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蹂躙命運  作者: 琥月銀箭
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第一章 痛感忘却 〜冬に咲き誇る向日葵〜 01

 今朝は清々しい青空が空に君臨していた。鳥が柵なしに飛びまわり、虫達が慮らない程に独特の鳴き声を鳴らしていた。それらは風景の一部と化し、それぞれ一つが個性となり、自然という大きな物体を華やかにしていた。

 俺は布団に潜って、ヌクヌクと朝を過ごし切ってしまおうと思っていた。昨晩、遅くまで起きていたせいで、床に就くのが遅かった。お陰でこうして朝になっても、目を覚まそうとしていない。目覚ましが鳴っても、お構いなしにスイッチを切っては、どこかへと放り投げてしまった。なんだか、鈍い音が聞こえたのだけれど、眠っている故に自然と無視していた。

 だが、それから少しして、絶対に無視出来ない目覚ましが、部屋の外からやって来た。

「兄さん〜! 朝ですよ!」

 ドン、と勢いよく開いた扉には、一人の女子が立っていた。

 銀髪の長髪、底が見えぬその笑顔は、ここにやって来る客を虜にする。誰もが認める明るい人物であった。白基調とした花の百合があしらわれた和服を着ている。なんといっても、彼女の特徴として、珍しく首に白いリボンを巻いていた。

「兄さん! いい加減起きてください!」

 眠っているのだけれど、その声を訊いたけで誰かわかる。家族内でこんなに明るい人物は、彼女において右に出る者はいない。楽観異常者と言えば、彼女らしい評し方である。

 つまるところ、彼女は俺の一人の妹である。名前は琥凛と言う。

 部屋の扉を開けるなり、駆け寄って来て、寝ている俺に馬乗りになる。

 突然、圧し掛かる重みに驚かないことはなかった。夢から俺の意識は現実へと引きずり出される。

 形容し難い内臓の圧迫は、俺の意識を眠りから醒覚させる。

「うぉ! こ、琥凛かお前! 退け! 退け!」

「嫌ですよー。兄さんが起きてくれないまで、私はここから動くつもりはありませんから」

 そういって、俺の腹の上に乗っかりながら動く。腹がぐりぐりと上から押される。

「や、やめてくれ……。琥凛、正直きつい……」

 幾ら俺といえども、寝起きから誰かの馬乗りになっているのはきつかった。腹も減っているから気合も入らない。

「じゃあ、起きてくれますか? 起きるなら、退いてあげましょう」

 ただ起きるだけで、退くとは思えない。琥凛のことだ。なにか一つ策でもないとも思えない。なにかを条件を持ち合しているだろう。

「なんだ? 条件は?」

 俺はすぐに琥凛の目的を察し、問う。

「流石兄さん。朝から頭の回転は速いですね」

 今更なにを言うのだろうか。もう、琥凛との付き合いは長い。琥凛がここの家にやってきてから、それからずっと一緒なのだから。かれこれ十年以上の兄妹(けいまい)関係なのだから。

「朝ごはんを作ってほしいんですよー。お願いできますか?」

 なんだ、そのことか、と俺は言葉も出さずに心で言った。「わかった。条件を飲む」と敗北を宣言すると、琥凛は俺の上から降りた。

 重みがなくなり、俺は目を覚ました。布団を退かし、琥凛を捜した。

 琥凛はすぐ横で正座で待ち構えていた。ニコニコとした面持ちで、俺がさっさと目覚めてくれるのを待ち侘びている。

 俺は布団から手を出して、琥凛のおでこにデコピンを加える。「にゃ! 何をするんですか!」とおでこを擦りながら、俺の方を見る琥凛。

「あのな……。起こすんだったら、もう少し穏やかに起こせないのか? それでもここの仲居か?」

「仲居ですよー。これでも、人気のある仲居なんですから」

 いや、仲居に人気がどうとか、あまりないような気がするのだが、ここは敢えて余所に置いておこう。

「その言葉の真意を疑うよ……。せめてさ、ドアを叩くくらいでいいから、起こすには。なにも、飛び乗ったりすることはないだろ」

「そうですかね。ドアを叩いただけじゃ、つまらないじゃないですか。スキンシップですよ、スキンシップ。ぶっきら棒にドアを叩くより、こうして少しじゃれ合った方がいいじゃないですか」

「言っておくが、朝からじゃれあうつもりはないぞ」

「私にはありますから。ささ、朝ごはん作ってください」

 俺から幾ら言おうとも、琥凛は訊いてくれないことはもはや明確であった。そそくさと敗北を認めざるを得ずに、「じゃあ、先に言っててくれ。俺は支度してから行くから」と言うと、「あれー? 逃げるつもりなんですか?」と怪しいですねーと言わんばかりに疑いの顔を見せながら、逆に目は何かを企んでいる。

「お前から俺が逃げてどうするんだよ。どうせ、俺が逃げたところで、お前が裏でなにか企んでるのは、その眼からわかるぞ」

「ありゃ、わかっちゃいました? んー、つまらないな。兄さんが逃げたら、姉さんと一緒に台所で遊ぼうと思ってたのにな」

 台所で琥凛が遊ぶ。それは究極の地獄絵図を指し示している。

「琥凛! お前には台所には立たせないからな!」と、声を荒げて警告する。これ程に間でない程の咎めようで、琥凛は少し肩を竦めた。

「むー。私が台所に立てないからって、そんなに言わなくても……」

 目に涙を浮かべながら、仔猫のように俺を見つめてくる。

 その視線を逸らしつつ、俺はそそくさと自室を出てくれよ、とそっと追い出そうとする。最後の最後に琥凛は折れて、「仕方ないなー。居間で待ってますからね」とすたすたと去っていく。その後ろ姿を見送ると、さてと、と一息ついてから着替えを始めた。

 洗面台に立つ。鏡に映る己の顔。何十年と見てきた自分の顔に、些細な変化は望めない。ただ、他人と比べると、俺は一つ違う点が挙げることが出来る。

 普通なら、両眼に視力はあるのが普通だ。何かしらの原因がない限り、視力というものは失うことはない。外部的衝撃、内部的衝撃、いずれから視力を失うことは確かだ。なんの事故も起こしたことがないというのに、俺の右目はここまで生きる過程で、突如と失われてしまった。右目の失明、つまるところ俺は隻眼である。


 俺の名前は円城珀という。今年で二十二歳を迎える。彼女も特にいないという、なんとも寂しい奴である。体が平均より若干低いし、大人だというのに、あまり見られたことがない。どっちかというと童顔であり、それが少し劣等を感じている。


 支度を整えて部屋を出た。

 部屋を出ると、そこは旅館の廊下だ。故にここは旅館の一角である。俺が旅館で寝泊まりしていたのは、円城家が旅館を営んでいたからに由来する。俺が自室として使っていた部屋は、今では使われていない、旧旅館の部屋であり、この廊下も旧旅館の廊下だ。今では住み込みの仲居や板前、そして円城家が寝床として使っている。

 廊下は少し雰囲気が寂れているが、それでも未だに活気に溢れていた。当時の面影をそのまま残しているから、自分が旅館に泊まりに来ているんじゃないだろうか、と錯覚を覚えてしまうこともあった。

 朝だけあって、少し廊下は寒かった。故に事前に用意されていた浴衣が普段着な為でもあり、軽装である。季節は冬であり、廊下に差し込んでくる陽の光がある分、寒さは凌げるのだが、それでもこの廊下は肌寒いものがある。

 さて、急がないと琥凛の奴が勝手に朝ごはんを作り兼ねない。琥凛が料理を始めたら、それはそれで台所が死活問題となる。

 琥凛が台所に立ってはいけない理由。何故なのかわからないのだが、琥凛は非常に味覚が人一倍違い、調味料のあれこれがわからないのだ。だから、一度料理を任してしまうと、味付けは悲惨なものとなる。故に料理自体が根本的に下手でもあり、台所は食材の地獄絵図と化してしまう。閻魔大王も吃驚の包丁の裁きは、目を離せない程に危ない扱いであった。

 俺は旅館の手伝いをしていて、料理には自信があった。厨房を任されている身として、台所が荒らされるのは御免被るものがある。

 台所によるのには、まずは居間を通る必要があった。

 廊下の突き当たり、元々客人用の一室は、一家の台所と居間に改良されている。

 扉を開け、居間へと足を踏み入れる。

 琥凛は待っていた。

「にゃうー、やぁっと来たー……。兄さん、早く……」

 今にも萎びてしまいそうな花の如く、琥凛は居間に置かれた卓袱台の上でのびていた。居間から台所に向かうまで、だいたい十歩くらいだろいか。その歩数の間に、何度も腹の虫が鳴るのを訊いてしまった。相当腹が減っているようで、料理の出来ない妹の為にも、「仕方ない」と腕を揮う俺。

 昔から哀れな者には、どうも無視出来ない性質であった。




 ――誰かの為に、それは……。




 ずいぶん昔に、覚えた、遠い言葉のように感じられる。昔に、愛情を注いでもらったあの人からの教訓を、今でも微かに覚えていた。

 昔、と言えば、もう十五年以上前になるだろうか。俺は一度一家を――覚えている。あれは、静寂な夜に起こった惨劇のことを、それはハッキリと覚えている――失っている。故に孤児となり、孤児院を通って、ここの円城家に拾われた所謂養子である。俺が旅館を肩入れしているのは、ただ単に養子としての礼がしたかった為である。いや、逆に高校卒業後、どこにも行く宛てがなかったと言えば、俺にとって最もらしいかもしれない。

 琥凛も俺より後にやって来た養女である。そして、琥凛に姉がいるのだが、姉も、同じ孤児だった。

 俺と琥凛を拾ってくれた人物は、円城家の大黒柱であり旅館の経営者である円城志戒という人物だ。

 俺をこの家に迎えてくれた時は、ずいぶんと優しい人物であった。誰に対してだって朗らかな人だし、俺が何を言っても「そうか、なら――」と素直に訊いてくれる人であった。寛大広い人物であった。ただ、今は違う。いつの日からかは、忘れてしまったのだが、今では昔とは正反対だった。少し堅苦しく、他言をあまり訊きいれてくれない人となってしまった。それでも、父親には変わりない。どんなになろうとも、俺の父親であることには変化など起きないのだから。

 野菜を切っていく。慣れた手つきだった。かれこれ、高校を卒業以来、実はそれ以前から少し家業の方を手伝っているのだが、厨房を任され続けていて、料理に関しては円城家の誰よりも長けていた。旅館にやって来る客の中には、俺の料理目当てで来る人もいて、密かな人気ではあった。

 極度に腹を空かせた妹の為だ。あまり手間をかけずに早めに作っておこう、と決めていた俺は、それ程手間のかからない朝飯を、脳内のレシピより選び出し、冷蔵庫と相談の後に決める。

 ご飯は事前に炊けるように昨晩仕込んでおいたから大丈夫だ。後は味噌汁と、焼き魚で十分だろう。

 一度始めれば、俺は作り終えるまで、終始時間を忘れるのだった。


 やがて料理は出来上がり、居間へと運ぶ。

 琥凛はもう萎び切る寸前である。今にも口から魂が抜けてじゃないかと思わせる程に、琥凛は衰弱していた。

「おい、琥凛……。大丈夫か? 飯なら、出来たんだけど」

「えっ! 出来たんですか! 嬉しいな!」

 咄嗟に飛び起きて、お盆に乗っている朝飯に目を光らせる。やったー、と言わんばかりに手を広げて嬉しそうにはしゃぐその姿。二十歳になるというのに、このはしゃぎっぷりはどこからやって来るのだろうか……。


 円城琥凛。今年で二十歳。銀髪の長髪、向日葵のような笑顔、首にリボンを巻いているといったちょっと風変わりな妹である。体は同い年の子より一回り小さかった。

 いつも百合の花をあしらった和服を着ている。故にここの仲居である由縁である。その向日葵のような笑顔から巷では、仲居の人気を博している。若者がこの旅館にちょくちょくやって来るのだが、彼らは大概が琥凛目当てだったりする。

 一度、宴会で客人と一緒にカラオケ大会だとか、ゲーム大会で、仲居あるまじき行為が大いに受け、今日に至っている。時々、宴会会場を一つ丸ごと潰してしまったこともある。

 それに、円城家は琥凛を除いて誰もがメディアという最新機器には疎かった。琥凛はそれに長けていて、ホームページなんてものを作っているらしい。俺にはサッパリでわからないことを琥凛は普通にこなしてしまう。俺が非常にアナログ人間だということは、言うまでもない。


 「ありがとう、兄さん」と満面の笑みで感謝の意を込めて言う琥凛。俺はその言葉とその笑顔が、何とも好きだった。こうして誰かに喜ばれることは、俺にとってどんなことよりも嬉しいのだ。誰かに感謝されること、それは俺にとって生き甲斐といっても過言ではない。その生き甲斐の根本は、過去に遡る。ただ、俺の過去の記憶が曖昧で、なんで好きなのか、今はわからない。ただ、それでもよかった。

 琥凛の感謝を受け、青空のように淀みのない気持ちを抱きつつ、朝飯に手を着け始めた。


◇◇◇


 飯を食い終えた頃、ある住み込みの仲居が、この居間にやって来た。

 ちょうど客を持て成している最中なのだろう、前掛けをつけている。

「ちょっと、珀ちゃん。非番の日に頼むのも、あれなんだけどさ、厨房手伝ってくれる?」

 今日は俺は一日中非番であった。故にこれといってすることはない。琥凛もまた今日は非番なので、なにもなかったら、二人でどこか気晴らしにでも出かけようかと思っていたのだが、どうやら仲居の話では、厨房が今人手不足で客に出す朝飯が作り切れないらしい。

「あぁ、わかった。じゃあさ、すぐに行くから、ちょっと待って」

 まだ朝もゆっくり出来ていない。だからといって、「ごめん」と断るのも、俺の自尊心が傷つくというものだ。あいにく浴衣姿であった故に、着替える必要があった。

 仲居をそそくさと接待の方に向かわせると、俺は席を立った。

 琥凛は相変わらず箸を止めずに、出来あがったばかりの朝飯を美味しそうに食べている。

「御免、ちょっとさ、行ってくるから、食べ終わったら台所に置いといて。後で皿洗いに来るからさ」

「ん? 兄さん、何を言ってるのかな? 皿くらいなら私が洗いますよ。それより兄さんは、厨房の方に集中しておいてください。兄さんの朝飯の分も、私がきっちりと食べておいてあげますんで」

「……。わ、わかった。頼んだよ」

 俺の代わりに朝飯を食べておいてくれる、というのに少し返事を出すのに間を置いてから、返事を出してそそくさと厨房の救援へと向かった。


 旅館にとって、客に対する不手際は致命的である。ここのところ、この辺の温泉旅館地域は、活発になっていた。白銀山温泉といって、とある僻地にある温泉にも関わらず、一年中人でこの辺一体は賑わっていた。

 円城家が経営するこの旅館も、温泉をひいており、ちょっと場所は奥にあるのだが、一風変わった和風旅館として、巷で人気を博していた。

 陽気な仲居さん。清楚で可憐な仲居さん。是非また来たいと思わせる程の料理。この三点が人気を博している一番の要因であった。

 陽気な仲居さんは、言わずとも自ずと琥凛の名が浮かぶ。円城家において、彼女の他に朗らかな人間はいない。つまるところ、愉快さで言うのなら彼女を差し置いて右に誰が出るだろうか。俺の思い浮かぶところは一つとしてない。

 清楚で可憐な仲居さんは、琥凛の姉である須雀の名が浮かぶ。


 円城須雀。琥凛の姉であり、俺の妹でもある。今年で二十一歳となる。円城家において、一番の文学者である。引っ込み思案なのか、それともただ単に無口なのか、わからないのだが、彼女はいつも悲観的な面がある。どことなく全体的に性格が暗いほうなのだ。琥凛とは正反対と言えよう。それとは裏腹に、赤黒い長髪の持ち、容姿は人形のように美しく、高嶺の花と呼んでもおかしくない。

 ただ、無口ながら彼女はこつこつと何かに一心に励む傾向があって、時折プレゼントをもらうのだ。たぶん、彼女なりのコミュニケーションの取り方なのだろう。無論、妹である琥凛にも渡すところ、よき姉である。


 厨房に着くやいなや、厨房に立つ者は皆忙しそうに手と足が休まっていない。厨房の入り口では、一人の仲居が待っていた。

 須雀である。無愛想に立っている姿。少しでも動かないので、思わず見過ごしてしまいそうになった。和装故に本当に等身大の人形と見間違えてしまいそうなのも確かだ。

「あっ、須雀。いたのか」

 何の表情も変えない。ただ俺が到着したのを視認すると、厨房より作り出された朝飯をお盆に載せてとっとと客室へと向かっていった。

 いけない、悪いことしちゃったかな、と思ったが、後の祭りである故に今さらどうこう出来ない。それに、あれが彼女らしいところでもある。何の感情を見せないところは、昔から変わらなかった。ただ、彼女の無愛想からさは想像も出来ない程の――。

「おぉ! 珀ちゃん来たのか。ささ、手伝ってくれよ!」

 俺の登場を待ち侘びていたのだろう。長が俺の存在に気付くと、厨房内に手招きする。

 須雀の後ろ姿も程々に見送ると、前掛けをつけて厨房に立った。

 活気のある厨房は、俺が入ったことでさらに活気を増した。今日は団体さんが来ていることから、いつも以上に作っておかないといけなかった。そんな中、シフトで組まれたメンバーの一人が、突然病に臥してしまい、今に至っている。俺は臥した者の代用を務めている次第である。

 俺は長に問う。

「団体さんって、一体何人なんだ?」

「三十人くらいだって、志戒さんから訊いてるぞ」

 三十人か。なかなかの大所帯でのお越しである。長の話では年配者が中心らしく、食材に関しても確りと手抜かりないように下拵えをするように、と俺を含め厨房に立つ者全員に言った。

 年配者が多い故に、食べ易いように若干の手入れが必要だった。そこのところを、愛情込めるところが年配層でも人気ではあった。

 厨房の活気はあがっていくばかりで、伴って料理に質が高まっていく。初っ端からこんなに忙しいのにも関わらず、本来なら非番でありぐっすりと眠っていたである筈の俺は、何の苦も示さず、逆にこうして誰かに料理の腕を揮えることを密かに楽しんでいた。食べてもらったお客さんが「美味しい」と言ってくれるその光景を思い浮かべるだけでも、一層嬉しい気持ちに浸れる。その気持ちに真に浸るには、ここで愛情込めて作る必要があった。

 次々と作られては、仲居さん達によって運ばれていく。その先で待っているお客の顔を見れないのは、少しばかし残念であった。後で、仲居さんを訪ねてはどうだったのか訊ねてしまう。訊ね訊くなど、至極当然の行為であった。ただ、今回ばかりは朝飯抜き状態なので、止めておこう。


 朝食の方も一段落して長から「ありがとう。非番なところすまないね」と詫びたが、俺は「いやいや、別に構いませんよ。俺こそ、ちょうどいい朝の肩慣らしでしたんで」と心に溜まっていたありとあらゆる真の気持ちを言葉にして言った。「そうか、なら俺の心配も杞憂だったのかもな」と笑っては愛想笑いを顔に浮かべた。

 料理長と別れた後に、居間に戻ると、卓袱台には朝飯が用意されていた。俺が作った飯ではない、他人が作った朝飯がある。

 まさか!

 俺はよからぬ予想を立てて、台所へと駆け込んだ。台所では、琥凛が皿を洗っている最中で、駆け込んできた俺に向かって「わぁ、兄さんですか!? 吃驚させないでくださいよ。思わず皿を落としそうになっちゃったじゃないですか。もう、訊いてます?」と頬を含まらせて俺に言った。

「琥凛、お前、朝飯作ったか?」

「はい?」

 突然何を言い出すんだろう、と言わんばかりに琥凛の顔に怪訝の表情が浮かび始めた。咄嗟に訊ねられて正直話についていけていないのは明確だった。俺は再び問う。

「だから、朝飯だよ。卓袱台に乗ってる朝飯、俺が作ったのじゃないだろ」

「あぁ、あれですか? えぇ、そうですね。それがどうかしたんですか?」

 怪訝そうな表情は変わることはなかった。俺は琥凛が俺を誑かそうとしてるんじゃないか、と思いこみ台所を全体に見渡す。すっきりと整理整頓されている。これといって大事が起こっている様子はなかった。琥凛が一度料理を始めれば、なにかしら事件を起こすのは確かなことだった。

 琥凛食物地獄絵図、は台所に描かれていない。じゃあ、誰が作ったというのだろうか。

「なにか勘違いされては、私も困るので言っておきますけど、兄さんの朝飯を作ったのは姉さんですからね。私は横で姉さんの料理を見てただけで、なにも手を加えてませんから」

「須雀が?」

「えぇ。仲居の仕事が一段落してから、すぐにここに来て、『兄さんはまだ朝飯食べてないの?』と訊くもんだから、私は『そうだよー』と答えたら、すぐに台所に籠って、急いで作ったんですよ」

「そ、そうなのか。なら、後で礼を言っておかないとな」

 廊下のすれ違いの時でいいだろう。今日は須雀は一日中仲居の仕事が入っているから、長い時間面と向かえることは出来なかった。

「フフ」

 突然笑いだす琥凛。和服の袖で口許を隠しながら笑う姿に、俺は「なんだよ」と怪しい目線を向けながら言った。

「いや、なんでもないですよー」

「本当か?」

「か弱き妹を疑うというのですか!?」

「か弱き、なのかはさておき、別に疑っちゃいないよ。ただ、なんでこっそりと笑ったのか、不思議なんだよ」

「ふーん。兄さんにとってはそんなものなんですか。

 まあ、簡単に言っちゃうなら、私がちょっと笑ってしまった理由なんて、兄さんって朝飯作ってもらっただけでお礼するなんて、変わってるなー、って思ったからですよ」

「変わってる?」

「えぇ、変わってますよ。兄さんったら、愚直なんですもん。朝飯くらい、朝手伝ったその恩返しってことで取っても差し支えはないと私は思いますよ」

 愚直か。まさに俺らしい言葉ではある。

「そうかな」

「えぇ。兄さんって、正直者を通りこして、馬鹿正直者ですよねー。故に愚直。その異端者ですかね。

 兄さん。この世にはですね、『正直者が馬鹿を見る』って言葉があるんですよ。正直過ぎるのもどうかと私は思いますよ」

 なんだか貶されているような、かといって逆に真意をついているような。それにしても、愚直異端者は、嫌な呼び名である。幾らなんでも、その呼び名だけは勘弁してほしいところである。

「人を異端者呼ばわりするな」

「あら、ちょうどいい言葉だと思いますよ。そうですねー、なんなら正直偏愛者(フェチ)がいいですか? いや、それとも――」

「もういい! 幾らなんでも俺の性格で遊び過ぎだ」

 というより、弄び過ぎである。正直フェチってなんだよ。いや、俺のことか……。いや、違う。俺はそんな変人ではないぞ。

 そう思いたい自分がいた。


 琥凛とのじゃれ合いも程ほどに、まだ熱の冷めていない朝飯に手をつけ始める。須雀が作ったということで、俺は安心して食べられる。

 ホカホカに炊きあがったご飯は、俺が昨晩に仕込んでおいたので、これといって味云々はない。

 主食と汁物を除いて、新たに用意されていたのは、青菜の胡麻あえと焼き鮭だ。どちらも、俺が作ったものではなく、間違いなく須雀が用意したものだ。

 各々の料理を箸に取り、口へと運ぶ。舌に乗るそれぞれの食べ物からは、素朴な朝の味ながら作り手の愛情が込められていた。文句のつけようがない。つけたところで、逆に非難されるかもしれない程に、納得のいく味であった。

「姉さんの朝飯は美味しいですか?」

 皿を洗い終えた琥凛は、まだ食べるつもりなのだろうか。俺の朝飯を羨ましそうに見ながら問う。

「うん、結構美味しいよ。流石、須雀だな」と、自然と褒めてしまう自分がいた。琥凛は少しばかし嫉妬した。嫉妬するのも無理はない。自分は上手い料理が出来ないことに、嫌悪しているのだから、優れた姉がいるから自分がどうしても下手に見えてしまうのだ。

「琥凛だって、日々の努力を積み重ねれば、いずれ上手い料理の一つや二つくらい出来るようになるよ」

 突拍子に出来るわけがないんだから、と付け足すと、「赤子がいきなり自立出来るわけがないってことでしょ」と琥凛は俺よりも上手い喩えで返した。その喩えように、俺は息を飲んだ。

「う、上手い言い方するな……。ごもっともだ」

「ふふーん、兄さんよりは博識ですもん」

 馬鹿にされているのは明確だった。俺の学力は優れたものではなく、どっちかっていうと、成績面では目立たない方だった。これといって出来るわけもなく、平凡よりも少し低い成績であった。

「兄さんのテストの結果には、呆れるものがありました」

「な! 酷いことを言うな」

 ハァ、と勝手に溜息をついて、俺に哀れな視線を送る琥凛。

「事実でしょ。今さら変えようのない真実ですよ、兄さん。受け入れなさい。それとも、現実逃避します?」

 思ってもいなかった琥凛の一言に、俺は愕然とした。

「あのな、現実逃避って。逃避したところで何も得られないだろ」

「さぁ、それはわかりませんよ。それも人それぞれです」

 現実に生きる者として、他に行き場なんてないのだ。

「ハァ……。私も努力してみようかな、お料理」

 俺の前の空席に腰掛けて、姉の作った朝飯にただ視線を釘づけにする琥凛。どうやら、よっぽど料理が出来る姉のことが羨ましいのだろう。努力しようと、今は気持ちを切り替えつつある。俺も、その努力に助力を加えないなんて、卑劣なことはしない。「やるって言うなら、俺も手伝うぞ」と肩を貸そうとすると、琥凛は「今はいいかな」なんて一瞬にして話の腰を折った。

「お、おい……。なんでだよ」

 どうしても、理由が訊きたかった。琥凛に問うと、「だって、今旅館全体が忙しいじゃない」と、時間がないことを理由とする。確かに、最近では口コミなのか知らないが、客足は一方的に増える方で、表玄関は人気が滞ることを知らない。

 実は、こうして一日中非番を取れたのも、珍しいことなのである。今朝の厨房のことが示す通り、一人でも欠けられない状況に陥っている。一人抜けるだけでも、致命的なのだ。

「それもそうだな。ただでさえ忙しいっていうのに、ゆっくりも出来なしな……」

 俺は厨房に立ち、琥凛は仲居としての仕事がある。どうしても、仕事場でしょっちゅう顔を合わせることは、限りなく少ないのは確かだった。

「じゃあ、時間があったら、兄さん、よろしくね」

「ん? あぁ、わかった」

 少しばかし黙考していたので、咄嗟に返事が出来なかった。

 琥凛が席を立って、部屋を出ていった。俺も、食器の後片付けをしてから、そそくさと部屋を後にするのだった。


◇◇◇


 自室に戻って来た。

 琥凛によって叩き起こされた時のままの状況を、この部屋は保ったままで、布団はじゃれ合った後なので乱れていた。布団を畳んで押入れに仕舞って、一段落する。

 つい最近使い方を覚えたテレビに電源を入れ、慣れぬ手つきでリモコンを手に取る。

 二十二歳ながら、未だに俺はテレビの扱い方が酷かった。初めてテレビを見た時、この黒い物体から映像というものが映し出されるのが俄かに信じ難かった。実際に電源を入れてみると、本当に映像が映し出されるのだ。ニュースやらお天気予報やらバライティ番組やらが映し出される、その機械に惚れたが実際一人で扱うには荷が重過ぎた。

 テレビの扱いになれるのは、実に二週間も時間を費やし、今に至る。

 つまるところ、俺は非常にアナログ人間であった。

 最近では、パソコン、なんて便利がものがあると訊く。文章が打てたり――文を打つなんて意味がさっぱりわからない――、インターネットという世界共通のシステムがあるらしい。非常に解せない。未だに葉書を書くのは、もう時代遅れも甚だしいのだろうか。そういったことに強い琥凛に「兄さんって、最新に疎過ぎですよね」と蔑まれたこともある。

 円城家において、一番のアナログ人間といっても過言ではない。

 テレビに電源が入ったことでも俺は一息安堵する。そして、チャンネルを決める。正直、お気に入りの番組なんてものを作る余裕もなく、俺はただ流れてくる映像と音に体を傾けるばかりだ。

 番組は、ニュースであり、巷で起こった事件を、キャスター達が己の見解をぶつけあっている。これといって面白みのあるものではなかった。巷で起こった事件の内容は、インターネットを介した失踪騒ぎであった。あるサイトで客引きされた者が、姿を消してしまう。通称、神隠しサイトなどと呼ばれているらしい。

 神隠しか……。今現代において、結構そういった失踪の類は、すぐに発見され易いと訊く。文明の利器が過剰に発達しているからだろう。それでもなお、神隠しというものが存在するのか、と俺はつくづく思った。

 神隠しサイトで消えた者は、ここ数年に渡って何十人であり、いずれも成人男性がけ狙われていた、という。なんだか妙だった。成人男性だけ、というのがなんとも解せない。女性はいけないというのだろうか。未成年ではいけないというのだろうか。

 「サイトは常時観覧は出来ないのですか?」と一人のキャスターが問う。一人のキャスターが答えた。「えぇ、噂によれば、一時的に観覧出来る場合もあれば、長期に渡り、サイト自体が観覧及び検索不可なこともあるみたいで」と答えた。なんとも怪しい。これは、(ガセ)なんじゃないだろうか、と疑ってしまうのは普通だろう。こんな、どこぞの誰かが噂立てしたくて作ったに決まっている。俺はテレビの電源を切ると、和装から洋装に着替えて部屋を後にした。

 久々に、似非探偵事務所にでも行くとしよう。

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