第一章 痛感忘却 〜冬に咲き誇る向日葵〜 00
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錆ついた地下室。全体的に暗室であり、視界は如何せんぼやけている。手探りで前に進もうとしている途中、偶然にも電灯のブレーカーに手が当たったのだろ。突然、部屋に光りが灯り出す。そして、克明に示す、地下室の内容。
もはや、遺体とも呼べぬ肉体ばかりが転がっている。それは、床のそこら箇所に転がっていて、文字通り足の踏み場さえもない。実際、俺の足許にも、幾数にも重なった肉体が転がっていた。それが床を成している。
奇怪死とも呼べぬ。残虐にも程がある。常識的境界から外されての死は、一体どんな分類の死なのだろうか。四股の切断、頭部の壊滅的損傷、内臓の露呈、原形を留めておらず、想像での補いさえも出来ない。だから、遺体とも呼べない。それはただの塊でしかない。
俺は今にも気が滅入ってしまいそうだった。当たり前だ。つまるところ、俺は常人である。当然のようにこの状況が受け入れられなくて、一種の逃避行為に走る。
なんだ、これは。一体、ここで何が……。
想像のつかぬ状況。ただ、俺は足許の我楽多に向かって嘔吐するばかりであった。もう、臓物に一切の残りがないであろうとも、止まることを知らなかった。喉を突き刺す液が口から出て、やっと俺の腹は治まってくれた。それでも、少し気を許したら、また始まるであろう。
壁に凭れかかり、視界を部屋一面に広げる。十二畳くらいの部屋に、薄暗い電灯、コンクリート作りの地下室、対面の壁には刃物が悠然とぶら下がっていた。血の味を知っているだろう。刃から止めどなく滴り落ちる赤い一滴は、己の下をただ濡らしていくばかり。床にある肉体に還元されていく。
容易に、「あれで切ったんだろ……」と想像がつく。そして、入り口が左に見え、右の方へと視界を向ける。
そちらの壁にも、あるものがつりさげられていた。
深紅に染まる割烹着があった。幾人の血を吸ったのだろか。本来なら純白の前掛けが、俺の視界の中にあるのは深紅に染まっている。裏腹の白さなど、全く無縁である。
咄嗟に右目が痛む。
壁に寄りかかりながら、右目の痛みに耐える。失明している筈の右目が、何故か痛むのだ。
歯を食い縛りながら、痛みに耐えていると、やがて痛みの快方とともに視界は回復した。数十年ぶりの右目の視力回復である。
ただ、視力が回復したところで、俺の得た右目の視界は、尋常気質な視界を見せるばかりだった。他人に話したところで、理解など出来ぬその視界。
死霊、怨霊、成仏出来ずにいる霊達の姿が克明に見える。手足の先から体の掘りの深さまでもが、まるで生前のままの姿を保ったままの、霊体の姿が。
霊体達がこぞって、それも口を並べて言う。助けてくれ、アイツが憎い、と。頻りなしに訴えてくるのだ。何十体も、ここの体の持ち主達の未練が、霊体となって俺に訴えているのだろう。
そんな中、地下室の扉からある者が――生者が――駆け足でやって来た。
「ここにいたのね……」
この場に現れた者は、悲しそうだ。今までなにも出来なかったことに、贖罪をしようにも、今出来ない自らの愚かさに泣いているのだろう。俺も、それは十分承知であった。
俺だって、何も出来なかったんだから。何かしてあげられればよかったんだ。もっと、あの日記に早く気付いていればよかったんだ。俺も、贖罪に追われる身でもある。
「私は、酷いことをしてしまいました……。とても辛いことを、私は承知で任せてしまった……。こんなことにはならなかったのに……」
そう言って、血だらけに染まる割烹着に目をやる。最後に「ごめんなさい」と言って、部屋を後にした。俺も、ここに長いは不要だった。
一刻の猶予もない。一人が、――いや、ここにいた者の命も含め――殺されかけているのだ。散々蹂躙された後に、散々凌辱された後に、最後の最後に人形の役目を果たす為に――。
俺も、部屋を後にするのだった。一連の騒動を、止めに。そして、救いに。