の前でゆらゆらと踊るのを、わたしは息を殺して見つめていた。
「ハッピーバースデイ、トゥー、ユー。ハッピーバースデイ、トゥー、ユー」
父と母、祖父と祖母が、軽く手を叩きながら声を合わせて歌い出す。
背中に張り付いていた冷気が、わたしの両肩にすうっと這い上がる。
「ハッピーバースデイ、ディア、マーユー」
背中と肩の冷気はそのままで、さらに冷たい何かが、頭の上によじ登っていく。
「ハッピーバースディ、トゥー、ユー」
ふううっ。
細く長く、息を吐く音がした。
とても、とても冷たい風が、わたしの顔を滑り降りて、ケーキのロウソクの火を吹き消した。
「真由、お誕生日おめでとう!!」
ケーキの火が消えたのと同時に、四つの拍手がわたしを包んだ。
拍手と共に、わたしを覆っていた冷気がふっと消えた。
部屋に照明が戻った。煌々とした灯りの中で、「真由も十二歳か、早いもんだ」とか、「来年は中学生ね」とか、父と母、祖父と祖母がお喋りしながら料理を食べ始めた。
「あのね、お母さん」
わたしは努めて冷静に喋った。ここで悲鳴を上げたら、せっかくのバースディ・パーティが台無しになると十分に理解していたからだ。
「どうしたの?」
唐揚げを頬張っていた母が、わたしの顔を見て表情を曇らせた。
「もしかして、具合悪いの?風邪でも引いたかしら」
誕生日を祝ってくれている家族を不安がらせてはいけない。
「大丈夫。やっぱり、何でもない」
そう言って、わたしはエビフライを口の中に押し込んだ。わたしが大好物のエビフライを食べ始めのを見て安心したようで、母は会話に戻っていった。
わたしはゆっくりと体を捩じって後ろを見た。
照明に照らされた壁の白さが目に映るだけで、薄桃色のワンピースを着た女はどこにもいなかった。
*
春休みが終わり、新学期が始まった。
桜が咲き出し、満開になり、校庭一杯に花弁が散って、青々とした葉が枝を彩り始める頃、いつもの登校時、わたしは美紀ちゃんと一緒に、横断歩道の信号が青になるのを待っていた。
横断歩道を渡り始めた時、後ろから聞こえてくる少女の声に、わたしは、はっとした。
「ねえ、茜ちゃん。私の後ろから知らない女の人がついて来るの。すごく気味が悪い」
振り向くと、わたしと同じクラスになった女の子が、隣を歩く友人の袖をぐいぐいと引っ張っていた。
その子の顔が恐怖で歪んでいるのを見て、わたしは思わず「あっ」と小さく叫んだ。
あの、薄桃色のワンピースを着た女が、女の子の背中にへばりつくようにして歩いている姿が見えたからだ。
茜ちゃんは女の子の後ろを覗き込んでから「誰もいないよ」と、怪訝そうな表情をした。
女はわたしに顔を向けると、薄い唇の両端を持ち上げてから、すっと、消えた。
女が後ろからぴったりとついて来る恐怖に耐え切れなくなったのだろう、女の子は茜ちゃんを置いて逃げるように走り出した。
驚いた茜ちゃんに名前を呼ばれても、決して後ろを振り向かずに、一目散で学校へと駆けて行く。
まるで、あの時のわたしを見ているようだった。
「弓香ちゃん、どうしたんだろう?」
心配そうな茜ちゃんに、わたしは、さあと、首を傾げた。
*
薄桃色のワンピースを着た女のことは、絶対、誰にも話してはいけない。
《私も、こんな風に、家族に誕生日を祝って欲しかった》
父と母、祖父母の歌声がダイニングに響く中、今にも泣き出しそうな声で、女がそう呟くのを、わたしは身動ぎもせずに聞いていた。
《もし、誰かに話したら、あなたが誕生日を迎える度に、私は必ず現れるから》
わたしの代わりにケーキのロウソクを吹き消してから、女は恨めしそうに耳元で囁いて、消えた。
だから、誰にも話してはいけない。どんなに仲の良い友達にも。
わたしはこっそりと、美紀ちゃんの表情を盗み見た。
美紀ちゃんはきつく唇を噛んだまま、誰とも目を合わせないように顔を下に向けていた。
美紀ちゃんの誕生月は、十月だ。三月生まれのわたしよりも半年早い。
爽やかな秋の風が頬を心地よく撫でる季節。信号を待っていた私に、美紀ちゃんが口にした言葉を、わたしは今更ながら思い出していた。
「私の後ろから知らない女の人がついて来るの」と。
今の茜ちゃんと同じく、その時のわたしには、ワンピースを着た女の姿は見えなかった。
半年前、誕生日を迎えた美紀ちゃんが、どれほど恐ろしい目にあっていたかなんて、想像もしなかった。
だけど。
知ってしまった後の恐怖は共有できる。
喋らなくても、目を見れば分かる。
だって、全く同じ体験をしたのだから。
それと、抱えてしまった秘密も。
美紀ちゃんの震える手をそっと自分に手繰り寄せてから、わたしはぎゅっと握りしめた。
終