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予備校に着いたら、健太の姿はなかった。
私が少し早めに来たこともあるが、いつもならそれよりも前に来ているはずだった。
結局健太が現れたのは、講義が始まる少し前だった。
今日から健太が勉強を教えに家に来る。ちょっと待てよ?
ということは、そこからが私の勉強で、何を言っているか全く理解できない講義。
まさに今現在、受けているこの講義は全く意味がないのでは?
私にしては冴えているぞ。
まあ、いいさ。意味のないことをするのは慣れている。
今こうやって息をしていることも、言ってみれば意味なんかない。
昼間、きゃぷてんに言った言葉も…
そう。意味なんかない。
そんな事を考えているうちに講義は終わっていた。
「講義中何考えてた?ボーっとしてるの後ろから見てもバレバレだったぞ?」
健太の席は私の隣の列の後ろだった。だから寝ていても確実にバレるのだ。
「これから基礎やるから、今講義受けるのは無意味だなんて考えるなよ!これから基礎を学んでいけば、今日受けた講義だってそのうち繋がるんだから、時間を無駄にするなよ!」
熱血先生には全てお見通しだった。
そう言えば、昔から健太は言っていた。
『全てのものには理由がある。意味のないものなどない』
何を言ってるんだか。全てのものは無意味から構成されているというのに。
「ところでさ、健太が私より遅く来るなんて珍しいじゃん」
この時には私の家へ向う路地を歩いていた。
「今日は面談あったんだ。ほら、俺の担任話長いじゃん?だから長引いちゃって」
「志望校は受かりそうなの?教育大」
「このまま順調に行けばね。一戸先生にも、もっと上の教育大目指せって言われてるんだけど。まあ、結局レベル高い大学の合格者出せば、予備校の評価も上がるからだろ?」
一戸先生とは予備校の講師だ。
「なんで地元の大学選んだの?」
「いや、うちは余裕ないしさ。一人暮らし始めるとなると家計がね…。別にどこの大学行こうと、教師になれればそれでいいしさ」
「そこまで家計のこと考えてるのに、何で予備校なんか通ってるのさ?予備校だってただじゃないんでしょ?」
私は昨日、健太に言われた言葉をそのまま返してやった。
健太なら予備校に通わずとも合格出来るだろうとは口にしなかった。
「浪人は出来ないから、予備校に通って確実に現役合格しなきゃならないからな。だから、高校に入ってからバイト始めたし。流石に3年目にもなると、予備校代くらいは稼げたからね」
「え?もしかして、予備校のお金って自分で払ってるの?」
「まあね。後は昔から貯めてたお年玉とか使って」
そこまでして教師になりたいのか?そんな驚きの表情で健太を見ていた。
それが、彼にとっては哀れに思っている表情に感じたのだろう。
「いや!別にうちが貧乏だから自分で払ってるわけじゃないよ?自分のことくらい自分でやりたいしさ。大学の資金はとりあえず親に出してもらうけど、就職したら少しずつ返すつもりだし」
「偉いね…」
素直にそう思った。
「私はあんたみたいにはなれないよ」
「俺になる必要ないだろ?逆に俺だって、咲希みたくはなれないし」
皮肉でも何でもないだろうが、私はあえてそう捉えた。
「そりゃあんたみたいな優等生は、私みたいなダメな人間にはなれないよね?」
「そんな意味じゃないよ。俺は俺。咲希は咲希。それでいいじゃん。ほら着いた!勉強勉強!」
家に帰っても「ただいま」とは言わない。母も出迎えはしない。
しかし、今日に限って「おかえり」と迎えて来た。
今朝、健太が来ると言っておいたからだろう。
「お邪魔します。おばさん久しぶり!」
「久しぶりね。健ちゃん!こんな大きくなって。寒かったでしょ?あがって!」
そう言えば、健太が家に来るなんていつ振りだろう?
中学の最初の頃はたまに来てた気もするが、健太の背が伸びたのは中2からだ。
それまでは私と大して変わらなかったが、180近くまで伸びた今では30センチ程の差がある。
部屋に入ったら、早速家庭教師が動き始めた。
「とりあえず、現国は割りと良いから…。いや、良いって言っても半分ちょいしか点数とれてないけど。まずは英語と数学に力入れてやろう。その合間に現国な」
「古文とか漢文は?あと、理社…」
「さっき八島先生にお前の志望校聞いたけど、そこは現国と数学と英語だけだから、古文とか理社は捨てよう!」
いつの間に担任チェックを入れていたのだ。
「私の志望校って?」
「おいおい。頼むよ。北海道の大学だろ?」
そう言えば、面談で教えてもらった、私でも合格出来そう大学が、確か北海道にあったような。
あそこが私の志望校なのか。じゃあそこでいい。
「てことは3教科?楽勝じゃん!」
「あんまり甘く見るなよ。科目が少ないってことは、ヘマしても他の教科で取り戻せないってことでもあるからな!」
健太の言葉はいちいち的を射ていて、腹立たしい。
今日、健太から習ったのは基礎の基礎らしいが、はっきり言ってそれすらも理解出来ない。
自分で、どこがわからないのかもわからない。
こんなダメな生徒に理解させることが出来るのであれば、教師を目指す健太の大きな自信になることは間違いないだろう。もちろん皮肉だ。
約2時間後、健太は帰って行った。
予備校が終わって家に着いたのが10時くらいなので、健太が帰ったのは日付が変わってからである。
あいつは次の日も、もちろん朝の新聞配達があるはずだ。
まあ、私が頼んだわけではない。気にしないでおこう。
その後、2時過ぎまで机に向かっていた。
いつもの私なら漫画や雑誌などを読んで、勉強をしているフリをしているのだが、最近はどうも違う。
英語の単語帳や、大学の偏差値なんかが載っている分厚い本に目を通すようになったのだ。
別に健太に触発されて、真面目に勉強し始めたわけではない。
真剣に将来を考え始めたわけでもない。
ただ単に何度も読み返したら、流石にお気に入りの漫画でも飽きるものだ。
ただそれだけ。 たったそれだけのことだ。
夜中まで起きていたにも関わらず、明くる日は朝6時くらいに目が覚めた。
お気に入りの黒いマフラーを巻いて、朝の散歩に出かけた。
これからのこと。 これまでのこと。色々考えてはみたが、考えすぎたせいか、一分前は何を考えていたか覚えていない。
もともと、この時間に考えたことから何らかの行動に繋げようなんて思ってもいない。
とにかく悲観的に物事を見て、寂しい秋の空に同化する自分の姿に浸りたいだけなのだ。
やはりこの一人の時間は嫌いじゃない。誰にも邪魔されたくはない。
その為、先日バイト中の健太と会った通りとは正反対の道を歩いていた。
最近はあまり通らない道だが、ここには小さい頃にはよく遊びに来ていた公園があった。
改めて見ると、本当に小さい公園だった。
小さい砂場、小さい滑り台、それにブランコが2つあるだけだった。
近くの自動販売機で温かい缶コーヒーを買って、公園のベンチに腰掛けた。
ここで遊んでいたころは、こんな悲観的な人間じゃなかった。
近所の友達と一緒に遊び、無邪気に笑っていたっけ。
今の私は、最後に笑ったのがいつだったか覚えていない。そして、次に笑うのはいつなんだろう。
しかし不思議なもので、私は自分が変わったなんて思ったことがなかった。
客観的に自分を見つめてみると、確かに変わったのかもしれないが、「今の私が本当の私」だと思っている。 それは決して間違いではないのだろうが、子供の頃に無邪気に笑っていたのも間違いなく自分なのだ。
何を考えたところで、今更自分を変えることは出来ないし、変えるつもりもない。
冷えた体に浸み込んだ缶コーヒーの温かさが、秋の寂しさを一層深いものにした。