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蹂躙命運  作者: 琥月銀箭
7/10

第一章 痛感忘却 〜冬に咲き誇る向日葵〜 06

06


 ◆◆◆


 夜具の上で踊り狂う二人の異人。お互いがお互いの肌を求め、悦楽に浸り、己の欲を貪り尽くしていた。それを見据える第三者、つまるところ、この宴を催す主催者だ。

 主催者は、あるサイトにて、この宴に参加する者を呼び、そして、この場を提供する。

 淫売する娼女との宴。

「最高だ! この宴は、どこ探してもない」

 いや、もとより、売春に関してはこの日本という国は規制している故に、こんな行為が巷で行われていたら、それはそれで大変なことである。昔は、赤線といった公共の売春宿があったが、やがてそれは廃れてしまった。この宴は、それを非合法に作り変えた物と言っても過言ではない。しかし、この宴は、ただ単なる宴ではない。何の代償も払わずに、この宴は成り立つことはない。

 全てを成し遂げる。もう、男は疲れ切っていた。娼女も、もうぐったりと夜具に倒れ伏している。全身を流動する血流は、物凄い速さで流れている。今までに感じたことがない。全身が熱い。心臓の鼓動は、治まることを知らない。

「しっかしだ。お前はなんで、こんなことやってるんだよ。お前の趣味か?」

 男は訊ねた。息があがりつつ、やっとの思いで言うことが出来た。どうやら、それなりに疲れきっているのようだ。

娼女を一瞥し、心の中で「流石に、ちょっとだけ可哀想なことしたかな……」と、反省していた。ただ、その反省の気持ちさえ、主催者の返答を訊けば、無意味なことでもあったと後で気付かされた。

「ふん。俺の趣味ではないし、その女の趣味でもない。俺にとって、寝取られているところを観察するなんて趣向は持ち合してない。寧ろ、俺はお前らの行為自体に興味があるのさ」

「お、俺達の行為に!?」

 男は素っ頓狂な声をあげて、若干たじろいだ。あまりにも、主催者の覇気が強かったのだ。覇気はどこか揺るがぬ信念を抱いたような思いがある。どこの者にも勝ることが出来ない揺ぎ無い信念。

 理解が出来なかった。主催者の言っていることがいまいち掴めない。

「俺が欲しい物。お前らが行為によって出す分泌液さ」

「は、はぁ? あ、あんた頭イカれてんじゃねーの?」

「少なくとも、好き好んで女を抱きに来るお前よりはましな方さ」

「い、意味がわからねーな」

 若干、俺は動揺している。口調が定まらない。

「わからなくても結構だ」

 主催者は徐に立ちあがった。

 部屋は全体的に暗室だ。明かりは極力少なく用意されており、闇の中に溶け込んでしまえば、どこにいるのかさえわからなくなってしまう。事実、主催者は闇の中へと溶け込み、今どこにいるのかさっぱりわからない。

 闇から物音が聞こえる。ごちゃごちゃ、と何か用意しているのだろうか。さっきからガラス瓶の音が聞こえる。そして、液体の入った瓶の音。

 ドサ、と突然夜具で物音がする。娼女が動き出したのだ。男はその音につられ、視線が向いた。

 改めて娼女の身体を見舐めまわす。

 全身に描かれた刺青。複雑に書かれたそれは、本人曰く服従の印だという。そして、「自分は人形。故に食虫植物」だと、初めて面会した時の自己紹介で言った。

 まだ歳相応の穢れを知らぬ女だというのに、何故こんなことをしているのか、男には理解できそうで出来なかった。遊び半分ならわかる。性欲の狂乱者ならわかる。でも、女はどちらにも属さない。好きでやっているわけじゃない。遊びたいからやっているわけでもない。なら、この女は何のためにこんなことをしているのだろうか。男は一度訊ねたが、答えることはなかった。

「ん? どうしたんだよ」

「えっ、あぁ、ごめんなさい。取り乱してしまいました」

 娼女が男の返事に弁明する。肩を震わせ、夜具を身に寄せて脅えている。まるで仔猫のようだ。軽く双眸に涙を浮かばせる。この光景こそ、歳相応を感じさせるのだ。さっきのとはまるで違う。

 やがて、主催者が闇よりやってきた。手に持つ注射器。中にはたっぷりと薬品だと思われる液体が入っている。それを見た娼女は「こ、これ以上はお止めください!」と声を荒げて、主催者に縋り寄った。主催者は、近寄る娼女に蹴りを入れ「ふん。まだ駄目だ。あと少しで、揃うんだ。今ここで止めてもらうわけにはいかない。時期にばれてしまうからな。それまでには何としてでも、俺はお前にやってもらいたいんだ」と、悪魔のように囁いた。「こ、これ以上はもう無理です。身体が持ちません……」と、抗議する。

「馬鹿を言うな。自分からしゃしゃり出ておいて、もう無理だと言うのか? まあ、別にいいんだ。お前が使い物にならなくなったところで、予備がいるからな」

「だ、だから、それだけは止めてください!」

「どっちだ! ハッキリしろ!」

 主催者は娼女の顔を鷲掴みにすると、問答無用と言わんばかりに闇へと投げ飛ばした。宙に浮く娼女の身体は、やがて壁に打ち付けられ、部屋中にその痛々しい音を轟かせた。

 娼女は泣いている。主催者は娼女に近寄ろうとした。男は――何故だろう――主催者に足止めさせていた。

「ん? どうしたんです、お客さん? 気に召しませんか?」

「い、いや、そうじゃないんだ。だがよ、可哀想じゃないか」

 だんだんとあの子と触れ合っているうちに、欲ではなく、愁いを抱き代えていた。最初はただの欲求不満から始まったことなのだが、最終的に、俺はあの子が可哀想になっていた。

「あんたさ、あの子に何をするつもりだよ。それでさ、その注射器の中身は? 薬であることに、違いはねーよな」

「ご名答だ。この注射器の中身は、催淫剤だが。そして、俺はこの薬をあの子に打つだけのことだ」

 催淫剤!? 主催者は何がしたいんだ?

「俺の目的? そんなもの、お前に話したところでどうする。お前には関係ないことだろ。どうせ、訊いたって、死ぬんだからな」

 突然の死刑宣告。俺は文字通り開いた口塞がらなかった。俺が死ぬ? 殺されるのか? もしや、と俺の頭をある単語が過った。神隠しサイトのこと。あるサイトで、人を呼び込んで、まるで神隠しの如く消えてしまい、遺体として発見される。一種の怪奇事件として、巷では取り扱われていた。どうやら、俺は知らずのうちにその一連に嵌っているのかもしれない。ここにいたるまで、娼女と遊べる、という口車に乗せられ、ここにやってきた。事実、娼女と遊ぶことは出来た。しかし、俺はその先を知らない。最初はただ娼女と遊べるということだけが頭に一杯で、後のことなどそっちのけであった。もう、後戻りは出来ないだろう。まるで蟻地獄だ。一度嵌れば、もう抜け出すことが出来ない。

「お、俺を殺すだって?」

「あぁ、殺すとも。俺の野望の為にもな」

 主催者は闇に溶け込み、やがて戻ってきた。その手には、鉈が握られている。鮮血を吸った刃が、脆弱な光源の中を受けてその禍々しい悍ましい姿を見せていた。

 目の前の者は、主催者ではなく、死刑執行人となっていた。それ以外の言葉が見つからなかった。

「まあ、最期の余韻は楽しませてやるよ。思う存分、娼女と戯れるといい」

 主催者は高笑いをしながら、闇の中へと消えて行った。やがて、娼女の悲鳴が湧き上がった。

それもやがて治まり、娼女が姿を現す。「そういうことですよ」と抑揚のない口調で言った。笑っていながら、その笑顔の裏は、悲哀に満ちていたことを、俺はこればかりの最後の本能で悟った。


 ◇◇◇


 自宅に帰ってきた。帰宅時間など、もう夜中であり、ここまで遅くなるとは思ってもいなかった。帰るなり「あっ、兄さんお帰りさない。どこほっつき歩いてたです? 連絡もしませんから、心配したじゃないですか」と、出会い頭琥凛に叱責されつつ、「連絡もなにも、機械音痴な俺には何の手立てもないぞ」と弁明した。何と見苦しい弁明であろうか。我ながら恥ずかしくて、その後の弁明を述べることが億劫になった。

「もう。兄さんったら危機感はないんですか? 巷じゃ、殺人事件だとかで騒いでいるのに、兄さんときたら、てんで気にしてない様子ですね」

「鈍感と言いたいんだろ」

「兄さんには、『鈍感』を通り過ぎてます。もっと酷いんですよ。愚直のくせに、鈍感とか生意気です」

「わ、悪かったな」

 居所が悪い。琥凛との戯言の言いあいは、今回は負けている。それを琥凛は「フフ。兄さんったらやっぱり面白い」とどこか己の嗜虐心でも擽ったのだろう。和服の袖で口許を隠しながらクスクスと小さく笑った。

 玄関に上がろうとする。全身が草臥れていた。何せ、半日歩きっぱなしだったのだ。それに、過去を触れたことが大きな疲労の要因でもあるだろう。ずっと、奥底に仕舞われていた記憶が、今俺に怒涛のように押し寄せて――記憶が蘇っているのだから――きたから。

「お疲れですか? 兄さん」

「ちょっとな……。ずっと歩いてたから、足が棒に……」

「なら、お風呂が用意されてますから、どうぞ」

 さり気なく気の利く琥凛である。流石、仲居というところだろうか。靴を脱ぎ、木張りの廊下に足を踏み入れ、琥凛と擦れ違った。

 ちょっとだけ、右目が痛んだ。俺は咄嗟に右目を抑え、その場に倒れ伏してしまった。

「に、兄さん!?」

 琥凛が慌てて駆け寄ってくる。琥凛が、俺の視界の中に割り込んできた。




 ――その隻眼は、何を見る。喜劇か、悲劇か。




 心配そうに見据えてくる琥凛の表情。その表情を通り越し、俺の隻眼は、靄のかかった赤みの帯びた視界を見ていた。

 まるで垣間見た、という表現が近いだろうか。あっという間に痛みは引き下がってくれた。かぶりを振って目を覚ます。気のせいだろうか、と片付けてしまうのも、あの廃村に向かうまでは簡単であった。だが、今となっては違う。簡単ではない。もう、容易く手放すことは出来なくなっている。

「つ、疲れるのかな……」

「そうじゃないですかねー?」

 いつもの笑顔を見せる琥凛。そうやって、俺の気を少しでも揉んでくれる。若干だが、気が和らいだ気がする。

「ありがとうな」

「何がですか? 兄さん」

「いや、何でもない」

 この場を離れる。向かう先は風呂場だ。そこで、ゆっくりと整理しよう。今日の出来事を。


 風呂場は、元旅館とあって大浴槽である。一人で独占するには、些か勿体無い気持ちで一杯なのだが、だからといって一緒に入るのは、憚れる気分もある。家族と共に入るのは、面映(は)ゆい。それに、一緒に入る性質じゃないしな、円城家って。親父は論外であろう。須雀と琥凛とて、同じだ。結局、入るのは一人となる。

 もう既に、親父や妹二人は入っていることだろう。何せ、夜中の十一時を回ろうとしているのだ。流石に遅い。普段なら十時頃に入っているのだから。

 身体を洗いながら、ふと鏡に映った自分を見る。いや、鏡越しに、右目を見据えていた。

 この右目は、視力を失った隻眼でありながら、チャネリングの眼球能力を保持する。信じられないのだが、これは事実なのだ。受け入れる以外の手立ては俺にはない。

 さっきの出来事は、既に物語っている。あの時の痛みは、普通なら起こることはない。それも、痛み越しに、俺は琥凛の何かを視ていたのだ。なにを視ていたのか、わからないけど、ハッキリと俺は何かを視ていた。痛みが引くと、ただの隻眼に戻ってしまい、視えていた景色は失われた。

「はあ……。なんだよ、この眼……」

 溜息をついた。自分が恐ろしい。得体の知れるのだが、本質を知れないこの恐さ。まるで、箱が見えていて、その箱の中身がわからない。その中身には何が隠されているのか、開けてしまえばわかるのに、恐くて開けれない。そんな気分を抱いていた。

 今まで無意識のうちに、不認知していたこの眼だが、認知した途端に、何かのきっかけで動き出した。恐い以外に他に言葉はない。

 何ごとも起きなければいい、なんて思ってしまうのは、心の贅沢であろう。

 思いを水に流そうにも、流し切れない……。こうして、自堕落に時間を過ごすのも、嫌になってきたので、身体を洗い流しては、あがった。着替えて自室に向かうまで、難なくスムーズに進んだ。


 自室に戻って、すぐさま布団に潜ってしまった。これといって、何もすることがなかったのだ。

 深い眠りに堕ちていく。今日は疲れていたこともあり、すぐさま眠りに就くことが出来た。


 ◇◇◇


 午前九時。起床を迎えた。首を寝違えただろうか……。痛い……。朝っぱらから嫌な目覚め方である。

 首の安否を確認しつつ、洗面台に向かって顔を洗うと、台所へと向かった。

 途中、須雀と琥凛と擦れ違い、「おはようございます、兄さん」と「兄さんはおようござまーす」と、二人それぞれの挨拶を受け「おはよう、二人とも」と返事を返した。二人はどうやら散歩に出かけるらしい。朝飯前には戻ると訊いたので、朝飯は四人分で結構だろう。

 台所に立つ。また、いつものように朝飯を作って、目を覚ますのだった。


 朝の出来事を全て片付け終わると、俺は自然と事務所に向かっていた。

 事務所にいるのは決まって同じ人物。同じ組み合わせ。これといって変化は期待出来ない。ただ、今回ばかりはいつもと違う。何より空気の重みが。

「あら、いらっしゃい。今日は、早いのね」

「そうかな、いつもどうり来たつもりなんだけど」

「えっ、あっ、そうなの?」

 時差ぼけでもしているのだろうか。巫弥はひょんな声をあげながら、俺を出迎えた。

「円城。眼の方は大丈夫?」

「今のところ、何とか」

 衛樹は心配そうにこちらを伺う。

 俺の返事に衛樹は「なら、いいんだけどさ」とどうやら気の抜けない様子である。

 衛樹は前に話していた。突然、能力を授かってしまえば、その制御及び行使がわからなくて、大概が混乱に陥り易いと。確かにそうだ。いきなり得体の知れないものを手に入れてしまったらそうかもしれない。ただ、俺はまだこの力が前からあったんだ。あっ、いや、だからといって制御や行使の方法なんて知らなかったんだ……。混乱に陥らない、とも限らない。

「いい。何かしらあったら言いなさい。円城だと……、すぐに暴走しそうだし」

 不安に陥り易い性格とでも言いたいのだろうか。でも、強ち間違っていない。結構、自分で手に負えなくなったことは、すぐにどうしようか慌てる性質だ。無論、異能のことで暴走するかもしれない……。

「そういや、巫弥。円城の眼のことは大概わかったの?」

「浄眼のこと? まあ、だいたいなら。

 簡約して言うけど、円城の目は霊の云々に強いのよね。持って返ってきた記述を読んでいくとね、円城の目は、霊を通して、生霊とか怨霊の類までを視認出来るわけ。それも、人一倍にね。霊感がとびきり強いというか、もはや霊自身を直で視認出来るから、霊感が強い云々じゃないのよね」

「霊を視認出来る?」

「そう。チャネリングって、一種の交信方法なのよ。円城の浄眼は、チャネリング異能眼球。相手は霊から神様までいろいろとあるみたいだけど、その中で円城の目は霊との交信に長けてるの。だから、それを通じて怨念とか生霊を視たり、更には他人の思想も、多少なからず視えるみたいよ。常時視えるわけでもないし、確りと視えないみたいだけど」

「思想が視える!?」

「んー、それは生霊を通してじゃないかしらね。ほら、生霊って、想いによって生み出されるものだし。つまり、思想の塊よね」

 巫弥は、常時相手の思想を伺い知ることは出来ない。そう言われればそうである。俺は、他人の思想を垣間見るなんてことは、試した覚えがない。いや、ただ単に覚えていないだけかもしれない。

「他人の思想を垣間見るのなら、包帯巻きのも……って、常時じゃなかったんだよね」

「えぇ。どうやったら視えるのかまではわからないみたい。結局は本人次第だし」

 巫弥の視線がこちらに向いてくる。「どう? 私の思ったことわかる?」と訊ねてきた。俺は「そ、そんな突然言われたって、わかる筈もないだろ」と、当然の返事を返した。事実、巫弥が何を考えているのかなんて、検討もつかない。何の手立てもないのだから、当たり前ではある。

「記述は本当みたいね。常時じゃなさそうだし。右目は視えてる?」

「いや」

「そう。なら、この話は進展しないわね。

 あっ、そうだ衛樹。あんたに、日記の解読を任せてた筈だけど」

 巫弥は俺から視線を外すと、衛樹に向けた。衛樹は「ん? 日記? あぁ、日記ね」と、デスクにあの食虫植物のことが書かれてあった日記を取り出した。

 表紙に「BLY」と禍々しく書かれている。衛樹曰く、これが何か関係しているんじゃないだろうか、と。俺も巫弥も、それには同意だった。

 ふと、思い出す。須雀が言っていた。「兄さん。早く気付いてあげて。私からは何も出来ない。兄さんしか、出来る人はいないの。だから……」と、俺に何かを伝えようとしていた。気付いてあげて? 須雀は、何も出来ない? 俺しか出来ないことというと何だろうか。

 あれ、以来、須雀はこのことに関して何を言ってはこない。気付いてほしい、と言うのだけれど、一体何に気付けというのだろうか。思い当たる点がない。

 家族のことか?

 琥凛のこと? 俺に「幸せか?」と訊ねたことか?

 須雀のこと? 気付いてほしい、か。

 親父は……、皆無だろう。

 もしや、俺以外のこと……、ということではないだろう。須雀のことだし、巫弥とか衛樹とかだなんて考え難い。

「中身を調べてみると、確かにサイトのことばかり行きつくんだけど、でも、その先が見えてこないんだよね」

「やっぱり、BLYのことをどうにかしないことには」

 最初に書かれた三文字の英語。何の組み合わせなのだろうか。表紙に書くとすると、表題か持ち主の名前くらいだよな。

「BLYなんて名前の人いないよね」

 俺がそう提案すると「流石にないわよ」と巫弥に反論された。無論だろう。俺の知り合いに、そんな人物はいない。ましてや、表題という点でもわからず仕舞いだ。

「何の略かしらね……。もしくは、なんかの暗号だったり」

「暗号? 巫弥。暗号かける必要あるのかな」

 俺が問うと、衛樹が付け足すかのように「誰かに知られたくないとか? ある相手だけに知ってほしいとかかな」と言った。

「それじゃ……、その相手っていうのは、解読方法を知らないといけないわけよね。確か、これを拾ったのは、円城の旅館の仲居さんで、訝しんだ仲居さんが円城に渡した。その仲居さんが、円城に何かを伝えたい?」

 巫弥が腕を組み、黙考する。俺も仲居さんのことには考えてみたことはあるけど、でも、思い当たる点が一つとしてなかった。

「それはないよ。仲居さんが、俺の旅館に文句があるのなら、多少なりともわかるかもしれないけど、そんな人じゃないよ、あの人は」

「そうか……」

 衛樹は一種の憶測を潰され、どうしようもなく狼狽した。

 そう、もう一度思い出す。須雀が「気付いてほしい」と言ったことを。気付いてほしい?  だから、何を気付けというんだ! 須雀が俺に何かを訴えようとしているのは、薄々気づいてはいる。だが、気付かせたい本質を、俺はまだ把握していないのだ。まるで、雲を摘むような思いで、思想を巡らせ、答えを導き出そうとする。ただ、やがて自分では手に負えなくなっていた。

「なぁ、俺の妹……、というか須雀がさ、俺に何かを伝えようとしてるんだよ」

 咄嗟にそう口走ってしまい、二人は唖然とした表情をこちらに向けてきた。いけない、いけない、と己を宥めながら前置きをしつつ、今一度話すと「須雀さんが?」と、巫弥が早速食いついた。

「気付いてほしい? 円城に何か悟ってほしいってことかしら」

「そうだと思うんだけど……。自分じゃ、何も出来ない。俺しか出来ないって言うんだ。いつもなら、そんなこと言う須雀ではないんだが」

 自ら手に負えない時は、迷わず助け舟に縋るしか、俺には手立てがなかった。

「それっていつ頃言われたの?」

「そうだな……」

 取り分け、基準となるものが少ない。敢えていうのなら、日記を見付けた日よりも少し後だということだ。

 そして、気付く。日記より少し経ってから、須雀は「気付いてほしい」と言った。俺は言っておきながら、一人訝しんだ。なんだか変だ。成り行きが出来過ぎている。偶然とは思えない。日記の出現と、須雀の発言。須雀のことだ。俺に知る物なしに「気付いてほしい」なんて言わないだろう。寧ろ、「気付いてほしい」と言っている時点で、俺が何かを手にしていることを予め知っておく必要がある。気付いて欲しい題材を、俺が手にしている時点でなくては、この物言いは明らかに無駄骨だ。それ以前に、役割を果たさない。つまり、須雀は日記のあることに気付けと言っているのだろうか。

「な、なあ。日記の後に、須雀のことがあるんだ。巫弥も衛樹も、何だか出来過ぎだとは思わないか?」

「円城にしては、なかなか鋭いところに目を向けたわね。確かに、何か手許に物があってじゃないと、須雀さんの発言は無碍な発言だわ。円城の話でしか推測出来ないんだけど、須雀さんって、無闇に言葉なんて言う人じゃないでしょ」

 琥凛じゃあるまいし、無鉄砲に発言だなんてそんなことはしない。

「じゃあ、妹さんは、円城に日記について何か気付いてほしいってこと?」

「そうかもしれないわね。でも、なんで? 何で須雀さんは、円城に気付いてほしいことがあるのかしら? 円城は心当たりないの?」

 そう訊ねられ、俺は考えてはみるものの、一つとしてない。須雀のことだから……、と詮索してみても、駄目だった。何一つ成果があげられない。

「日記から……、気付くことっていったら何かしら。

 まずは食虫植物でしょ。あとは誰かの為に役を買って出てるような気がするのよね」

――痛かった。心も身も、全てを無慈悲によって傷つけられた。そんなの、毎日耐えることは出来ない。だから、忘れようとした。痛みなんて忘れてしまえば、耐えられる。そう思った自分は、自分を人形と蔑み、主の玩具と蔑み、二人の為にも、役を一挙に引き受けた。

――我が身は、食虫植物。人を喰らい、主の望みを叶える存在でしかない。

 日記の内容を、俺は頭の中で復唱した。確かに、最初の文脈の最後には、誰かの為に役を買って出たことは書かれてあった。後の記述は、誰かの為の存在でしかないことが伺える。

「二人、って書いてあったけど、それって……、誰? 一人は須雀さんかしら」

「いや、自分の為ってわけじゃないでしょ。『二人の為にも』ってことは、間違いなく他人であることに違いはないよ」

 衛樹の一言には一理あり、巫弥は「そうよね」と押し黙った。

「ちょっと待って。これを書いたのは、俺の家族、円城家ってことで決まってるの!?」

「今のところそれ以外ないでしょうね。須雀さんが、円城にしてほしいこと、気付いてほしいこと、となると、須雀さんの友人関係とはではないでしょう。ほぼ、家族内で限定されるわ」

「そ、そうか。なら、琥凛や親父が何らか関係してるのかな……」

「わからないわ……。中身からは、あまりいい形として抜き取れそうにないわね……。となると、表紙以外からは」

 表紙となると、あの英字三文字しかない。他には何の文字も書き記されていないので、安易なくせして、暗号が解けない。何か手掛かりさえあればいいのだが、これといって持ち合していなかった。

「ねぇ、二人に訊くんだけどさ」

 衛樹が訊ねてきた。俺と巫弥の視線が、衛樹に向く。

 闇に溶け込むその一角で、衛樹は眼鏡を光らせながら、こう訊いた。




「表紙に書くことって、何だと思う?」




 表紙に書くことというと、表題か名前以外にはない。巫弥とて、俺とは同じ考えであった。衛樹は言う。「なら、だいぶ幅が狭まるよね。そのニ択以外、この英字三文字が役割を果たしてないんじゃない? それに、日記にわざわざこんな奇々怪々な英字のタイトルをつけるかな。僕の調べじゃ、『BLY』と日記との関連性は、見付けたことがないんだけど」と、何やら鼻高く話した。

「タイトルの略字じゃないのよね」

「略字なわけないよ。妹さんは、円城に気付いてほしいって言ってるんだ。略字なんかにしたら、そう簡単に解けやしない。それに、妹さんが、略字をするなんて訊いたことないし」

 確かに、話したことなど。となると、表題という点は消去法で消されるわけだ。となると、後は名前しか残らない。

「気付いてほしいんでしょ? だったら、少なからずわかるようなものにしないと意味がないじゃん。解けない物を出しておいて、気付いてほしいっていうのも、妹さんに失礼なこと言うけど、愚か者だよ。僕だったそんなことしないな。多少の暗号はかけるかもしれないけど」

「暗号の意味は?」

「僕は言ったよね。特定の相手だけに知ってほしいから、これを使ったんじゃないかなって。つまり、特定の相手っていうのは、円城なわけだ」

「須雀が食虫植物の正体だって言いたいのか!?」

 俺は語気を荒げて衛樹に盾突いた。衛樹のデスクに近づいては叩き、怒気を露わにする。

「ち、ちょっと待ってよ。僕はそんなこと一言も言ってないよ。とにかく、『BLY』さえ解ければ、何かしらの手掛かりになるんじゃないかな」

 俺は衛樹のデスクから身を引いた。自分のところに戻り、まずは気を落ち着かせる。

「BLYは三文字。えっと、円城の家族の名前は……、志戒さん、須雀さん、琥凛さん。円城、これであってるわよね?」

「あ、あぁ。間違ってない」

「み、皆三文字か……」

「B、というと、ローマ字で……、『ば、び、ぶ、べ、ぼ』だけど、これからも当て嵌まらないな。残るニ文字も撃沈。んー、なんだこの暗号は」

 衛樹はそれ以降、押し黙ってしまった。

 巫弥が俺に問う。

「円城の家に、英字が当て嵌まりそうなものはない? 何でもいいからさ」

「俺の家で?」

 俺の家となると、取り分け和風建築で作られたものであるから、結構英字関連はとびっきり少ない。強いてあげられるだろうか……。俺は一生懸命、何かを見出そうとする。流石に、あるだろう、と踏んだのだが、なかなか見付けだすことが出来ない。

 やがて、巫弥が俺に助け舟を出した。

「そう言えば、パソコンはあるわよね、ホームページを作ってるんだし」

「えっ、あぁ、うん。あるよ。それがどうしたの?」

「いや、円城にはわからないと思うけど、パソコンなんて、言わば英字の塊のようなものだし」

「巫弥……、それはどうかと……。根本言ったら、二進数の塊だけどね」

 呆れた衛樹が、巫弥に向かって言った。

「に、二進数? ま、まあ、そんなことはどうでもいいとして、円城の家にあるものなんて、それくらいじゃない」

 妥当な線ではある。

「んー、他に思い当たるとなると……、ないかな……」

 入念に探してみるが、見付かることはない。殆どが機械など疎い家でもあって、そういった類の物も少ない。何せ、扱う人物が琥凛くらいしかいないし、他に至っても、殆どが電気家具ではない為に、英字を使いそうなものといっても、それしかないのだ。

「しかし、パソコンっといっても、解読の手立てなんて無数にある気がするよ。パソコン自体の仕組みが複雑だからね。そこから、解読方法なんて見出せるだろうか……」

「こればかしは私もお手上げだわ。流石に。それに、パソコンかどうかもわからないし。もしかしたら、外れかもしれない。いい線はいってるんだけど」

 三人三様で溜息をつくと、俺は時計に視線を向けた。あれから一時間話し続けていたので、少しばかし疲れてしまった。衛樹も俺と同じ考えを抱いていたのだろう。「小休憩しようよ、巫弥」と提案した。巫弥とて「そうね」とばかし、首を縦に振ったのだった。


 ◆◆◆


 午後九時。外は夜の帳が辺りを覆い、夜だということを克明に知らしめている。

 自室で寛いでいる俺。座椅子に座り、テレビに目を向けながら、意識はそちらに向かず、ただあの英字三文字のことばかりが頭の中を駆け回っていた。

 あとで、琥凛の部屋に行ってみようと思っている。衛樹の推測を手立てに。そこに正解があるかなんてわからないけど、数少ない手段であり、これに縋るしかなかった。

 テレビの電源を落とした。最近、扱いに慣れてきたような気がする、と思いつつ、席を立つと、琥凛の部屋へと向かった。

 琥凛の部屋は、右隣二つ目にある。須雀の部屋を間に挟んだ形である。

 部屋の扉前に立つ。丁寧にも、「琥凛」と書かれた札が下がっていた。扉を叩くと「誰ですかー?」といつもの陽気な声が聞こえてきた。「俺だけど」と言うと、「あぁ、兄さんですか。ちょっと待ってくださいねー」と、何やら物音がする。急いで片付けでもしていたのだろうか。

 やがて「どうぞ」と声がかかったので、部屋に足を踏み入れた。

 部屋の内装は至って俺の部屋と変わらない。家具類は多い方ではなく、必要最低限の物しかない。箪笥とテレビと、そしてパソコンと。これくらいしかないのだ。

 琥凛は俺を出迎えるなり、「こんな時間にどうしたんですか?」と、疑問を孕んだ視線でこちらを見据える。「いや、ちょっとさ。パソコンを扱いたいな」と、言うと、それはまた大げさな驚き方で「えぇー! 兄さんがパソコンを!?」と、隣部屋まで聞こえてしまいそうな大声で言った。

「兄さんがパソコンを使うなんて珍しいですね。んー、怪しいな。いやらしいことなんてしませんよね」

「断じてしないぞ、琥凛。もとより、パソコンの扱いさえ知らないのに、そんなこと出来るかよ!」

「ありゃ? なら、扱いに慣れちゃったら、もしかしてー?」

「慣れてもしないよ。それよりさ、ちょっとだけでいいから」

「どうぞ、兄さんを拒む理由なんてないですから」

 琥凛は俺を部屋に招き入れた。そして、入れるなり、座椅子にちょこんと座って、俺がパソコンを扱う姿を傍から見据えた。

 俺はパソコンの前に立つと、さて、どうしようかと、首を傾げた。最初はどうするのだろう……。全くといってわかならい。テレビ同様、リモコンなんて見当たらないし、あるのは文字が乱雑に並べられたキーボートと呼ばれる物と、ディスプレイ。傍らに本体があるだけで、どこから手をつければいいのか、さっぱりだった。

「兄さんは、何をしに来たんです? 滅多に使わないのに」

「んー……、し、調べ物を」

「調べ物?」

 琥凛は興味が湧いたのだろうか、近寄ってきてどんな調べ物をするのか訊ねてきた。

「何を調べるんです?」

 そう言って、手慣れた手つきで、パソコンの電源を入れた。琥凛にとっては、どうやら朝飯前の動作らしく、ディスプレイに画面が表示された。俺はその表示されたことでさえ、内心驚いていた。

「『BLY』って単語を調べたいんだ」

「BLY? どんなものなのか、わかりますか?」

 ど、どんなもの……、と言われてどう答えたらいいだろうか。誰かの名前なんだ、といったところで、首を傾げられるに違いない。単語の検索については、衛樹が手を回しているし――それで結局見つかることはなかったし――、あまり変に言って、拗れるのも嫌だったので、俺は素直に言ってしまった。

「ある人の名前なんだ」

「えっ? な、名前?」

 琥凛は珍しく間の悪い返事を返した。いつもなら、「名前ですかー?」なんて、抑揚よく答えるくせに、今回ばかりはなんだか調子が悪い。体調でも悪いのだろうか。

「うん。ちょっと、琥凛も知ってると思うけどさ、俺、探偵……、みたいなことしてるじゃん。それで、BLYと表紙に書かれた日記らしき物が手に入って。どうも、表紙に書いてあるBLYがどうしても引っ掛かるんだよ。それで――」

「BLY……、ですか? に、兄さん」

「そ、そうだけど」

 やはり歯切れが悪い。体調でも崩しているのだったら、そそくさと退散しよう。「こ、琥凛?」と名前を呼びながら、視線を向けた。

「えっ、あっ、いやなんでもないです」

 そう言って、微苦笑しながら俺から視線を逸らした。そっぽを向いて、微苦笑はやがて沈み込んだ笑みへと変わる。おかしい、いつもの琥凛ではない。何かを孕みつつ、それを表沙汰にしようとしない。

「に、兄さん。ごめんなさい。ちょっと……、私用を思い出したんで、少し席を外していいですか?」

「私用? あぁ、うん。いいよ」

 ごめんなさい、と琥凛はこうべを垂れ、そしてそそくさと足早にこの場を後にした。去り際に、「兄さん。BLYなんて簡単ですよ。パソコンに電源を投じる必要もなかったみたい……。これだけは言える、『手許。パソコンを使う時、手はどこに置くか』ってね」と、いつもの笑みを浮かべて、この場を後にした。

 手許?

 パソコンを使う時に置く場所って……、えっとなんだっけ、鼠だっけ? あと、キーボードくらいだろう。

 鼠は……、ただ手を覆い被せて使うくらいだし、英字らしき物は一切ない。残るは、キーボードくらい、か。

 キーボード……。文字の乱雑と表記されている。英字から日本語から記号まで。見ているだけで頭が痛くなりそうだ……。ただ、琥凛の言っていた、手許というと、これくらいだろう。鼠は役立たずだったし。

 よく、キーボードを見てみた。英字と日本語と記号が、無鉄所に並んでいる。英字と日本語は全部表記されている。英字と共にだ。後、記号だが、これはあまり気にしなくていいだろう。

 キーボードの、乱雑とした二種類の語句。

 Aはち? Bはこ? Cはそ? 

 ん? ちょっと待て。キーボードの表記に、英字と日本語は一緒に表記されている。

 日記に書いてあったのは、BLY……。このキーボードを介して、解読してみる。すると、ある三文字が浮かび上がってきた。



 ――Bはこ。Lはり。Yはん。琥凛という名が。




「えっ!? あ、ちょっと待て! こ、これは何かの偶然か!? 何で、琥凛の名前が浮かび上がるんだ!? 意味がわからない」

 こんなこと、奇遇としか思えない。そう、俺はそうやって己を落ち着かせようとしていた。

何かの気紛れだ。

だが、何度読み返してみても、浮かび上がる名前は一つ。琥凛以外、あり得なかった。

琥凛が食虫植物? 何故? いや、ちょっと待てよ。確か、二人の為に……、って書いてあったよな。

二人って……、俺か? 須雀か? 親父か?

でも、どうして、主の望みを叶える為に、と書いてあった。

頭の混乱は、更なる混乱を招き、俺は自分でも手に負えなくなってきていた。

どういうことだ。琥凛が食虫植物……、つまり娼婦だというのか!? 馬鹿馬鹿しい話だ。琥凛に限って、そんな淫乱を売りにする女子だなんて思えない。

しかし、どの観点からしても、BLYは琥凛で確定し過ぎている。

俺は……、迷うことはない。すぐさま、部屋を飛び出していた。後を追いに。


「おい! 琥凛! どこにいる!」と、俺は罵声に似た声をあげながら、旧旅館内を駆け回っていた。しかし、どこにもいない。なら、旅館か、と思い、渡り廊下に足を踏み入れた時、琥凛はいた。外の呪いを孕んだ向日葵を、虚ろな視線で見据えていた。

「あれ、兄さん……。わかっちゃいました?」

 いつもの琥凛ではない。抑揚の完全に取り除かれた口調で、琥凛は虚ろな視線と共に俺に言った。

「お前……、なんでBLYの解読が?」

 何も言うことが出来ない。今にも、真実を掴もうとしているこの瞬間は、快感にも似ている。でも、俺は嫌悪を抱いていた。そう、俺は「そんな筈はない!」と、我儘を心の中で言ったのだ。

「その様子じゃ……、気付いたんじゃないんですか? 兄さん。たぶん、兄さんが知ってる日記は、私が書き綴ったものでしょうし。どうりで最近見つからないなー、と思ったんです」

 違う、違うと言ってくれ。俺は往生際が悪く、最後の最後まで我儘を通そうとしている。大人がいい歳こえて馬鹿馬鹿しい話だ。

「兄さんなら知ってますよね、巷の事件――」

 嫌だ、止めてくれ!

「――神隠しに人があって、やがてバラバラになって殺されて世間に帰ってくるって事件――」

 嘘だ、そんなの虚言だ! 琥凛の悪戯に決まってる!

「――元凶は、私なんですよ、兄さん」

「こ、琥凛! お前は何言ってんだ。俺を驚かそうたって、そうはいかないぞ。どれだけ、お前に悪戯されたと思ってんだ。流石にな、見抜く力くらいあるんだぞ」

 琥凛は、嗤った。まるでおどけるように。

「兄さんってば、まだまだ眼力が弱いですね。嘘じゃありませんよ。本当のことですよ」

 そうだ、夢だ! 夢であってほしい。

「ごめんなさい。兄さんの期待には答えてあげられないの。これも、兄さんの為なんだから……」

 でも、覚めてはくれない。この悪夢から抜け出すことが出来ないのだろう。なら、受け入れるしかない。これが現実だというのなら、現実に生きる者として、受け入れる以外の手立てはないのだ。

「琥凛……、じゃあ、お前……、娼婦なのか?」

「えぇ、幾人も男どもにこの身を売ってきました。汚らわしい身体を、兄さんに晒さしてしまったごめんなさい……」

 琥凛は相好を崩すことはない。笑みを浮かべるばかり。でも、それはもう乾き切った笑顔だ。

「兄さんは、どう思います? どうせ兄さんのことだから、もう辞めてほしいなんて思ってるでしょうけど、ごめんなさいね。もう時間がないの。私も、何もかも」

「時間がない?」

「えぇ。終わらせるの。兄さんを巻き込みたくないから」

 琥凛は外の向日葵に視線を移しながら「兄さん。あの向日葵が何なのか知ってる?」と訊ねてきた。俺は「呪いの花だろ」と答えると、「なんだ知ってるなんて、つまらないなー」と、子供染みた口調で怒った。

「なら、誰かを呪い殺そうってことも」

 知っている。誰かを殺したい、そう琥凛は思っているのだろう。

「琥凛は、誰を呪い殺そうとしてるんだよ。な、なあ、差し支えないのなら……」

「無理です。私には言えない。言っちゃったら、何もかもが終わってしまうから」

 琥凛に幾ら問い質しても、頑として答えることはなかった。

「いや、元々他言出来ない体質になっちゃったんです。だから兄さん。手を引いてくださいな。あまりにも穿(ほじく)るようでしたら、私琥凛とて、許しませんよ」

 嗤っているのだが、邪悪なるその笑顔は、受け入れることは出来ない。呪いを孕んだその笑顔は、もはや笑顔と呼べるものではない。でも、これが本来の琥凛なのだと、自ずと知らされるのだった。

「どうしてだよ……、琥凛。何で今まで言ってくれなかったんだ」

「変なことを言いますね、兄さん。兄さんに言ったところで、私の肩の荷を担げるとは到底思えないんですよね。いや、元々担がせちゃ、悪いし」

 目の前にいるのは、妹の琥凛ではない。娼婦として身を売る琥凛でしかない。

「いつからだ。いつからこんなことを……」

「もう、ずいぶん前からですよ」

 そう、俺は気付くことはなかった。毎日、兄妹の関係を気付いておきながら、毎日擦れ違っておきながら、本当の素性を知らなかった。自分に対して反吐が出る。

「琥凛は……、苦しくないのか! 痴漢共に身体を売っておきながら。それも、ずいぶん前からって……」

 ただでさえ、琥凛は二十歳を迎えたばかりである。ずいぶん前からと言うが、事実いつからこんなことをしているのか知らない。でも、好きでもないことをしている。誰かの為に、食虫植物という役割を演じ、異性に身を捧げる馬鹿馬鹿しさが、俺には理解出来ない。

「苦しいですよ……。でも、私は、私の夢の為にも、やってることです」

「夢?」

「……、そうですよ、夢ですよ。私には叶えたい夢があるんです。だから辞められない。自分を……、夢を壊したくないから……」

 琥凛はばつが悪そうにそっぽを向いた。そして、か細く「私から夢を奪わないでください」と、咎められた。

 しばしの沈黙の後、琥凛は俺の横を過ぎ去って行った。自室にでも戻るのだろう。俺は、何も言えず、琥凛の後ろ姿を追うばかりだ。

 白銀色の長髪に、リボンを装飾した琥凛は、去り際に振り向いて言った。それは、懐かしいあの頃の声に酷似していた。今にも忘れてしまいそうだった、あの声が、今ここに蘇る。




「ハクちゃん。私、嬉しいんだ。ハクちゃんが、お誕生日にあげた熊のぬいぐるみをまだ大事に持っててくれたことが。

それでね、まだお誕生日のお返し、貰ってないよね。残念だけど、受け取れそうにないみたい。私、もうすぐで死んじゃうから」




 それだけを残していくと、身を翻して去って行く。白銀の長髪を揺らめかしながら。

 お誕生日のお返し……。紛れもない、あの熊のぬいぐるみのお返しだろう。

 そうだ、俺はあれをプレゼントされた時に、「いつかお返しするから」と約束していた。琥凛は、間違いようがない、あの頃の、初めての友人の女の子だ。

 友人は、自ら「死す」と言った。まだ、俺の約束を果たせずに。




 右目に痛みが走る。琥凛の後ろ姿から視える、その光景。真赤に塗れたぼやけた光景が、俺の頭の中を掠め、そして去っていった。


 ◆◆◆


 ――全ては終わりつつある!

 ――この身に刻まれた痛みは、やがて快方する!

 ――願わくば、己の欲望!

 ――全てはあの方が教えてくれた!

 ――絶望の淵に立たされておきながら、必死に生きようとも無理だった。だが、もう大丈夫。あの方法を知ってしまったからには、実行せずにいられない。

 ――さぁ! 骸を! 血肉を! 二つの液を! 今ここに! あとは、生贄が揃えばいいだけの話だ!


 ◆◆◆


 部屋で一人泣いていた。そして、もう一人が宥めている。

 泣く者は、宥める者に向かって悲哀な心を抱き、己の心の痛みに押し潰されていた。

「ごめんね……。何も出来なくて……」

 全身を覆う戒めの術式が、自分から自由というものを悉く奪っていた。だから、他言は出来ない。誰かに助けを求めようにも、難しいのだ。目に見えていなくとも、この身体に科せられた枷は些か大き過ぎる。

「もう、姉さんったら、私の日記を勝手に持ち出すなんて酷いですよ。幾ら姉さんでも、許しませんよー」

「ご、ごめん……。琥凛……、兄さんに頼るしかなかったの……。私にはそれくらいしか出来ないから」

「……。出来れば、兄さんには知られたくなかったんだけどなー。

 まあ、私は大丈夫だから……。何も心配はいらないよ。私が、全部後片付けしておくから」

「……」

 何も言えない自分が愚かしい。こうして、全てを知っておきながら全てを任せてしまっている自分の甘さ。それは酷な行為に過ぎない。妹は……、琥凛は……、私の為に、娼女として振る舞っているのだから……。

「お姉ちゃんは何も心配してなくていいんだよ。私から買って出た役だから、後始末は全部私の手でしておきたいんだ。だから……」

 いつもの笑顔の妹は、今回ばかりは違う。全くの正反対。笑顔は悲哀に変わっていた。頬に出来た痣が、何とも痛々しい。

「琥凛……。あ、貴女はなんでそこまでして……」

「えっ!?」

 琥凛はひょんな声をあげて、私を見据える。私は涙で潤い過ぎた視界で見返した。琥凛の顔が、ぼやけて上手く視えない。

「な、何ってそんなの決まってるじゃない。姉さんが好きだから」

 そう言って微笑むその表情も、私にとっては痛々しいに他ならない。

「好きだからってね……」

 私が好きだから、こんなこと出来るわけがない。あの人の為に、身を捧げてまで、私を守ろうとする確固たる意志。私がこれまで何ととなく咎めてきたのに、意志を覆すことはなかった。いつだって「姉さんが好きだから」とか、「姉さんの為に」だとか、そうやって訳を作っては私をこの一連の件から離そうとする。絶対に来てはいけない、との琥凛の意思が垣間見える。

「好きだからってね、私は……」

 貴女が傷ついていく姿が、嫌だった。それは嫌悪に近い。拒絶的なものでもあるかもしれない。

「姉さんは何も案じることはないの。わかった? 私が全て終わらせてあげるから。っね? 夜が明けちゃうよ。そんな顔じゃ、皆と顔合わせ出来ないですよー、姉さん」

 私を立たせる琥凛。そして、「洗面台に行ってらっしゃーい」と見送る。確かに、こんな面じゃ皆に顔合わせなんて出来たもんじゃない。洗面台にそそくさと向かう。

 そして、自分の顔を改めて見た。涙と鼻水で完全に壊れた相貌。「大丈夫?」と言われる前に、これじゃ相手は引くだろう。それ程、私の顔は酷かった。

 ただ、私は顔が酷いって済む話ではあるが、琥凛は……。




――何も出来ない。それって、悲しいです。最低な姉です。自分を殺したくなる程に。




 やがて、朝陽が昇り始める。また今日も始まる一日が。そして、また一人犠牲者は増えるだろう。

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