七話 織りなす姉妹と親友の秘め事
——三年前、夏
うだるような暑さの七月某日。その暑さにやられたように蝉が狂い鳴き陽炎が揺らめくその日は、明日からの夏休みを満喫しとろ言わんばかりの真夏日になった。
そんな、ジリジリと肌を焦げつかせそうな陽射しが降りそそぐ昼過ぎに、中学二年生とは思えない程あどけない表情をし、手を繋いで下校している詩織と葵。
その葵と手を繋いでいるもう一人の少女。
『氷海 沙織(十四歳)』
詩織とは判別が困難な程、似通った顔と容姿をした彼女は詩織の双子の妹だが、詩織のような活発なそれとは違い、柔かく特徴のある話し方。
言葉には覇気も張りもなく、瞳も弱々しい光を放ち、そして内股気味な佇まい。詩織とは違い、灯に毎朝結ってもらうハーフアップの三つ編み。
その姿と仕草、自分を名前で呼ぶことでどちらかを判別でき、逆を言えば話さず同じような容姿だったら、ほぼどちらか分からないといった姉妹である。
そもそも詩織に、その場でジッとしていろというのも酷な話なのだが……。
一見したらひ弱とも取れそうな雰囲気の沙織だが、灯の影響で始めた空手を灯本人から稽古をつけてもらっており、実力は相当なものだった。
詩織も沙織と共に稽古をしていたがすぐに飽きてしまい、頼まれた時に仕方なくといった感じで沙織の相手になっていた。
そんな稽古もまともに受けない詩織だったが、沙織とは互角に渡り合っていた為、自分でも気付かない程の実力を誇っていた。
その事に、灯は当然気付いていたが本人の意思を尊重していた、と言えば聞こえはいいが正直な話、落ち着きのない詩織に教えるのが面倒だったので無理強いすることはなかった。
沙織は早朝のジョギングを日課とし、更に音々から筋トレの手解きを受け、持久力、筋力はあったが詩織の野生の勘と技術的センスのお陰で先んじることはできずにいた。
しかしながら沙織はジョギングの際は詩織を度々誘っていた。
だが普段から怠けた生活をしていた詩織が沙織の誘いに乗ることは稀だった。
そんな双子の姉妹の仲はとても良く、特に詩織が沙織にベッタリという感じで、中学生になったら急にませ始めた沙織から「妹離れするのです」とお叱りを受けていたが、動じない詩織に困惑することもしばしばあった。
ませ始めたからという訳ではないが、沙織は幼馴染みの葵を少し大人びているからと、休み時間は別のクラスに所属する葵の元に行き、必要以上に親密に接していた。
昔から、双子とは平等に接しているつもりの葵だったが詩織の方が仲がいいと、沙織によくヤキモチを焼かれていた。
そんな可愛らしい三角関係の一角を担う葵は、父親の仕事上の都合で明日から母方の実家に帰省する為、数日間は会えないと双子に伝える。
二人は残念そうに声を漏らすが、特に不満そうに表情を曇らせていた沙織が葵に言う。
「葵ちゃん、沙織も一緒に行きたいのです!」
自分では意識していないようだが、あざとく上目遣いで葵に無理なおねだりをする沙織に対して詩織が軽く叱る。
「さーおーり? 葵を困らせたらダメなんだからね?」
「ごめんね、沙織。帰ってきたらまた遊ぼ?」
そう言って葵は、沙織の痛々しいくらい寂しげな視線を背中に受けつつ家の中に入って行ったが、沙織はその場から動かずになにか悩んでいる様子だった。
詩織は沙織の顔をしばらく見ていたが暑さに入り混じった蝉の鳴き声が気になり、その出所を探しキョロキョロと辺りを見回していた——
すると沙織は小さく頷き、よそ見をしている詩織を置いて家までの道を止まることなく走って行ってしまった。
詩織は置いて行かれたその事よりも、この暑い中を疾走していった沙織に感心しつつ、ボヤきながらふらふらと家路に着いた。
「あぢー。なんか、急に暑くなったなぁ」
いつもよりも長く感じた距離を歩き、ようやく家に着いた詩織は脇目も振らず台所に向かうと、冷蔵庫の麦茶を惜しげもなくコップに注ぎ、息もつかず一気に飲み干す。
「——っぷはぁ」と大きく息を吐くと流し台に寄り掛かり、あいかわらず暑い暑いと連呼してうなだれていたが、先に帰った沙織が気になり詩織は沙織を探す為リビングを出た。
すると玄関のドアを開け、帰ってきた日向が詩織の顔を見るなり目を丸くして首を傾げる。
「——ただいま。さお……姉?」
「おかえり日向。って、あんたは分かろうか?」
「あぁ、しお姉か……」
「あぁって……髪とか見れば分かるだろうに。まったく、どんだけ人に興味ないんだ、弟よ」
姉の容姿すらうろ覚えで、ある意味偉大過ぎる日向を若干尊敬しそうになりつつも当初の沙織を探すという目的を果たすべく詩織は日向に背を向ける——
先ず詩織は沙織の足取りが途絶えた先程の場所に向かおうと意気込んでみたものの外は暑いからという合理的な理由でそれを諦め、先に家の中を徹底的に捜査しようと試みる。
「そもそも沙織は家に帰って来ているのか? だけど、あの急ぎ方は絶対に何かあるに違いない……」
「いいぞ、今日は冴えてる」と、たいした推理もしていないのに何が冴えているのか分からないが目を閉じ、顎をつまむように触れるとぶつぶつと気持ち悪い独り言を言い出した。
日向はぶつぶつと気持ち悪い独り言を言っている詩織を尻目に部屋に向かおうとすると、脱衣所からタオルを巻いただけのあられもない姿の沙織が出てきて、詩織を横目に小声で日向に話し掛ける。
「あ、日向くんおかえりなさい。なんかお姉ちゃんがぶつぶつ言っているのです? どうしたんです?」
「ただいま、さお姉。さぁ……暑いからじゃない? それよりお母さんいる?」
「まだ帰っていないと思うのです」
「そっか——って、服着てよ」
そう言って少し照れた感じの日向は部屋に入ってしまった。
そんな日向をかわいいなぁと思いつつ、沙織は詩織と共同で使っている二階の部屋まで、ピョンピョンと軽い身のこなしで階段を登って行く。
沙織が居たことすら気付かずに相変わらず無駄な推理をしている詩織だが、突然なにかが降りて来たかのように閃く。
くるりと振り向き玄関を見ると、そこには沙織の白いスニーカーが無造作に脱ぎ捨てられている事に気付き、同時に違和感を感じる。
服を脱いだら畳む、食事を済ませたら食器を洗う、そして靴も脱いだらちゃんと揃えるておく几帳面な沙織の靴が脱ぎ捨てられていることに一抹の不安を抱く。
これはなにか良くないことが起こっているのかと、険しい顔をして額に手を添えて考えていると、二階から着替えを終えた沙織が降りて来て詩織に話し掛ける。
「お姉ちゃん? 沙織は出かけてくるのです……さっきからなにをしてるのです?」
「あれ? えっ! 沙織どこにいたの?」
「シャワーを浴びていたのです。あ、沙織は急いでいるので行ってきますね——」
そう言うと詩織に行き先も告げずに沙織は出て行ってしまった。
普段はおっとりしている沙織が、いそいそと出掛けて行ったことに驚いた詩織もとりあえずシャワーでも浴びて、汗でベタベタになった身体を流そうと浴室に向かう。
——ピリリリリリリ ピリリリリリリ
するとリビングにある自宅の電話が鳴り出した為、詩織は仕方なく電話を取りに向かう——
詩織と沙織も中学生になったという理由で灯にスマホが欲しいとねだり、近い内に買ってもらう約束をしていたが、この時はまだ持っていなかった。
リビングに入り受話器に手を掛け、表示されている番号を見ると、それは見慣れた葵の自宅からの着信だった。
なんだろう、と思ったが心当たりもなかった詩織はとりあえず受話器を取る。
「——もしもし、葵? どしたの?」
「あっ、詩織? 沙織まだいる?」
「ん、まだ? さっき出掛けたけど――」
「そか、沙織に貸してたCD、持ってきてもらいたかったんだけどな……あ、でも詩織も来るでしょ?」
「え、あぁ……。ごめん、今日はちょっと」
「そか、わかった。じゃあまたね」
そう言って葵は電話を切ってしまった。詩織は咄嗟についた嘘の所為なのか、葵との会話の中で胸の奥底に何かわからない、鈍く小さな痛みと喉に僅かな苦しさを感じていた。
そして沙織と葵が、どこに行くのかと気になったが二人から行き先を聞きそびれた詩織はすぐさま葵に電話をかけ直す——
もう出掛けたか、と電話を切ろうとすると葵の母親が電話に出て「高校の近くの本屋に行く」と言って葵は出掛けたらしく、それを聞いた詩織は急いで二階の部屋に駆け上がり制服を脱ぎ捨てると、私服に着替えて家を飛び出した。
相変わらずの陽射しが嫌がらせのように着替えたばかりの服を濡らすが、葵との電話での胸の痛みと苦しさを振り払うように詩織は走った——
だが、その痛みと苦しみは和らぐどころか徐々に大きくなり詩織は、えも言われぬもどかしさに戸惑う。洋食店を通り過ぎ、布女まで来ると詩織は立ち止まって少し考える。
(——本屋の位置なら……橋の方が早いか)
――と、布女の西に位置する橋に向かって走り出す詩織。走りながら詩織は、なんで沙織は葵と出掛けるのに自分には何も言わなかったのか? 自分はこんな事をして一体なにがしたいのか? と不安や不服を募らせていた。
殆ど止まらずに走っていた詩織だが、この暑さと汗で濡れ纏わり付いた服に体力を奪われ、いつのまにか覚束ない足取りで歩いていた——
やがて橋が見えてきて、歩きで少し回復した体力を振り絞り走り出そうと意気込むが、橋の上のベンチに沙織と葵らしき人物が座っていることに気付く。
詩織は思わず近くの物陰に隠れ、その距離を詰めていく。
近くまで来るとその二人はやはり沙織と葵だった。だが、葵の照れているのか、困っているのか分からない曖昧な表情と、真剣な顔をした沙織が声を絞り出し、僅かに聞こえた「好き」という言葉で詩織はようやく沙織の行動を理解する。
『ドクンッ』——同時に詩織の鼓動が大きく高鳴る。その激しく高鳴った鼓動は、詩織の心を蝕み胸に大きな穴を開けたような苦痛を与える。
胸を押さえても治らないその苦しさは沙織ではなく葵から受けたものだと詩織はすぐに気付く。
いままで経験したことのない苦しくも辛い感覚。
小さい頃からいつも三人で遊んでいたから気付かなかったのか、一緒にいることが当たり前になっていたから分からなかったその感情は、三人一緒という均衡を崩した詩織以外の二人によって、葵に対しての特別な感情を詩織に認識させてしまった。
だが当然、詩織はその感情を理解している訳ではなく、幼馴染みの同性、延いては妹が好きであろう相手、という特殊すぎる状況に戸惑っていた。
詩織は自らの脚で知ってしまった感情と、知りたくなかった葵と沙織の事実を目の当たりにして、後悔と自分自身に対する愚かしさを感じ、その場を後にした。
家までの帰路、足取りも重く無気力に歩く詩織は色々な思いを巡らせる。
(——私、何がしたいんだろ……。私は、私はどうすればいいの)
考える程、無責任に苦しくなるだけの胸の痛みから解放されたいと詩織は自分でも思いがけない行動に出る。
「――うぁああああああああああああっ!」
胸の奥の違和感を吐き出し、どうにもならない考えを打ち消すように詩織は全身を使って叫んだ。
ちらほらと通りかかる人々。
驚いて足を止める人もいるが声をかけるでもなく、すぐに自分の目的を思い出したように歩き出す。
「バカみたい。ほんとにバカだ……私は——」
そう言った詩織の瞳から涙が零れる。それはこの苦しみには抗えないのかもしれないと知った詩織の気持ちそのものだった。