三話 早朝の受難と五月雨の少女
乾いた冬の陽射し。当たり前のような雀の鳴き声が心地良い早朝。
寒さに震え、布団を首に巻いてミノムシのように丸まって欠伸をかく詩織。
虚ろな眼で見たデジタル温湿度計は−2℃。
目覚ましが鳴るより早く起きたのはいいが、月曜の朝となれば休日のそれとは違い、なかなか布団が逃してはくれない。
ついでに寒さも後押ししてくれるという好待遇。
環境に素直で正直な頭と身体と褒めてやりたいが、心を鬼にして布団から出る……出ない。
——ッジリリリリリリリリリリリリリリ
痺れを切らしたかのように目覚まし時計が、けたたましく鳴り響く。
詩織は朝が弱いと自覚しているという事もあり、立ち上がらなければ届かない位置に目覚まし時計を置く習慣があった。
そして、その習慣は毎朝恒例の後悔となる。
このまま枕でも投げて、その空気も読めないハタ迷惑な時計畜生の息の根を止めてやろうと考えるが、そんな事をすれば詩織自身が灯に息の根を止められかねないので、慈悲の心でこれを許す。
どんな人間もそうだと思うが、一度起きてしまえばなんてことはないのである。
愛と勇気と強靭な精神力を兼ね備え、且つ眠気と寒さに討ち勝った者だけが得られる物。
それが優越感と登校への扉を開く鍵なのだ。
正直な話、そんなに要らないのである。
二度寝もできないくらい目が覚めてしまった詩織もようやく布団を出て、目覚ましをちょっと強めに——かなり憎らしく止める。
すると玄関のドアが閉まる音で日向が出掛けたと察した詩織は少し焦り呟く。
「日向くーん、出るの早すぎじゃないか?」
とりあえず暖をとらなければ凍えてしまうと、ヒーターのスイッチを押す。
しかし、無慈悲な暖房器具は絶望と終末を告げるかのように給油の警告音を鳴らし震える詩織は絶句する。
だが完全に覚醒した詩織の精神力は、その無慈悲で薄汚い、悪の手先ともいうべき暖房器具に屈することはない。
まず詩織は、制服を手に取りカバンを持ちその他諸々をその貧弱な胸に抱えると秘奥義と言わんばかりに日向の部屋に向かう。
そして、日向の部屋に入るとヒーターのスイッチを風林火山よろしく、疾きこと風の如く押したのだ。
「お姉ちゃんの部屋入ったらシバく」と、絶対に入らないであろう日向に言っているあの詩織がだ!
ここまで詩織と日向の間にそんなやりとりは記述してないが、姉と弟の間でよくありそうなベタなやりとりだからこそ想像にお任せしたのであって、決して後付けなどではない……その詩織がだ!
これは由々しき事態である。こんな事が許されるのだろうか。
読書様、並びに関係者各位に菓子折りの一つでも持ってお詫びしなければ収集がつかないかもしれない。
だが! それは面倒く……不可能だ!
そして、よく考えたら被害者は日向だけであって、その本人も今はここには居ないのだから。
そんな日向が出掛けた後の温かさが残る部屋で、詩織はヒーターを発明したヒーターさんに感謝しつつ着替えを終え、日向の部屋を後にする。
すると、リビングの方からトーストのいい香りがしたので、詩織は香りに誘われるようにリビングに入る。
「おはよー」と灯に挨拶をした詩織は、突然ブツブツと独り言を呟き始める。
「ここで、感のいい読書様なら早朝、トースト、登校とくればアニメや漫画の第一話のアレか……となると思いますが、私は寝坊する程遅れてはいないし、そんなベタな事はしたくないので、遅刻したとしてものんびりと朝食を食べます」
その様子を見た灯は詩織に冷たい視線を送る。
そして、あいも変わらず煙草を吸ってる灯がベーコンエッグを焼いていたので、詩織は灯と自分のティーカップを取り出し、紅茶を淹れて朝食の支度を待っていた。
「ここで、感のいい読書様ならトースト、ベーコンエッグとくれば天空の城ラピュ——」
「お前、さっきからなにブツブツ言ってんだ? 早く食って出掛けろよ」
紅茶を飲みながら「こいつ、大丈夫か?」といった様子で灯が首を傾げる。
そんなこんなで朝食を食べ、一通り準備を済ませてリビングを出る詩織。
「いってきまーす!」
首に掛けたマフラーの端を肩の後ろに投げ、いそいそと靴を履いていると、台所から灯が慌てた様子で詩織を呼び止める。
「詩織ぃ、今日病院だっけ? 金あるか?」
「あるよー、足りなかったらツケてもらうから平気! うん」
そう言って頷くが、灯は財布の中から一万円を取り出して詩織に渡した。
「場末のスナックかよ。ほら、それだけあれば平気だろ」
「あれ、なんか多くない? あっ! いつも良い子で素敵な愛娘に癒されてる母上からの献上品とか?」
ニコニコとまるで同意を求めているような笑顔の詩織に呆れて頭を掻く灯。
「我が娘ながら見事にアホだな。それで葵ちゃんと飯でも食ってこいアホ」
灯は今晩、日向を連れて用事があるからと夕飯の食事代も持たせた。
そして灯に「行ってきます!」と敬礼して家を出ると軽快な足取りで近くの葵の家まで駆けていき、門に据え付いたチャイムを鳴らす。
「はぁー」と両手に息を吹きかけて、身震いしながら足踏みをしていると玄関のドアが開き、葵の母親が出てきた。
「おはよーおばさん、寒いぃー」
「おはよう、しおちゃん。今日も寒いわねぇ、あ、葵ならついさっき出掛けたわよ?」
いつものことだ、と詩織は唇を尖らせる。
「おばさん今日、葵とご飯行くから借りるねー」
「行ってきます」と葵の母親に手を振り、通学路を程よい速さで駆けて行く。
もう着いたのかな? と軽く流すようになる頃、遠くの方に葵らしき姿が目についた。
高校をぐるりと囲む道路の横断歩道で、信号待ちをしている見慣れた背中が腕時計を見ている。
「おはよー、葵! なんで先に行っちゃうのー」
「ん? あー、おはよー氷海。てか、学校と逆方向なんだから普通は氷海さんが呼びに来るべきでは?」
「行ったよ」と言いかけたが少し遅かったのは違いなかったので飲み込んだ——。
そして、腰の後ろで手を組み思い出したように詩織はゲームの音楽を口ずさむ。
葵は不思議そうな顔で詩織の顔を見つめる。
「どしたの? なんか嬉しそう」
「今晩は母上がいないのですよ、きひひ」
不敵な笑みを浮かべる詩織。
信号が変わり、歩き始めた群衆に押し出されるように歩みを進める。
灯が居ないとなぜ嬉しいのか? と葵は疑問に思う。
「ケンカでもしたの? てか、灯ちゃんのこと嫌いなの?」
「してないし、嫌いじゃないよ? むしろ好き、いや大好き。でもたまに親いないとか、なんかテンション上がらない?」
「ん、まぁ、わかるかな」
納得している様子の葵に、思い出したかのように詩織が問いかける。
「葵って自分の親のことなんて呼んでたっけ?」
「お父さん、お母さんだよ。なんで?」
うーん? ともやもやした表情で考えている間に詩織と葵は教室に着いた。
ドアを開けると二人の女生徒が気付き、詩織達と視線を合わせる。
一人は、机の上に脚を組んで座り、微笑みながら小さく手を振っている。
『月小路・フレイヤ・五月』
ブロンドのポニーテールに碧瞳と、見た目通りハーフの美少女。
しかし、あるクラスメイトによると「変装してBL同人誌を大量に買い込んでいた」という噂がまことしやかに囁かれている腐女子(疑惑)でもある。親はかなりの資産家。
詩織達に背中を向けて振り返っているもう一人の女生徒。
『野間 時雨』
赤黒く長い前髪が片目を覆い、そんないかにもな見た目で一人称は「俺」とかなりベタな存在。一見したら五月とは男女のカップルのように見えるが、彼氏を標準装備しているリア充で、その付き合いも長いらしい。
目つきはきついが大人びた雰囲気の美少女。
そんな二人に気付いた詩織も大き過ぎる声で五月と時雨に挨拶をする。
「五月雨姉妹、おっはよー!」
前に詩織がノリで付けた通称だったが定着はしていない。確かに時雨とは仲が良い五月だが詩織のネーミングセンスが気に入らないようだった。
二人も、詩織と葵に挨拶をすると五月は詩織を見つめて物腰柔らかく言い返す。
「氷海ちゃん、その呼び方やめてってお願いしたよ? 漫才のコンビみたいで恥ずかしいでしょ? あと姉妹でもないからネ?」
「息もあってるし、以外といけそうじゃない? 美人JK漫才コンビ……うん、あるね」
——と返す葵に対して、今度は詩織が五月を横目に葵に指摘する。
「時雨さん? フレイヤちゃん目が怖いんだが……。つか葵は『美人JK漫才コンビ』が言いたいだけでしょ? 」
「うん」と素直に頷く葵に対して、時雨が乗ってきた。
「それを言ったら、あんたらのが息が合ってるでしょ? 少なくとも俺は一緒じゃないとこ見たことないし」
「いやいや、私は子守り役だから。それに氷海って影響されやすいから、すぐキャラ崩壊するしついて行くの大変なんですよ?」
ムッとした詩織がすかさず反論する。
「いやいやいやいや、葵がいなくても私は一人でも立派に生きていけるからね! ね! ……あ、いや、ちょっと待って、いける? かなぁ。でも、やっぱ無理かも、うん無理」
なんだかんだ言って仲がいいなぁと、五月雨が苦笑し、それを聞いた葵は、じーっと睨んでいた目を丸くして頬を緩める。
葵は照れた様子を気付かれないように、そっぽを向いて自分の席に座ると、図ったようにチャイムが鳴る。
そして、詩織達も慌てて自分の席に座った。
しばらくするとドアが開き、担任の女教師が入ってきた。
『鯵澤 楓(二十八歳)』
面倒くさがりな性格で生活はだらしなく、当然恋愛などとは無縁の干物女だが、苗字の所為でただの「干物」と陰で呼ばれているちょっと可哀想な女性。
鯵澤は、ぽりぽりと頭を掻き眠そうに欠伸をかきながら教壇に立つと面倒くさそうに出席を取り始める。
そして、教室にいた何人かが思う。
(挨拶は……てか、号令しないのか……)
そんな鯵澤のグダグダなホームルームを終え、変わり映えしない時間が過ぎて行く。
黙々と、授業に臨む葵。時折、左後ろを振り返ると見慣れた光景だが、窓際の詩織は頬杖をついてよく空を眺めている。
そんな詩織だが、一応授業は聞いているようでノートもしっかりとっている。
いつとっているのかと疑問に思っていたが、とらないよりはと聞くこともせず気にしないでいた。
葵がそんなことを考えているとも知らず、詩織は僅かに戸惑い表情を曇らす。
(月一とはいえ、病院遠いし悪いよね……)
無意識に独り言を呟く。灯にも金銭的に申し訳ないと思っているがその本人は「子供に助けてもらうほど落ちぶれちゃいない」と以前バイトしようとした時に言われていた。
うなだれて髪を掻いていると、教室が騒めきだし一日の授業があと数分で終わることに気づく。
——カーーーーーーン カーーーーーーン
勿体ぶったように鐘が鳴り響くと、一斉に床と椅子が悲鳴をあげて騒ぎ出す。
グループで集まる者、部活に行く者、本を取り出し読み始める者。
その中で、葵はすぐさま立ち上がりそれに驚いた詩織の手を引く。五月雨やクラスメートに別れを告げて、喧騒の中を早々に立ち去る。
唐突な葵の行動に戸惑いつつ詩織が問いかける。
「どうしたの? 葵。今朝のこと怒ってる?」
葵は振り返り詩織の手を離してにこりと笑う。
「少しね。でも嬉しかったから許してあげよう」
その表情に安心し、詩織は葵に笑みを返して言う。
「よかった、私もごめ、————いたかったので——」
途端に詩織の指先が意図せずピクリと動き、ほんの一瞬言葉が詰まる。そして詩織とは僅かに違う声が葵の顔色を変えた。
その小さな異変を感じ取った葵は「まさか」と不安を募らせ恐る恐る歩み寄る。
「ひ、氷海? ねぇ——」
目を擦り、二、三度大きく瞬きをした詩織がにこりと笑い弱々しく言う。
「ん、大丈夫、大丈夫。よし、それじゃ行こっか」
「思い過ごしか……」と呟いた葵の無意識に作った安堵の表情は、どこか憂いを帯びているようにも見えた。
正門とは反対の方角に位置する病院へ向かう為、グラウンドの脇を通りつつ部活動に勤しむ生徒たちを横目で見ながら詩織が葵に問いかける。
「この寒いのに頑張ってますねぇ。てか、葵って入りたい部活とかないの? 今更だけど」
「私、勝負事とか向いてないからなぁ。あと、本当に今更だから」
「だよねぇ。いきなり先輩、後輩がいるところに放り込まれ……うぅ、居場所なさそう」
そんなことを想像していた二人の元に、陸上部の友人が詩織の事をからかいに来た。
彼女は、すぐさまその場を走り去ると詩織は「まれこなー!」とよくわからない叫びと、砂煙を上げながら走って行った。が当然、追いつく筈もない。
本気で走っていた詩織は、遠くの方で両膝に手をつきゼエゼエと息を切らしていた。
呼吸を整えている詩織に、心配した様子で葵が駆け寄る。
「ちょっと、大丈夫? ムキになり過ぎじゃない?」
「ちょっと待って。はぁ、はぁ……こ、これはダメなやつだ」
詩織が落ち着くまで葵は暫く待っていると、肩で息する程度にまでなった詩織は振り返り、親指を前に突き出した。
「よし、生きてる! それじゃ行こっか?」
「行こっかじゃないっ! 心配するでしょ!」
安心したと同時に怒りが込み上げてきた葵が、意外にも声を荒げる。必要以上に怒っていたのかも知れないが、葵はある事を危惧していた。詩織の身体に起こり得る変化、何とも知れない契機を——。
先に行ってしまった葵を追いかけ、制服の裾をつまむ。
「——ごめん……葵」
詩織の方は、本当に意外にも落ち込んでいた。
「平気ならいいんだよ……。ただあまり心配させないで」
そう言って葵は制服に付いた砂埃を払うと、詩織と共に再び歩き出す。
そして二人はグラウンドの古びた金網の扉を出て、病院へ行くため幹線道路へ向かう。
口数が少ないながらも話していたが、重い空気を変えるために葵が昨晩の事を話し始める。
「そういえば昨日、うちのギルドに新メンバーが入ったんだよ。……女の子の」
「なぬ? ど、どんな人だった?」
「カナタっていう人で例のPTの一人なんだけど、なんでギルド抜けたんだろ?」
「——かなた?(どっかで……)。あ、それって傭兵じゃない? 難しめのコンテンツの手伝いとかで、一時的に加入してたとか? んで、メインジョブはなんだったの?」
そこそこ肝心な事を聞き忘れてた葵は、申し訳なさそうに答える。
「聞くの忘れちゃった……。でもダークエルフだったから魔法特化のDPS、攻撃寄りのヒーラー辺り? タンクはなさそうかな?」
「そっか、まぁ違くても私がタンクやるかな! 前からBDKでタンクやろうと思ってたし、葵のおもしろヒーラー転身させるのも惜しいし?」
「あぁ、はいはい。どうせ私は脳筋戦犯ヘボヒーラーですよー」
葵の顔を覗き込みながら詩織が得意げな顔をしていると、それに気付いた葵は眉間にシワを寄せ、合わせたように二人は大笑いした。
グラウンドでの詩織の謎の叫びが、今になってツボに入り、会話の中で葵は何度も思い出し笑いをしていた。
そんな葵を見て詩織が問いかける。
「さっきから笑ってるけど、どしたの葵? さすがの私も引くよ?」
「え? あぁ。さっき走ってた時なんて言ってたの? まれこな? とか言ってなかった?」
詩織は少し考えた後に「待てこらー」と言おうとしたら、砂埃が口に入ったからだと葵に説明する。
それからも、しつこいくらいに葵は思い出しては笑いと繰り返していた。
病院に着く頃には詩織は先程の疾走もあり歩き疲れ、葵は笑い疲れてヘトヘトだった。