2
予備校では前回の模試の結果が返って来た。
この予備校ではテストの点数、順位が生徒全員に知らされる。
周りの点数を知って、刺激を与え合い、お互いの成績を上げようという、何とも単純な作戦だ。
セッサタクマ? 単純な割りに言葉は難しい。
もちろん私の成績は、どの教科も下から数えた方が早い。
英語なんかはぶっちぎりでビリだった。
健太はどうだろう?
流石は教師を目指す優等生とでも言おうか、どれもトップ5には入っている。
上から私を見下ろして、さぞ気持ちいいのだろう。
もっとも、私は健太が下を見たくらいで見える位置にはいないのだが。
模試の結果が返って来た以外はいつも通りだった。
いつもと変わらない講義。いつもと変わらない退屈さ。
ただひとつだけ違っていたのは、いつも通り寝ている私の姿はなかった。
かと言って、実のある勉強をしたというわけでもないが、とりあえず、これで今日は健太にとやかく言われることはないわけだ。
それだけで今日は充実したと言えよう。
…のはずだった。
講義が終わり、帰り仕度をしている時だった。
呆れ顔でやって来る健太が目に映った。
「なによ。今日は寝てないんだから文句ないでしょ?」
「そりゃそうだよ。あんな成績で寝れるわけないだろ」
とうとう成績についてまで口を出してきたか。 いよいよ熱血教師の仲間入りだ。
「今回の英語は簡単なほうだったぞ。ちょっと解答見せてみろ」
私はしぶしぶカバンから取り出し、健太に渡した。
はっきり、そして堂々と『42点』と書かれた英語の解答用紙を。
ちなみに英語は200点満点である。 単純計算で100点満点に直すと『21点』となるわけだ。
「この時期で発音問題や並び替え問題を落とすのは厳しいぞ。お前基礎が固まってないんだろ?」
「だって英語は苦手なんだもん。しょうがないじゃん」
「英語はって…。他に武器になる科目もないだろ?お前危機感感じてるのか?」
「別にいいの!あんたみたいに上目指してるわけじゃないんだから。私でも入れる三流大学だって、探せばあるんだから!」
「まあ、志望校によっては科目も変わってくるから、全部を勉強する必要もないんだけど…」
「ん?どういうこと?」
「だから、学校によっては理・社が受験科目にない大学もあるから…」
「英語がない大学もあるの!?」
私は健太の言葉をさえぎって、久しぶりに声を張った。
「…いや、英語がないところはあんまり聞いたことないけど」
「なんだ…」
人を期待させるだけさせて、最後に落とす。 なんて趣味が悪い男だ。
「て言うか、それくらい調べておけよ!だいたい、英語さえなければどうにかなるみたいに言ってるけど、他の点数見てみろよ!現国56点、古文・漢文合わせて23点、数学31点、生物33点、世界史41点!仮に英語が満点だとしても、合計すると半分ちょっとしか取れてないんだぞ!マークシートなんだから、適当でももうちょっと取れよ!」
確かにその通りだが、別に大声で人の点数をぶちまけることはないだろ。
適当でももうちょっと取れよ?そんなのは私じゃなくて、愛用の鉛筆サイコロに言ってくれ。
「いいか?お前がどこを志望してるか知らないけど、これから二ヶ月ちょっと、苦手強化に絞って基礎からやり直すぞ!どうせ講義にはついて来れてないんだろ?俺が予備校帰りに教えに行ってやるから」
仰る通り、予備校の講義には全くついて行けてない。
教えてくれるのはありがたいが、いかんせん…。
「何かさ~。その上からの言い方がムカつく」
「だから!危機感を持てって!時間がないんだぞ!」
「時間ないのはあんたも一緒でしょ?私に構ってないで、自分の勉強すればいいじゃん!人のことばっか気にしてないで!」
「あのな、予備校だってただじゃないんだから、その上私立の大学に行ったりしたら、おじさん達も大変だろうし」
考えたことはなかったが、恐らく最もな意見なのだろう。
「とにかく!明日から予備校帰りにお前に家に行って、基礎からみっちりやるからな!わかったな!」
「はいはい」
おじさん達も大変だろうし。 家に帰ってから、健太の言葉を思い出した。
私は予備校にいくらかかってるかなんて知らない。
特に興味もない。
もともと私から予備校に行きたいと言い出したわけでもない。
大学の学費だっていくらかかるかなんて知らない。
私立より国公立の方が安いということだけは知っているが。
私の家はお金に困っているとは思わない。
小さいながらも一応マイホームもあり、小さい頃にも、欲しい玩具を買ってもらえなくて泣いた記憶もない。 今となっては欲しいものなど一つもないので、おねだりすることもないが。
でもやっぱり大学の学費は相当かかるのだろう。
健太の場合はそこまで考えて受験勉強をしているのだろうか?
そう言えば、あいつの家は特別豊かではなかったような。
家は団地だし、おじさんのお下がりを着て学校に来てたこともよくあった。
両親は共働きだし、貧しいわけでもないのだろうが…。
やめた!人の家の金銭状況をどうこう考えるのは悪趣味だ。
今日はもう寝よう。
どうせ明日からは嫌でも勉強しなきゃならないのだから。何せ熱血教師が相手だ。
ベッドに入ろうとした時に、母が夜食を持って部屋に入って来た。
「あれ?もう寝るの?」
「うん。朝型に切り替えるんだ」
「そう。じゃあ夜食はお父さんが帰って来たら食べさせるね」 そう言って、母は出て行った。
夜食の行方なんてどうでもいい。
朝型に切り替えると言っても、早く起きるつもりは毛頭ない。
またいつも通りの朝を向かえるのだろう。
カーテンの隙間から射す日の光で目が覚めた。
時計を見るとまだ5時半だった。
何でこんなに早く目が覚めたのだろう?
考えてみれば、学校で寝て、予備校の前に寝て、日付が変わる前に寝たのだ。
早く目が覚めて当然だろう。
天気はなかなか良かった。勉強の前に軽く散歩をしてくる。
そう母に告げて家を出た。
春、夏、秋、冬。 それぞれが魅力ある中で、私は特別秋が好きだった。
暖かい春、はしゃいで遊べる夏、雪が綺麗な冬。
秋は…? 恐らくあまり人気はないだろう。
どことなく寂しい季節。 素晴らしいじゃないか。
夕方の赤い空の下を、意味もなく感傷に浸りながら歩く。
これがとても好きだった。
でも、たまに歩く秋の朝方も悪くはない。
日が昇りたての静かな時間。
静寂の中、道に落ちてる枯れ葉を踏みつける音なんかは最高だ。
背後からそんな音が聞こえた。
「クシャ、クシャ」
そう。こんな音。
枯れ葉を踏みつけた自転車は、私の左隣を通過し、3メートル程したところで振り向いた。
正直驚いた。
新聞配達の自転車に乗っていたのは健太だった。
「こんな早起きするなんて珍しいな」
「えっ!?何やってんの?」
「見ればわかるだろ?バイトだよ」
「いつから?」
「高校に入ってからすぐかな?」
こいつは何者なんだ。
学校の成績もよく、バスケ部ではキャプテンを務めて、予備校でも良い点数。
その上、新聞配達をやっていたなんて。
私にはとても真似出来ない。
「受験勉強、朝型にしたのか?」
「ま、まあね…」
「いいんじゃないかな?朝の方が集中出来るし、無駄に徹夜するよりよっぽど」
「うん。そう思ってさ~」
「あんまゆっくりしてる暇ないから、俺行くわ」
そう言って、健太は走り出した。枯れ葉を踏みつけるいい音を出しながら。
何だか散歩をする気分じゃなくなった。もう帰ることにしよう。
部屋に戻り、ベッドに横たわると、無意識のうちに英語の単語帳を開いていた。
私だって仮にも受験生だ。単語帳くらい持っている。
ただ開いて見てるだけなので、もちろん何も頭に入ってはこない。
遠くから母の声が聞こえる。どうやら朝食が出来たみたいだ。
居間でテーブルを囲み、家族三人で食事を取る。
この一家では貴重な家族の時間である。
基本的に私は自分の部屋にこもっているので、親と話すなんてこんな時間しかない。
「どうだ?勉強のほうは?」
父の決まり文句だ。
「まあ、ぼちぼち…」
これは私の決まり文句だ。
父はIT企業に勤めているようで、割と上の地位にいるみたいだ。
ほとんど毎日残業で、帰ってくるのは夜も大分更けてからである。
父は私と同じで寡黙であり、二人だけで話すことはほとんどない。
私にしてみれば楽な親だ。
「そう言えば、今日から予備校終わったら、健太が家に来るから」
別にこれを言ったからどうってことでもない。
ただ話題を提供してやろうという私なりの優しさだ。
「健ちゃんが?」
「家で一緒に勉強するの」
勉強教えてもらうと言うのは、私のプライドが許さない。
「健ちゃんはどこの大学受けるの?」
「知らない」
私から振った話題ではあるが、面倒になったのだ。
後は勝手に一人で喋っててくれ。
大概は母が一人で喋って、父と私は黙々と食事を取り、20秒に一回くらいどちらかが相づちを打つ。
これが我が家の「会話」だ。食事を終え、学校に向う為、家を出た。
朝方よりはあまり冷えない。
それでも寒いことに変わりはなく、私は首を黒いマフラーで包み、歩いていた。
耳にはいつもの英語の歌が流れていた。
昼休み。私は群れるのが嫌いだから、大概一人で屋上に行って食事を取っている。
群れるのが嫌いと言うか、群れる相手もいないからである。
いたとしても、やっぱり群れるのは嫌いだ。
屋上は人が来なくて好きな場所だ。学校にある、唯一の私の場所。
そんな私の場所に招かれざる訪問者が来た。
何やら騒がしい男子3人組。何と屋上でバスケを始めたのだ。
勝手に私の世界に入って来るな。バスケなら体育館でやれよ。心で呟きながら、ボーっと彼らを見ていた。 その時、3人組の一人が私に気づいた。何故か微笑みかけて、こっちへ走って来たのだ。
「どうも!こんちわ!」
私は声には出さずに、軽く会釈した。
「あの~、健太さんの彼女さんっすよね?」
残りの2人も駆け寄って来た。
「この人?この人が健太さんの彼女?」
はあ?誰だこいつら?
私の心の声に気づいたわけではないだろうが、彼は私の問いに答えた。
「俺らバスケ部で、健太さんにはお世話になってるんっすよ!」
ああ、どこかで見た顔だと思ったらきゃぷてんじゃないか。
「あ~。バスケ部のきゃぷてんの?」
「そうです!新井直樹っていいます!」
「え~っとね、新井くん。別に彼女とかそんなんじゃないから」
「またまた~。健太さんもそんなこと言ってましたけど、凄い仲いいじゃないっすか~!」
「ただの幼馴染だよ。いつもここでバスケやってるの?」
やってるわけがない。ここの住民の私が一番良く知っている。
「いえ、今日は体育館が使えなくて、屋上なら人がいないと思って」
「へぇ~」
ここで会話は終了だ。
「今日は健太さんは?」
せっかく話を終わらせたのに。
「知らないよ。会えば話すくらいだし」
「健太さんって成績もいいんすよね?バスケも上手かったし、凄いっすよね~?」
「あいつバスケ上手いの?」
健太がバスケ部元キャプテンだということは知っていたが、バスケの実力は知らなかった。
興味がないと言えば嘘になる。
「知らないんっすか?うちのエースでキャプテン!シューティングガードで、スリーポイントをバンバン決めて、レッグスルーやローンターンで中に切り込んでのシュートも、そりゃあ凄くて…」
「あ~、もういい。そんな専門用語出されても全然わかんない!」
「あ、すんません。でも健太さんのお陰で弱小チームだった俺らも、県大会でベスト8に入れたんっすよ。健太さんがいなくなってからは、また元の弱小チームに…。あ~ぁ、健太さんダブってチームに残ってくれないかな~?あ、でもダブったら試合には出れないか~。一回くらい全国行きたかったな~」
…何故かはわからない。 きゃぷてんの話を聞いていると、無性に腹が立った。
そして本能のままに言葉を発した。
何故こんなことを言ったか自分でもわからない。
「あんたさ、キャプテンなんでしょ?もういない奴に頼ってないで、あんたがしっかりしないでどうするの!」
きゃぷてん達はあっけに取られていた。 当然だろう。
ほとんど初対面に女に、何故偉そうに説教されなければならないのか。
それより一番驚いているのは他ならぬ、私自身だ。
いったい私は何を言っているのだろう。
「別に関係ないけどね…。いいんじゃない?元の鞘に納まったって感じで」
そう言い残して、屋上を後にした。
学校が終わり、予備校までの時間はまた寝ようと思った。
でも眠れなかった。何故か気持ちが落ち着かない。
理由もなく腹が立ったり、悲しくなったり・・・
結局、眠れないまま予備校に行くことにした。