五話 癒しの連鎖と狂える狐
詩織と葵は歩道橋を降り、高校の正門前より少し東側にある横断歩道を渡ると、その先にある民家の犬は、通行人に容赦なく吠えることである意味有名だった。
なるべく気づかれないように歩く二人だったが当然のように吠えられる。
そのけたたましい鳴き声から逃げるようにその場を走り去ると、目当ての洋食店が見えてきた。
『洋食喫茶 天鵞絨』
戸建の木造造りで古びた感じの立て看板、ショーウィンドウには食品サンプルが並ぶ昔ながらの洋食屋といった店構えのドアを開けると、どこか懐かしい鈴の音がした。
——カラン カラン
ノスタルジックなオレンジ色の光に包まれた店内に入ると、落ち着いた雰囲気のジャズミュージック。
香ばしく調理された合挽きハンバーグの匂いと、デミグラスソースの香りが店名の天鵞絨のように滑らかで心地の良い空間を作り出していた。
テーブルは三卓とカウンターに五席、小規模ながら客入りは良いようで、予約無しで入店すると待たされる事も時々あった。
家から近いということもあり、幼い頃から二人はよく訪れていた。
詩織達が、入店した時は客が帰った直後だったのか、テーブルには食器がまだ残されたままだった。
詩織は、店の奥のテーブルが空いているかを確認すると脇目も振らず真っ直ぐそこへ向かい、くるりと回って腰を落とす。
葵もいつもの席、詩織の向かいに腰を掛けた。
席に着くと、厨房の奥から出てきた顔馴染みで、学生時代は灯の後輩だったこの店の店主の音々が二人に気付く。
『茜 音々(三十四歳)』
目は可愛らしく垂れていて、髪は顔ほどの長さのふんわりソバージュ。細身で筋肉質だが豊満な胸がそのスタイルをより一層、引き立てていた。
家業の洋食店を昔から積極的に手伝っていた音々だが四年前に倒れた父の身を案じ、当時働いていた会社を辞め店を継ぐ決心をしたという。
今は父親の容態も良くなったらしく、母親と三人で営んでいるが、よほど忙しくない限り体力に自信のある音々がほとんどの仕事をこなす。
愛車は『アルファロメオGTA1300ジュニア』
特に車好きという訳ではないがこの車を初めて見た時に一目惚れをして購入を決意したらしい——が相当いい値段だったらしく、半ば脅し気味に値切り倒して、言い値で買ったという逸話がある。
そして音々自身、灯と共に葵に懐かれている一人でもある。
そんな音々だが、今日は疲れてる様子だった。
いそいそとお冷とおしぼりを木製のトレーに乗せて用意している。
その右手には、痛々しく包帯が巻かれているのが見え、それを見た詩織が慣れた感じで声をかける。
「手、どうしたの? 音々姉。なんかお疲れっぽいし? 私がマッサージしてあげようか? その豊満なお胸様を……ぐへへへ」
そう言って、ニヤニヤしながら指をにぎにぎする詩織。
「手? えーと……わからない。気付いたら怪我してた。あと詩織キモい」
二人は若干、苦笑しつつ思う。
(——分からないんだ)
「飲みに行くとよく怪我するからあんまり気にならないかなー。ってゆうか、お姉さんもう疲れちゃったよ。なんか二人一緒ってのも久しぶりだね?」
音々は、トレーからお冷とおしぼり、メニューを置いてその場に座り込む。
「こんばんは。音々ぇ、今まで氷海とお出掛けしてたんだけどね? 疲れたよぉ。外寒いし、お腹空いたぁ」
らしくない甘えた声で、葵はテーブルに俯せる。
「葵もお疲れだねー、よしよし。それじゃあ私は厨房入るから、注文決まったら……わかってるね? 詩織? あとキモい」
葵の頭を優しく撫で、そのまま厨房の奥に入って行く音々。
「ぐ、この扱いの差……。音々姉、許すまじ。そして葵あざカワ」
音々とは違い、詩織に対しては素に戻る葵。
「ねねねね言ってるからだよ。てか、氷海って冷めた扱いを求めてるから雑に扱われるんじゃないの? ドMだし?」
「あー、前は「あかねねねねぇね」だったからね。あれは、もはや自分でもなに言ってるか分からなかったし、なんかイタイ子に見られそうだったし、文字にしたらゲシュタルト崩壊しそうだったから譲歩して音々姉にしてあげたのにいったい何が不満なんだ! つか、冷めた扱いしていいのは葵だけだっ! そしてドにアクセントやめてっ!」
「うん、もう序盤からなに言ってるかわかんなかった」
もう冷めた態度どころか「この子、本当に大丈夫?」と思う葵に対し、ご褒美をもらった子供のように笑顔の詩織が注文を聞く。
「葵、何にする? 私、オムライスとアイスティー」
「私も、オムライス……とブレンドで、氷海さんゴー」
と言って、葵は厨房を指差す。
「はいはい」と立ち上がり当たり前のように厨房に入って行く詩織。
すると、葵のいる席まで聞こえるような声で注文しだした。
「オーダーでーす。オムライスをケチャップで二つとブレンド、アイスティーお願いしまーす! あっ! あと音々姉の優しさも追加で! よろしくねっ!」
それを聞いて、くすりと笑う葵。
注文を終え、そそくさと逃げるように詩織が戻ってくる。
「ただいま! なんかね、むちゃむちゃ睨まれた! てか葵、今日ログインする?」
「んー、どうだろ? 今日は多分しないかな?」
「そっか、じゃあ私も今日は控えめにしとこかな」
注文した料理ができるまでの時間、ゲームや学校の話をしていた二人。
しばらくすると厨房の方から料理を持って音々が来た。
「はーい、お待たせー!」
料理がテーブルに置かれると、それを見た詩織が顔をしかめる。
「ぐぬぬぬ、また子供じみた事を……つか、小学生か」
「おぉお? 可愛い! 音々ぇ、ありがとぉね!」
詩織のもとに置かれたオムライスには、トマトケチャップで「キモい」と書かれていた。
一方のオムライスには、ハートが書いてあり葵は喜んでいた。
すると詩織は注文したものが足りてないことに気付く。
「あれ? 音々姉、なんか忘れてない? 私、さっき「優しさもっ!」って注文したんだけど? あれれー、どこかなー? ちゃんと聞いてたのかなぁ? そんなだから、いまだに独身なんじゃないのかなー?」
独身という言葉に反応し、ピタリと動きが止まった音々の顔から表情が消えた。
すると、音々は左手を顔の前に掲げ、指をバキバキと鳴らしながら言う。
「ほう? だったら望み通り、優しさと慈愛に満ち溢れた、この終末の、えーと地獄の……爪? かっこウィークエンドオブ……キル? あ、ヘルズ……クロー! で天に送ってあげるんだからっ!」
なぜか語尾を高い声で可愛らしく、半ばやけくそ気味に言い放った音々に、詩織が呆れた様子で馬鹿にしたように突っ込む。
葵はそんなグダグダな音々を見て癒されていた。
「爪? じゃないよ! 爪? じゃ! んで、中二感満載だな。まったく近年稀に見る見切り発車だし、かっこはいらん。そして、最後あざとい」
さらに葵が口に両手を添えて、優しさという名の追い討ち——もとい、アドバイスをする。
「音々ぇー、あとね、ウィークもいらないよぉー。それじゃあ一週間の週末になっちゃうからぁ」
やっぱり余計なこと言わなければよかったと、思いつつぷるぷると笑いを堪える音々。
だが、使命感にかられた暗殺者のような狂気の炎はまだ消えていなかった。
まだ半笑いの気味の音々の掌が、詩織の顔に影を映す。
音々のただならぬ雰囲気を察して怯える詩織。
「あ、いや、ちょっと? ごめんね? まだ人間辞めちゃダメだって、ね? 音々姉? ちょ、ま、いやあぁぁぁぁぁぁぁ——」
笑いながらもかなり本気の音々の指は詩織の顔に触れると同時にその凶暴性を増した。
詩織の顔にがっつりとくいこんだその指からは、めりめりと音を立てているようだった。
その、めりめりされている詩織を見て葵は思う。
(乗るしかない……この茶番にっ!)
めりめりしているとみるみるうちに、音々の腕は筋張り手の甲からは青紫の血管が皮膚を破りそうな程張り出してきた。
「すると、音々の身体が激しく痙攣し悲壮な咆哮をあげる。痙攣と咆哮が止むと、身体からは白金の体毛、鋭利な鉤爪、太く雄々しい尻尾、金色の瞳に、大きく裂けた口。その姿は、この街に古くから伝わる狐の妖そのものだった。皮膚を裂き、肉を抉り、骨すら砕くような感覚すら覚える妖狐の鉤爪。その餌食となった贄の娘。もがけばもがく程喰い込んでいくその爪は、まるで罪人を穿つ断罪の楔。贄の娘は薄れゆく意識の中、足掻き踠いていると手の中に得体の知れないものを掴む。それはどこか優しく、春の日差しのように暖かく、それでいて懐かしい。これはもしや蜘蛛の糸? と無我夢中でそれを手繰り寄せるように握る娘。すると、顔を掴む鉤爪の力が緩んでゆくと同時に妖狐の変異が解けていき音々が正気を取り戻した。離れた掌の隙間から見えたそれは、音々の豊満な乳房だった。こうして彼女の顔は崩壊を免れたのだった」
噛まずに上手く言えたと言わんばかりに満足気な葵だったが、めりめりされながら葵の口上を聞いていた詩織は痛々しく顔を手で覆いながら騒ぎたてる。
「もー! そんな中二解説いいから早く助けてよ葵ぃ! 危うく顔、持っていかれそうになったじゃん! そしてオチひどいな」
中二的なノリが嫌いじゃない葵の興が乗ったのか、詩織の言い分を聞かずに続ける。
「こ、これが、あの見えざる鬼神と恐れられた灯ちゃんが化け物と一目置く、布女の狂える妖狐……お、恐ろしい。てか、音々の圧、ヤバかわ」
「まだ言うか……そして饒舌の葵がヤバかわだよ」
葵は以前、灯から聞いていた「音々だけは怒らせるな……。あいつは、女の皮を被った化け物だ」と言われた事を解説しながら思い出していた。
灯の話によると、音々がまだ布女の生徒だった時分の話——意中の彼と高校の近くに架かる橋の上のベンチで話していると五人組の男子校生に絡まれ、その彼と口論となり遂には五人の内の一人がその彼に殴りかかった。
すると音々は激昂し、口火を切った男の顔を掴み欄干に叩きつけ、残りの四人からの攻撃も華麗に躱し次々に川へ投げ落としたという。
その姿は狂ったように人間を咥えて投げ飛ばす妖狐のようだったと言ったとか、言わなかったとか……。
それ以来、『布女の狂える妖狐』という二つ名が本人の意思とは別に独り歩きしたという。
後日談として、その彼に告白したら「付き合ってる人がいるからごめん」と、ものの見事に振られてしまった。
だが彼のことを諦められなかった音々は、彼女と別れれば付き合ってくれるかもしれないと、歪んだ嫉妬全開でその彼女が何処の誰かを調べ、そして突き止めた。
件の彼女は同じ布女の三年で、空手部の主将をしていると知った音々は、その日の内に道場に乗り込み対戦を申し込んだ。
その主将は血の気が多い事で有名だった為、音々の申し出を快く受け入れて二人は空手部員が見守る中、対峙する事となった——
静まり返る道場。
二人の気迫が空気を震わせる中、先手を打ったのは主将だった。
——ゴッとまるで木槌で殴ったかのような打撃音が響き、上段蹴りが音々の左側頭部に直撃すると、返す刀で右側頭部に上段蹴りを打ち据えた。
意識が飛ぶ程の強打を受けた音々の身体が均衡を保てずにゆらりと揺れる。
一瞬の事で唖然としていた空手部員達だったが、音々の様子を見て「まずい」と思ったのか、その内の一人が音々に駆け寄った。
部員が音々に触れようとすると、音々はその手を掴み軽々と放り投げ、恐ろしい形相で口を開く。
「少し痛めつけるつもりだったけど……殺す」
「言うだけのことはあるね。私は三年の氷海灯、お前は?」
「……一年、茜音々」
「音々、打たれ強いだけじゃ私には勝てないよ」
「かもね――」
そう言うと同時に、わずか一歩で間合いを詰め灯の肩を掴むが、同時に掌打を顎に喰らい音々は膝をついた。
それでも耐えた音々はもう片方の肩を掴み、その勢いで体重を乗せた頭突きを灯の顎に見舞った。
まともに喰らった灯も体勢を崩すと、その隙を突いて音々は灯の額に何度も頭突きを打ち据える。
お互いの額が割れ、鮮血で顔は紅く染まると先程の灯の強打をまともに受けていた音々が出血により気を失い、顔から倒れこんだ——
灯は部員にタオルを濡らして持ってこいと促し倒れた音々を仰向けにして、突っつき声を掛ける。
「くそが、殺す気かよ、ったく。肩も上がらねえし。おい、音々。死んでたら返事しろ」
「…………」
しばらくしても反応しない音々に灯は後ろを振り返り冗談混じりに目を瞑り首を振るが、当然笑えるはずもない部員達は青ざめていた。
すると弱々しく灯の手を握る音々。
「…………だ、……ち」
「おい音々、はっきり喋れ」
そう言って音々の口を摘む灯。
「ちょも……だち、になれ……くしょばけおんが」
すると部員がタオルを持ってきて灯に手渡すと、音々の顔を拭いて答える。
「くそ化け物はお前だろうが。んで友達って私、一応先輩なんだけど?」
「知るか……この、灯」
「トドメ刺すぞ、このガキ……。まぁいいや、おもしろかったし。でも、さんくらいはつけろよ……音々」
「……うん」
「また、やろうなっ!」
そう言って灯は新しくできた友人に笑顔を見せたが、音々は腕で顔を隠し声を震わせて泣いていた。
——その後、音々は灯が彼女ではなく「あかり」という別人だと知ったが、そんな事はもうどうでもよくなっていた。
という音々の武勇伝を灯は楽しそうに……そう、とても楽しそうに、後日談の時はむしろ笑い過ぎてむせ返るほど苦しそうに話していた。
詩織は、こめかみの辺りをさすりながら音々の恐ろしさを痛感しているようだった。
痛みも引き落ち着いた様子の詩織は、ある疑問が頭に浮かぶ。
だが、その疑惑が事実だったら……と信じたくはなかったので少し遠回しに質問をする。
「ね、音々姉って、左利きだったっけ?」
音々は、少しやり過ぎたと反省してる様子で詩織に謝るが、同時に哀しいようでもあった。
「詩織、大丈夫? 一応、手加減したんだけどごめんね? ちなみに私、右利きだよ? って忘れちゃったか……」
それを聞いた詩織は以前一緒にいた時に聞いたことあったなぁと、思うと共に申し訳ない気持ちが込み上げていた。
(そうだ、私から聞いたんだ。あの日……)
すると、葵がオムライスを食べながら詩織に言う。
「むぐむぐ、んぐ……灯ちゃんが知る限りでは音々の握力70キロって、はむっ、いっへはほ? つおいお? そえ?」
食べながら話す行儀の悪い葵を見て、懐かしんでいる様子の詩織は一変して思う。
(葵さん、咀嚼萌え……か、かわいい……)
もぐもぐしてる葵に癒されて、もはや利き手なんてどうでもよくなっていた詩織。
「私、物心ついた時から筋トレが趣味みたいになってたからなぁ。それでも学生時代から灯さんには負け越してるんだよねぇ……あの鬼め——そんな事より葵は食べながら話さないの。詩織も早く食べちゃいなよー」
そう言って音々は、また厨房に戻って行った。
「はいはい」と食べる詩織だったが葵が知っていて自分が知らない事が、灯と葵の仲の良さを再認識できて少し嬉しかった。
ついでに自分の母親の恐ろしさも改めて再認識した詩織だった。
若干冷めてしまったオムライスを葵が食べきり、次いで詩織も食べきると音々が厨房から顔を出した。
「葵ぃー? 食器持ってきてくれるー?」
「はーい」と、葵はトレーを取りに行くと食器を手際よく纏めて厨房に持って行った。
暫く経っても、戻ってこないので厨房に行くと葵が溜まってた食器を洗っている。
それを見た詩織も、袖を捲り葵と一緒に食器を洗う。
粗方片付くと、音々がにこりと笑って二人に言う。
「おつかれぃ、バイトさん? 今日の賄いはさっきのオムライスって事でいいかな?」
「いやいやいや、ちゃんと払うよ! その為にお母さんからご飯代もらったんだもん」
申し訳なさそうに詩織が言うと、音々は腰に両手を当て似つかわしくないポーズをとる。
「たまにはお姉さんに格好つけさせなさいっ! だからまた来てね!」
そう言って二人の頭を両脇に抱えると、豊満な胸に埋もれた詩織達は少し苦しそうに、少し照れくさそうにしていた。
そして詩織は小さく呟く。
「この胸、許すまじ。そして、苦しい……」
音々の凶悪な胸と腕力の前になすすべない二人だが、それでも本人は手加減しているらしく可愛らしく笑っていた。
詩織は苦しそうにしているにも関わらず、なぜか葵は幸せそうな赤子のように甘えた声で、もごもごと嬉しそうにしていた。
音々は、ようやく二人を解放し詩織は逃げるように距離を取り、葵は手をパタパタと名残惜しそうにしていた。
——そして、二人は各々の思いに浸っていた。
(独身、ダメ!ゼッタイ!)
(音々の胸で召されたい——)