幕間 酩酊の狐と無慈悲な鬼
ある日の夕暮れ時、昼間の柔らかな日差しを与えてくれる太陽が、沈んでたまるかと言わんばかりに空と黄昏時の街を真っ赤に染め上げていた。
そんな真っ赤に染まった街並みにある大衆酒場。
食器のぶつかる音、慌ただしく行き交う店員、仕事終わりで浮かれる人々、そんなガヤガヤと活気のある空間を仕切る引き戸を開け、入ってきた二人の女性——。
先に入店してきた女性は、スタイルの良さと胸部の違和感を一見して分かるスリムなチェスターコートを身に纏い、もう一人の女性はモデルのような身の丈にデニムのジャケット、ダメージデザインのスキニーパンツに妙な威圧感を漂わせた佇まい、とおよそ一般人とは思えぬ雰囲気を醸し出していた。
その二人に気付いた女性店員がにこりと笑って手を振ると、上擦った笑顔を返して「二人」と指を二本立てて合図する威圧感のある女性。
二人は席に案内してくれる店員と馴れ親しんだように話しつつ、四人席のテーブルに案内され着席する。
二人席のテーブルも数卓あったが先客が座っていた為、仕方なくと冗談混じりに店員が言うと、「すみません」と言い恐縮した様子の胸に特徴のある女性。
案内を終えた店員が他の客に呼ばれると、おしぼりだけ置いて飲み物の注文もとらず呼ばれた客の方に行ってしまう。
馴染みだからか、この二人が先ず何を頼むのか分かっている様子だった。
一人は小さなショルダーバッグとコートを空いている席に置きテーブルに頬杖をつくと、もう一人は飼い主の気まぐれでお預けを食らっていたかのように、直ちにジャケットのポケットから煙草を取り出し火をつけた。
煙草を深く、長く吸い安堵の表情で歯を見せて笑うと、もう一人の女性は手をパタパタと煙たい様子で眉を下げる。
——暫く談笑していると、先程とは違う店員が注文もしていないのに中ジョッキのビールと、一回り大きい大ジョッキのビールを二人のテーブルに置き、その場にしゃがみ片膝を着いて注文を聞き始める。
すると煙草を吸っている女性がもう一人の女性に、「どうぞ」と手を差し出して注文を任せると、まだ手を付けてもいないのに大ジョッキのビールをもう一杯と芋焼酎のボトル、氷とグラス、焼き鳥盛り合わせ等々をいつも通りといった感じで頼んだ。
そんな注文にも動じずに煙草を消すと、直ぐさまもう一本取り出し火をつける。
注文を終えた女性はそんな様を見て、分かってはいるが呆れた様子で大ジョッキを持つと、もう一人の女性も煙草を咥えジョッキを手にする。
「お疲れー」「お疲れさまー!」
カチャンと心地よい音を上げ、ジョッキに付着していた水滴が弾け落ちる。
一口、二口と煙草を吸いながら程よいテンポで飲む女性に対し、もう一人の女性は大ジョッキのビールを置くこともなく流し込むように飲み干した。
煙草を吸い、灰皿にトントンと灰を落としもう一口飲むと、眉をしかめ咥えた煙草を上下しながら言う。
「まったく、いい飲みっぷりで」
口に手を添えて笑顔を見せる女性は飲み干したジョッキをテーブルの端に置き、注文したものがまだ来ないのかといった感じでそわそわしだす。
そんなに直ぐには来ないだろうと煙草を消しながら言うと、そわそわした女性は口惜しい感じでテーブルに手をついて口を開く。
「灯さんだっていい吸いっぷりですよー。というか吸い過ぎ、よって――ボッシュート!」
そう言って灯の煙草を取り上げ自分の手元に置くと、豊満な胸をテーブルに乗せるように前のめりになって両手で頬杖をついた。
そんな様子を目の当たりにした灯は引きつった笑みでその豊満な胸を見据えて言う。
「相変わらず無駄にでかい胸だなぁ。音々ぇ」
「無駄は余計ですよ、無駄は。それに大きくて困るモノでもないからねー」
チラッと灯の胸を見る音々。
それを見逃さなかった灯の手はジョッキをガタガタと震わせ怒りを抑えているようだった。
すると空気を読んだかのように席に案内してくれた馴染みの店員が注文の品を持ってきた。
灯は「アホくさ」とため息をついて音々の元にある煙草を取り上げ、一本取り出して深く吸うと天井に向けて煙を吐き出した。
音々は待ってましたと言わんばかりに待っていたビールを手にすると再び止まる事なく飲み干した。
馴染みの店員は不機嫌そうな灯の様子を見て、なにかを察したらしくやれやれといった感じで二人に話しかける。
「灯先輩も音々も今日は大人しく飲んでくださいよ? 前みたいの勘弁ですからね。今度、暴れたら出禁にしますんで!」
「こいつに——音々に言え」
「ははは……。今日は、大丈夫ですから。今日は……多分?」
「本当かなぁ」と女性店員は不安そうにお盆を胸に抱え場を和ませてると、別のテーブルに呼ばれいそいそとその場を去っていった。
音々は灯の飲みきったジョッキを自分の手元に下げると、なれた手つきでグラスに氷と焼酎、目分量で水を入れ、灯に水割りを作って渡した。
音々も自分のグラスに氷を入れると、何の迷いもなくドボドボと焼酎を注ぎこんでロックを作り、香りと味を楽しむ……事もなく一杯、また一杯と立て続けにそのか細い喉の奥に流しこんでいった。
お酒は好きでもそんなには飲めない灯だが、相変わらず煙草だけはテンポよく吸い続ける——。
酔うのは早いが出来上がってからが強い音々の酔いが回ったのか、そわそわしだし落ち着かない様子でグラスを空けた。
灯はそんな音々を気にかけて問いかける。
「ったく、落ち着けよ。急にどうした? トイレか?」
「うぅん、あおいよびたい。いいれしょ? あかりしゃん」
普段はそんな事ないが、音々は酔呂が回らなくなる程、酩酊してくると自分を慕ってくれる葵が可愛いくて仕方ないという理由でよく呼び出していた。
そんな音々を「またか」と呆れた様子の灯だったが、同じく葵を可愛がっている灯も音々の突飛な考えに便乗して少しだけ期待していた。
もちろん葵も音々に呼ばれたら嬉しくて飛んでくるといった、ちょっと都合のいい女になっていた。
音々は、酔いの回った拙いその手で徐ろにスマホをショルダーバッグの中から探すが、見つからないらしく中身をガサゴソと掻き回した挙句、中身を全部取り出しテーブルの上に並べた。
テーブルの上を見る限りスマホは見当たらずポリポリと頭を掻き口を尖らす音々。
「あかりしゃん! しゅまほない……かえして!」
「なんで私が取ったていだよ。上着のポケットとか見たのか?」
「みてらい!」
「いや、見ろよ……」
灯に言われるがままにコートを手に取りポケットを弄るが、見つからないようで音々は灯の顔を見て首を振る。
だが音々がコートを弄っている様子をジッと見ていた灯は、左のポケットに手を入れた瞬間、音々の表情が僅かに変わったのを見逃してはいなかった。
灯がコートをこっちに寄こせといった感じで手を差し出すと音々は焦りその左のポケットに手を入れとぼけた様子でスマホを取り出し灯に見せた。
「あかりしゃん! しゅまほいた!」
「はぁ」と、小さくため息をついて灯はまた煙草に手を伸ばすと音々に笑顔を見せて手招きをし、酔った音々は「なんだろう?」と、やっぱりとぼけた顔をして灯に顔を近づけた。
ガキンッ、とおよそデコピンのソレとはかけ離れた、非人道的且つ無慈悲な鈍い音が、小さな罪を犯した音々の可愛らしい額を射抜く。
すると、その可愛いらしくも艶っぽい音々の口は言葉を失い、可愛らしくも愛嬌のある飽和した表情を凍りつかせると、不眠続きで意識を失った漫画家のようにテーブルに勢いよく顔から落ちた。
灯は、そんな音々の様子を物ともせず煙草を深く吸い、手にしたグラスの氷をなだらかに回す。
「カランカラン」とグラスに当たる氷が優しく響くと、その音に反応した音々がむくりと顔を上げる。
音々はキョトンと目を丸くし、不思議そうな顔をして右を見て左と上、そしてテーブルの下を覗きこみ、グラスの焼酎を飲み干すと首を傾げて灯に問いかける。
「らんかり、しゅーげきしゃれた! あかりしゃんみらかったっ?」
傍から見たら最早、何を言ってるか分からないほど口の回っていない音々の問いかけに対し、灯は当たり前のようにその言葉を理解して答える。
「おぉ、見た見た。デニムのジャケット羽織ってて、背が高めだったか? 今、外に出てったぞ」
と、デニムのジャケットを羽織っている背が高めでその場に居る灯がしれっと言うと、音々は手に持っていたグラスを怒りに任せて握り締めた。
すると「パリンッ」と乾いた音を上げ、グラスが割れると、溶け溢れた水に導かれるように氷がテーブルの下に滑り落ちた。
そんな様子に動じる事なく、割れたグラスを握り締めた破片からは、音々の握力と血行の良くなった酔いに比例した出血が、真っ赤な絹糸のような美しさを紡ぎ出していた。
さすがの灯も痛々しく思ったのか、近くの店員に救急箱をとおしぼりを持ってくるようにと促す。
たががはずれたのか、それともネジが外れたのか、音々は痛みに染まった手をペロリと舐め唇に付いた血を気にする事なく、灯に向かってその可愛いらしい声を荒げる。
「れあえー、くしぇものだー! れきはほんろーちりありー」
「おいおい。いったん落ち着けよ、音々」
そんな灯の声が、ぶっ飛んでる音々のその可愛らしい耳に届くはずもなく千鳥足で店の外に出て行ってしまった。
「まったく」と灯は大きく溜め息をついて頭を掻くと、馴染みの店員を見つけ救急箱はもう必要無くなったと言って伝票を渡した。
灯は割ったグラスの代金と思しき分より大幅に上乗せした支払いをして、散らかしたテーブルを片付けるように店員にお願いすると駆け足で店を出て行った。
灯が出て行った後、馴染みの店員は多く支払われた料金と何を片付けるのかを疑問に思い、それまで二人が座っていたテーブルを見ると、割れたグラスに水と血液が拡がる不穏な光景を二度見、いや三度見か四度見か分からないほど素早く見て驚愕する。
「ええええええ——っ! なにごとっ!?」
——その後、彷徨う音々を捕獲し灯は救急で病院に連れて行こうとしたが傷もそんなに深そうではなかったので、近くの薬局で止血剤やガーゼ、包帯などを購入して手際よく治療をし、後日病院へ行くように促した。
結局、当初の目的である葵を呼ぶこともなく二人は音々の店で仲良く飲み直した。
——翌朝、目覚めた音々は飲み過ぎにより記憶を失くしていた。
「いつもの事か……」と、とりわけ気にも止めなかったが手当てされた手が気になり、灯に電話をすると「私がやった、感謝しろ」としか聞かされず結局、騒ぎの根幹である額の痛みの真相を音々は知る由もなかった。
——その日以来、例の大衆酒場周辺の妙な噂が布雪市内を駆け巡った。
その内容は『大禍時に酩酊した手負いの妖狐が人を喰らい口許から血を垂れ流し彷徨っていた』という噂だった……。
一休み、一休み。