夕焼け色の序曲(オーヴァチュア)1
〈壱.夕焼け色の序曲〉
深い深い藍色の海の中で
ふとあなたの声が聴こえたから。
門倉 彩 倉木 はるの
1・夕焼け色と歌声 ――門倉 彩
放課後の音楽室から歌声が聴こえた。夕焼けの色に染まる廊下で、私はぴたと足を止める。
女子の歌声。まるで透きとおる水晶みたいなイメージの声。過大評価じゃなくて、本当に。私の中では。でも高音と低音が苦手なのか、たまに音が派手に外れる。いや、緊張しているのかも。……でもその全部がこの人らしい。なぜか、そう思う。
まだ歌声しか知らないその人の癖を、なんでこの人らしいと思えるんだろう。他の人が聴けば「普通の声」かもしれない。けれど私にとってその歌声は、不思議と聴き入ってしまう歌声で。私が今までに聴いたことがある歌声――音楽番組で熱唱する歌手のはつらつとした歌声、合唱部部長の勇ましいアルトの歌声、カラオケで高得点を叩き出す友達の安定した歌声。そのどんな声よりも私の心を掴んで離さなかった。
なぜだろう。聴き入ってしまう。その歌声と歌詞が、私の脳に、心に直接届く。
子どもみたいに透き通った声。その透き通った緊張気味の声に、純粋さを感じる。
「どうして こんなに こんなに
苦しまなければ ならない?
あなたも そうだと そうだと
思うでしょ ならば……」
歌詞もメロディも、知らない。聴いたこともない歌。でも何故か心に響いて、離れない。一瞬たりとも聴き逃したくはないと思った。この歌声は何。この声の主は誰――と、思った矢先。
「はーああああぁっ」
背後から女の人の大きな声が響く。
「くしょーい!!!!」
廊下にこだまする、大きなくしゃみの掛け声。私の背後には、保健室の浅井先生。
えっ、タイミング悪。音楽室から聴こえていた歌声が止まった。浅井先生のくしゃみにびっくりしちゃったのかも。歌声が止まってしまって残念だ。
「浅井先生……」
私は浅井先生を横目でじーっと見つめる。若い女性が、あんなにオジサンみたいな豪快なくしゃみをするなんて、って言われそうなくしゃみ。世間の固定観念で見たら、きっとそう言われちゃいそう。あ、私は別に女の人が豪快なくしゃみしちゃダメって思ってないから! 私だって家では豪快くしゃみ派だし! ……ただ、今は大きいくしゃみをしないでほしかったな。
「あ、門倉。花粉症の時期だねぇ〜」
けらけらと浅井先生はマスク越しに笑う。浅井先生はいつも長い黒髪をポニーテールにしている。あと、背もそこそこだし、結構美人だと思う。紺色の羽織りシャツのポッケに手を突っ込んでいて、ちょっとモデルさんみたい。じゃなくて。
「そうですね〜」
気になっていたあの歌声は、もう聴こえてこなくなった。正直、あぁ残念だなと思った。まるで夜空にふと現れた流れ星が、しゅうぅと消えてしまったときみたい。
「門倉もマスクしたほうがいーよ。じゃあねー」
浅井先生は一歩、二歩、三歩、私の横を通り過ぎる。あれっ。この人、どこへ行くんだ。そっちはもしや音楽室じゃないのか。
「浅井先生、どこ行くんですか」
先生は振り向いた。黒髪のポニーテールがくるりと揺れる。
「どこって、音楽室」
やっぱりだ。浅井先生についていけば、歌声の主を知れるかもしれない。
「私もついてっていいですか?」
「え、なんで?」
間髪入れず浅井先生が疑問を投げた。音楽室になんとか入るための嘘を、考える暇さえ与えてくれない。
「あー……忘れ物、しちゃって~」
しどろもどろ、だ。私はいつも嘘をつくと視線がどこかへ泳いだ感覚に囚われる。きっと嘘を考えながら話すからかな。どこかへ視線を泳がすと。なんでか思い付きやすい。でもさっきの嘘は上手くつけたんじゃないかな。
「忘れ物ね。分かった。ちょっとここで待ってて」
先生は音楽室へとひとり向かう。ガチャ、というドアの音と共に私を廊下に取り残す。
廊下の窓から射し込む橙色の光と、私。橙色の光って、綺麗で好きだなあ。
……。じゃなくて。
えっ。音楽室にすら入れてもらえないのか。なぜだ。なんで。なんで。
もしかして、さっき音楽室で歌っていた子は合唱部の子なのかな。そしてその子に、浅井先生は入室許可を取りに行った。……いいや、それは違う。なぜ入室許可がいる。この学校の合唱部は基本的にオープンな部活のはず。音楽室への入室許可なんて、コンクールに向けて猛練習してるとき以外は、きっといらない。
そんなことを考えてるうちにガチャ、とドアが開く。
「どーぞ」
浅井先生はドアからひょこっと顔を出し、やっと私を音楽室へ入れてくれた。
薄暗い部屋も、やっぱり橙色に染まっていた。つくえつくえつくえ、奥にグランドピアノ。見慣れた机の並びも、こうして夕方に見るとなんかいいな。でも、この教室に歌声の主と思われる人がいない。私と浅井先生以外、いない。おかしい。
「忘れ物、あった?」
浅井先生の問いかけにハッと我に返る。音楽室にみとれてる場合じゃない。
「いや、ないみたいです」
本当に忘れ物なんてないんだよね、嘘だから。少し良心が痛む。浅井先生ごめんなさい。
「そう。じゃ、もう遅いし早く帰りなー」
浅井先生は私に下校を促した。あれっ。浅井先生にしては珍しい。いつもこっから浅井先生の「人生の持論語り」が始まるのに。笑顔で「あのさ門倉ぁ。聞いてよ~」って言い始めるのに。
浅井先生、いつもと違う。もしかして、何か隠してるのでは。
「あの。ここに誰かいませんでしたか?」
「えっ?」
思い切って浅井先生に聞いてみた。浅井先生、もしかして誰かを隠してるのかも。
「誰か、歌ってたんです。凄く綺麗な声で!!」
私は押しに押しまくる。誰かいた、と押せばきっと折れて教えてくれるはず。浅井先生が本当に誰かを隠しているならば。
「そうなの? 私がここに入ったときは誰もいなかったけど」
浅井先生は手を顎、いや、マスクに添える。考える仕草だ。これは……本当に知らないパターンなのか。浅井先生の考える仕草は、やけにリアルだ。
「……幽霊?」
押しまくったので、一歩下がって、人ではなく幽霊だったのかなと言ってみる。かなり苦しいけど、かなり血迷った発言だけど。仕方ない。
「さぁ……?」
……。ダメだ。浅井先生はかなりのポーカーフェイスだ。まるで女優みたい。マスクをしているからか。いいや、本当に誰もいなかったのかもしれないけど。でも私は、浅井先生が誰かを隠している可能性を諦めきれない。
「でもホント、みとれちゃったっていうか、聴ーとれちゃったんですよ!」
私の、先生への駆け引きの最後の“駆け”。これがきっと、最後の賭け。
……あ。浅井先生、何か考えてる。
今、一瞬だけ、時間が止まった感じがした。
「……じゃ、誰か音楽準備室にでも隠れてるのかもね」
そう言った浅井先生の目は笑っていた。
私は静かに、音楽室奥の音楽準備室へと歩みを進めた。
続く。
夕焼けの描写がくどいかもしれない。
あと矛盾があったため修正待ったなし。