四話 浅い眠りと嘲笑う月
——布雪市立中央病院
病院に着き、エントランスに入ったところで詩織が立ち止まる。
「えーと、財布、財布ー——っと、あったあった」
診察券と保険証が入った財布を、鞄から取り出し、ロビーへ続く自動ドアのボタンを押す——
病院特有の匂い、まばらな人、看護師の足音。
普段は騒がしい詩織だが、この物静かな病院にいる時はかなり抑え気味の声で話していた。
そんな詩織につられて葵も、声量を合わせて話す。
「ちょっと待ってて」とそのまま受付へ行くと、度々会う受付のお姉さんと話し始めた。
葵は入り口近くの長椅子に腰掛け、眠そうに小さく欠伸をかく。
カバンから文庫本を取り出し、黙々と読み始めるが瞼が重くなり、気を抜いたら眠りに落ちてしまいそうだった。
程なくして戻ってきた詩織が長椅子に腰掛ける。
「受付の人となに話してたの?」
——頁をめくり、葵が聞く。
「ん? 二人仲良いねって。あと私と葵の馴れ初めかな?」
詩織は診察室へ行くからと、カバンを葵に預け立ち上がる——
「そっか。で、いつから私と氷海は夫婦になったのかな?」
「んー?」と、人差し指に顎を乗せ、からかうような仕草する詩織。
振り返り笑顔を見せて、そのまま診察室へつながる通りに消えて行った——
鼻で溜め息をつく葵。読み止めたところを指で探す。
再び黙々と読み始めたが、葵はうなだれるように眠りに落ちていった——
詩織の診察は、毎回問診だけだったので時間にして十分といったところだったが、今日は待ち時間を含め一時間近くかかった。
(今日は、雑貨屋はお預けかなぁ……)
診察を終え、通りからロビーへ出たところで葵が寝ている事に気付く。
反対側を見ると受付のお姉さんが「しー」と鼻に指を当てていたので、会計までの時間をお姉さんと話していた。
ひと通り済ませて葵の元に戻り、そっと隣に腰掛ける——
近くにいるとその寝息で、かなり深い眠りだと分かる。
(——葵さーん……終わりましたよぉ?)
心の中で呟くと葵の頭がゆらりと詩織の肩にもたれ掛かる。それでも葵が起きる気配はない。
さらりと、垂れた髪から覗く唇。その髪の香り。
詩織も葵に寄り添い、瞳をとじて小さく囁く。
「——私ね……。葵のこと好きなんだ」
一瞬、時間が止まったような感覚と静けさが詩織を包んだ。
すると、目をこすり眠りから覚めた葵が、かすれた声で言う。
「——ん、んんん、ごめん……。いつのまにか落ちてた」
「おはよ葵。こちらこそ遅くなってごめんね」
袖をめくり腕時計を見る——そして結構な時間寝ていたんだと葵は少し驚いた様子だった。
「もうこんな時間か……。雑貨屋はまた今度かな」
残念そうに葵が言うと、申し訳ないといった様子の詩織。
「うぅ、すまぬー。また行くとき付き合うから」
「もちろん、そのつもりだけど?」
「——うん」と詩織は笑顔で頷き、二人は病院を出て帰路に就く。
冬の日没が早いとはいえ、随分薄暗い空。
沈みきらない太陽で真っ赤に染まった西の山脈からは、炎の柱が燃え上がっているようにも見えた。
「家に着く頃には、真っ暗かなぁ」
空を見上げた詩織が、まだ疎な星を指先でなぞる——
「だね、お腹も空いてきたし早く帰ろ?」
遠くの弁当屋の看板が目についた葵。
それを聞いた詩織は朝、灯に言われたことを思い出して指先を葵に向ける——
「ねぇ、ご飯食べ行かない? 葵と行って来いって、母上から褒美を賜ったのです! てか行かなきゃ私が怒られるし、帰っても夕飯ない……」
本来なら葵が自分の母親に外で食べてくると連絡をするのだが、こういう時は大抵詩織がその旨を伝えてると分かっていた。
たとえ伝えてないとしても、葵に聞く前にその場で連絡するのが詩織だった。
「ふふ、灯ちゃんらしいね。それじゃ、遠慮なくご馳走になろうかな?」
「是非もなし! 我らの腹を満たすべくいざ行かん!」
詩織は、采配を振るう将のごとく右手を正面に振りかざす——すると珍しく葵が乗ってきた。
笛を吹くような仕草をする葵を見て詩織は、意外すぎて呆気に取られそうになったが、怖いもの見たさでなんとか堪えた。
「——ぶおぉぉ、ぶおぉぉぉぉ」
「なにそれ? ミノタウロスの鳴き真似?」
「いやいや、法螺貝だよ。せっかく乗ったらこれだもんなー」
以前、詩織の家族と外食を共にした葵は、遠慮がちにしていたら灯に本気で怒られたという経緯がある。
もちろん灯も気分で怒っていた訳ではなく、葵を我が娘のように可愛がっていたからだった。
それ以来、葵の頭には「遠慮は恐怖」と極端な縮図が植え付けられ、気付けば名前で呼び合う仲になっていた。
二人は帰りながらどこに入るか、なにが食べたいか相談しながら歩いていたが、家の近所にある馴染みの洋食店がいいとお互い意見が合った為、そこへ向かうことにした。
幹線道路に出ると、都会とも田舎とも言えない街並みに明かりがちらほらと輝いている。
この中途半端な街並みを、二人は割と気に入っていた。
——学校まで差し掛かり、周囲を囲む道路に出る。その道路にかかる歩道橋の袂まで来ると、帰り道でもないのに詩織が登りたいと言い出した。
空腹と時間を気にしていたが、すぐ戻ることを条件とし葵は渋々了承をする。
だがグラウンドでの疾走が効いているのか、詩織の脚は明らかに重そうだった。
「——ぬぉぉ、階段きっつい……。はぁ、はぁ、先の殿戦での矢傷が疼きやがる」
「ん、完全に自業自得だね。てか、氷海ってそんなに体力なかったっけ?」
「こんなはずではなかったんだが……。まぁ、学校行ってないときは、ほぼ部屋に立て籠もってますからね。こんなんで無尽蔵に体力あったら運動部の連中にやっかまれるよ。そもそも、なんでこんな高い造りになってんだ! お年寄りに優しくないぞ! 日本政府の陰謀かっ!? はっ! ま、まさか、神の試練なのか? ごくり——」
「ごくり、じゃないよ。あと引きこもりね? まぁ、それだけ喋れれば平気そうだね。ほら、肩捕まって——」
「うぅ——かたじけない……」
その歩道橋の階段は螺旋状に三周しており、意図は分からないが無駄に高い造りになっていて歩道部分の中央は円形、その中心にある台座には女性のオブジェが座っていた。
詩織は、葵の肩を借り足を揃え登っていると予期せぬ突風が吹いた——
風になびいた葵の髪が、詩織の頬をくすぐる。
ふと、病院でのことを思い出した詩織の顔つきは、心なしか晴れやかな表情をしていた。
「よし着いたっと。氷海、平気?」
「うん、ありが……と! っと——」
階段を登りきり両足でタンっと着地すると、中央の円形部分まで両手を広げて駆けて行く詩織——
つい今しがた、苦しそうな顔をしていた人間とは思えない程、軽やかな足取りだった。
らしいと言えばらしいと、微笑む葵。
「あっ! 葵、見て見て! 三日月! 綺麗だねー」
「そう? 三日月ってなんか嘲笑ってるみたいで不気味じゃない?」
「葵さんは、クールを通り越してやさぐれてますね。うん」
二人は暫くの間、星空に浮かぶ三日月を無言で見上げていた——
詩織は見上げている葵の横顔を、気付かれないように横目で見ると鼓動が少し高鳴った気がした。
そして少し勢いをつけて葵の肩に寄りかかる。
しかし、思ったより強く当たり驚く葵。
「——痛っ、どうしたの氷海?」
「んー、べっつにー。じゃあそろそろ行こっか?」
少しムッとした様子の葵だったが、詩織に悪気が無いことは分かっていたので取り分け気にもしなかった。
階段を降りながら詩織はお腹をさすり、葵に言う。
「今日は、むちゃむちゃ走ったからいっぱい食べれそうだな。うん」
「だろうね」
葵の冷めた感じの一言を聞いて、詩織は嬉しそうに言う。
「その一言でお腹いっぱいになるね」
「——そか」