九話 盛夏の対峙と消えた灯火
謎のバトルパートです
夕刻も近づき、憂いを帯びたひぐらしの鳴き声が響きわたると、夏の暑さも和らぐような風が吹いた。
洋食店を出た詩織は歳相応の笑顔で家路を軽快に歩いて行くが、ふと立ち止まり微かに赤みを帯びた空の境界に目を向ける——
そして先程の音々との甘美な時間を思い出し、身体を揺らしてにやけだす。だが、次第ににやけた笑い顔が真顔になり、遂には青褪めて引きつる詩織の顔。
『音々……エッチなことしよ——』
静かに顔を覆い固まる詩織。見えない顔の下で詩織は、その場の雰囲気とはいえ中学生ながらに音々に囁いた時の事を思い出す。
音々ならきっと「受け入れてくれる」だろうと……いや「受け入れる」だろうと勝手に思い込み言った一言。
そして、大した覚悟もなく自信満々に言って断られた氷海詩織(中学二年生)。
このあまりにも恥ずかしい出来事に「この度は多くの方々にご迷惑をかけてしまい、誠に申し訳ありませんでした」と、別に多くの人が迷惑なんて思っていないのに、この世の終わりみたいな顔をした芸能人の謝罪記者会見のように、誰に対してでもなく深々と頭を下げる詩織。
それに伴い、今後このような事が無いようにと、この忌まわしい人生初の黒歴史を心の備忘録に深く刻む詩織だった——
顔を上げ、生まれ変わったように吹っ切れたその顔はとても爽やかだった。
詩織は再び歩き出し、そして考える。
(なんであんなこと言ったんだ、私は——)
全然、吹っ切れてなかった。
(バカか? 私はバカなのか? 中二だぞ?)
灯が聞いたらきっと「バカでアホだ、そして中二だ」とでも言うだろう。
そして音々が聞いたらきっと「バカだけど、私は好きだよ」とでも言うだろう。
さらに葵が聞いたら「そうだね」と。
そう、実はこの詩織という少女、周りの人間が口を揃えて「詩織だから……」と諦められている可哀想な子なのだ。
その詩織は今にも泣き出しそうな声を漏らす。
「死にたい。誰か助けて……」
どっちなの? と思わせる支離滅裂なことを言い、若干のメンヘラを発動させる詩織は、通りすがった親子連れの母親に縋り付き懇願する。
「旅のお方! どうか、どうか私を殴ってください!」
その母親はどこの誰とも知らない詩織に泣き付かれて、当然だが困惑していた。
すると背後から音々の声がした——
「詩織ー、ヘアピン忘れてったでしょー?」
「げっ!」とネタ元の音々の声に反応して振り向くと同時に小さな拳が詩織の後頭部をかすめた。
音々は慌てて詩織の手を引き、母親から引き剥がして距離を取った。
その母親は驚く事もなく深く溜め息をついて言う。
「大丈夫? この子は、まったく……ごめんなさいね」
詩織は少年が殴りかかった事に気付いておらず音々の目線を辿り、少年に目を向けた。
その少年、容姿から察するに歳は詩織と同じくらいだろうか、顔つきは辛うじて男子と分かる程、可愛らしいのだが何処か禍々しい雰囲気を漂わせていた。
そして冷めた表情の少年は口を開く。
「僕のお義母さんに、触らないでください。痛い目に……合いたくなかったら」
その言葉にそぐわない綺麗な声は、高い湿度を払うように辺り一面に心地よく澄みわたる。
そんな声を聞いた詩織と音々は、目を合わせ混乱した様子で思う。
(――女の子?)
名前を聞けば分かるだろうと、詩織は少年に問い掛ける。
「君、名前なんていうの?」
「そんな事はどうでもいいじゃないですか」
詩織は、急激に頭に血が上って食い下がる。
「名前くらい教えてよ。つーか教えろっ! ……あ、私は詩織だよ? 詩織だよっ!」
音々と少年の母親は思う。
(なんか怒ってるし、聞こえてるよ?)
少年はムキになってる詩織を哀れに思ったのか止む無く名乗る。
「彼方です。これでいいですか?」
詩織と音々は思う。
(えーと……どっち?)
もうどっちでもいいや、と面倒になった詩織に対して彼方はまだ怒っていた。
事情を知らない音々は、来て早々に軽い修羅場になっていた事の顛末を母親に問い掛ける。
「そもそもなにがあったんですか? この娘がなにかしたとか?」
「いえ、急に私に「殴ってください」って泣き付かれて……。うちの子、他人が私に触れるとキレる? っていう感じになるんですよ」
「ふんふん、なるほどね……でもキレてるなら止めなきゃじゃないですか? 危ないし」
「そうなんですけど、怖くて……。この子こうなると私の言うことも聞こえないみたいで」
「そもそも詩織は、どうしてそうなった?」
音々の方を向き、詩織は自分を指差し首を傾げる。そんな様子を見て音々は溜め息をつき詩織にヘアピンを渡すと、彼方の前にしゃがみ込んだ。
「彼方君、ごめんね? こんなでもいい娘だからさ、仲良くしてあげてね?」
そう言い音々は、店に戻るからと彼方の頭を撫で、母親にお辞儀をして帰って行った。
詩織は音々の背中を見て、彼方を撫でた事にヤキモチを焼いて思う。
(むぅ……今度会ったらお仕置きだからね!)
頬っぺたを膨らませて腕を組み、いかにもな怒り方をしている詩織。
そんな姿を見て、母親が詩織の頭に手を置き優しく問い掛ける。
「なにか嫌なことでもあったの? えーと、詩織ちゃん?」
「いえ、嫌なことなんて……どっちかって言ったらいいこと——うん、いい……こ、と」
再び蘇る忌まわしき迷言。
「ぬあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ——殺せぇぇ! 誰か私を殺してくれぇぇぇ!」
悶え死ぬと言わんばかりに頭を抱え、身体をくねらせる詩織。
ジャリッ——
踏み込む音が聞こえると同時に、彼方の動きに反応した詩織が横に避けると、見た目からは想像もつかない鋭い蹴りが、腹部の辺りをかすめた。
「——ちょっ、危なっ! でもこの華麗な身のこなし……私、カッコいいんじゃない?」
「触るなって言いましたよね?」
「いや、触られたの間違いでしょ? でも、少し頭に来てしまったかも」
彼方の攻撃に然しもの詩織も精悍な面構えになり身体を解す。そして重心を後ろに置き、独特に構える。
「——私、空手やってるの」
どちらかといえば「やっていた」が正しいのである。
「そうなんですか。じゃあちょうどいいかもですね」
「……なにが?」と首を傾げる詩織を余所に彼方は首を鳴らし、無言で大きく腕を上げて構える。
彼方の構えを見て詩織は眉をひそめ思う。
(この構え——キック? いやムエタイかな? けど少し違う。私と同じで、自己流な感じとか)
——お互いがじりじりと距離を詰める中、先に仕掛けたのは彼方だった。
先程とは違う緩い左のミドルキックが詩織を襲う。それを前腕で軽く払い除ける詩織。
(遅いし軽い——これなら……)
だが素早く降ろした足を軸に、鋭い右のハイキックで追撃する彼方。
(なっ!? フェイン——トッ!)
——ガッ!
紙一重だった。詩織は辛うじて手の甲で受けたが、顔を歪ませ後ろへ退がり間合いを取った。
(——重っ! つか、手が……これは痛いヤツだ。そしてヤバい奴だ。どうしよ……)
自分との優劣と受けたダメージを悟られないようにと詩織は彼方に対して軽く笑った。
(仕方ない、アレを使うか。野球からヒントを得た、あの禁断の技を……)
詩織は意を決して構えを解くと、身体を解しながら彼方を中心に円を描き、少しずつ間合いを詰める。
そして彼方の後ろに母親が位置する場所まで移動すると、ゆっくり構えた詩織は驚いた顔をして叫ぶ。
「あっ! エロそうなおっさんがお義母さんにっ——!」
彼方が咄嗟に振り向く。同時に詩織は一気に間合いを詰め、渾身の力で彼方の膕に下段蹴りを打ち付けた。
(よっし! まともに入った!)
ガクンッ——膝を折る彼方。それを見ることもなく詩織は一目散に駆け……逃げていった。
母親に異常な執着心のある彼方だからこそ成功した策だったが、詩織は満足気だった。
風を切り髪をなびかせ走っていると、急に込み上げてきた感情を抑えきれず高笑いした。
「——きゃはははははははははは! これぞ、野球を見て編み出した必殺技『ヒットエンドラン』だ! 見たか! チョロい奴めっ!」
勝ち誇った負け惜しみを言うチョロい詩織もさることながら「ヒットエンドラン」とおよそ必殺技の名前とは言い難いネーミングセンスと共に「余所見をさせ、不意打ちをし、逃げる」という卑怯の三段活用を悪びれる事なくやりおおせた詩織はさすがといったところだった。
——家に駆け込み生きて逃げおおせた事に詩織は安堵し、息を切らせて口を開く。
「はぁ、はぁ、これは退却ではない! 未来への進軍である! はーっはっはっはっ——ゲフン、ゲフン」
これが言いたかったと言わんばかりに、こんな素敵な名言を残し、そして言わせてくれてありがとう、と某無双ゲームの袁紹さんに感謝する詩織。
ふと足元に目をやると沙織のスニーカーが目についた。
(——帰ってるよね、さすがに。にしても汗で、びちょびちょだぁ……ってこれ透けてんじゃん! くそー、あの彼方め……つか、とりあえずシャワーでも浴びよ、うん)
呼吸を整えるよう深呼吸をし、沙織のスニーカーの横に自分の靴を揃えて並べると、二階に目を向けつつ浴室へ向かう。
日向の部屋から微かにレトロゲームのような電子音が聞こえ、興味を惹かれる。だが灯とは違い姉の詩織は部屋荒らしの前科があったので入室を認められていなかった。
もちろん沙織は入室可。
脱衣所に入り、服を洗濯機に放り込んで浴室に入ると、詩織は首元の嬉しい違和感に触れて呟く。
「音々、もう会いたくなっちゃったよ、私……」
詩織は少し悲しそうに、音符のチャームを見つめる。暫くの間、音々に思いを馳せていたが、会おうと思えば割とすぐ会えるからと自分に言い聞かせて、とりあえずシャワーを浴びた。
そして一通り身体を洗った詩織だったが、大量に汗をかいた所為か急な頭痛に見舞われた。
痛みに顔を歪め、詩織は彼方の顔を思い出しボヤく。
「――彼方の奴、かわいい顔に油断したけど次会ったら本当に許さん。つか、あとで沙織に稽古つけてもらおうかなぁ」
詩織は、灯から真面目に稽古をつけてもらっていた沙織を内心尊敬しており、実力も自分より上だと思い込んでいた。
そして沙織とこんなにも長い時間を一緒にいない事が無かったと、何気なく思い返す。
小学校の時はまちまちだったが中学は一、二年共に同じクラスだった為、ほぼ同じ時間を沙織と過ごしていた。
浴室を出て頭痛薬がないかと、リビングに向かい救急箱を取り出すが見つからず、内線で二階の沙織に聞こうと受話器を取る。
――プププ、プププ、プププ
(——寝てるのかなぁ)
そして詩織は受話器を置くと大きく息を吸い込んだ。
「ひなたぁぁぁぁぁぁぁぁ! ……返事がないただの日向のようだ」
「はぁ――」詩織は溜め息をついて次第に痛みを増す頭痛に耐えて、沙織を起こしに行こうとリビングを出る。
階段を足取りも重く登っていたが突然、目眩を起こし詩織は二階に登り切ることなくその場に倒れ込んだ。
そして朦朧とする意識の中で助けを求め、階段を這い蹲って部屋のドアを開けた。
しかし、何かに引っかかり開ききらないドア。僅かに開いた隙間に向かい詩織は声を絞り出す。
「さ、おり——助けて……」
その声は沙織に届くことなく詩織は意識を失った。
——十数分ほど経った頃、灯が仕事から帰宅すると、灯はそのまま詩織達の部屋の斜向かいにある自分の部屋に向かう。そして部屋の手前で倒れている詩織を見て狼狽え、声を張り上げる。
「えっ? お、おい……詩織? おいっ! どうした! 大丈夫か詩織っ!」
返事をしない詩織を抱きかかえると、身体が異常に熱くなっていることに気付く灯。
(……熱中症か? 救急車より冷やすのが先だな)
とりあえず応急処置が先と判断して下の階の日向に向かって叫んだ。すると家の外にまで聞こえるであろうその声に反応した日向が階段の元に来る。
「お母さん?」
「おい、日向っ! タオル何枚か濡らして持ってこいっ! あとスポーツドリンクと氷もありったけ持ってこい! 急げっ!」
日向を待っている間、詩織に呼びかけ続けていたが、これだけの騒いでいるのに沙織の気配がしないことに灯は違和感を覚える。
「沙織! 居るかっ!」
すると意識の戻った詩織が弱々しく口を開く。
「……ぁさん。お母さ、ん」
「おいっ、分かるか詩織! 平気だから! もう大丈夫だからな!」
日向が階段を駆け上がってくると、灯は氷をタオルに包んで首と脇、脚の付け根を手際よく冷やし、スポーツドリンクのペットボトルを日向に渡すと、詩織に飲ませるよう促した。
(あとは、救急車——)
灯はスマホで救急車を呼び、詩織は日向に任せて詩織達の部屋を開けようとドアに手を掛けた。
「沙織! おい、沙織いるか! 日向っ、沙織はっ!」
詩織を介抱している日向は分からないと首を横に振る。
開ききらないドア。その裏にあるモノの重みと手に伝わる感覚で胸騒ぎを覚えた灯は、肩に体重を乗せてドアを押し込んだ——
そして入れるほどに開いた隙間から部屋に入った灯は、夕風がカーテンを揺らすその部屋で、倒れた沙織を目の当たりにする。
途端、灯は悲痛な表情になるが、容態を確認する為に沙織の身体を起こし声を掛ける。
「沙織? ……さお、り——」
灯は言葉を失いその場にへたり込んだ。
沙織の手は軽く触れただけでも分かる程、人のそれとは違う冷たさになっており、無表情の顔は声を掛ける事さえ拒否しているようだった。
灯は沙織を抱え強く抱きしめると、もう声の届かないその耳元に口を寄せる。
「ごめんな沙織……こんな親で……ごめんな、ごめん——」
灯が何をした訳でもなく、ただ自分の子供として産んでしまった事を悔やみ、何度も何度も謝った。
そして静かに涙を流し、娘の早過ぎる死を悼み咽び泣いた。