第0話 記憶の中の地獄
大陸歴一〇〇〇年四月 旧トゥーロ公国
「……ドアを開けて」
「……っ!でも……!」
「大丈夫だから」
ためらいながらも、少女を信じ、思い切って地獄のドアを開ける。
内部はとても広い。数百メートルの奥行きがありそうだ。にもかかわらず、全体が人の感情で満ちていた。
椅子のような機械に囚われ、頭の上半分を覆う、無数のケーブル。
痛みに絶叫する者。泣きわめく者。親に助けを求める者に、神々に慈悲を乞う者。
それが数百、あるいは千以上。多すぎてもうよく分からない。
あまりの惨状に耳をふさぎ、うずくまりたくなる。
「こっち」
少女に手を引かれ、機器の間の死角に潜り込む。
手足の震えから少し手間取り頭をぶつける。この地獄でなければ、物音ですでに見つかっていただろう。
体全体が隠れたと同時に、先ほど二人で入ってきたドアが乱暴に開け放たれ、数人の男が入ってくる。
「見つかんねえなァ、ガキ二人。外に逃げた様子もねェんだが」
狂気の中にある普通の声は、逆に際立って聞こえてきた。
帝国警察の制服でそろった連中のなかで、一人だけ着くずしたリーダー格の男が、白衣の男に話しかける。
「手間取らせやがってクソが。見つけたらあいつの親と同じようにぶっ殺……いや捕まえねェとな」
近くに物があれば蹴り飛ばしたいと言いたげに、足先で地面を踏む。
頭脳労働よりも肉体労働が似合いそうな白衣の男は、それを見て口を開いた。
「ああ、別にもう殺してもいい。もともと余裕をもって動員している。運用に必要な人間の補充もめどが立った。多少無駄に消費しても構わん。それより、逃げられてわずかでも情報がもれるほうが問題だ」
それを聞いた男は口元に笑みを浮かべた。
自分の息が荒くなる。心臓の音が脳にまで響き始める。
「そりゃいい。もっかい捜しに行くかァ」
自分を殺そうとする男は、入ってきたドアに踵を返す。
「少し待て」
「ァア!?」
呼び止められた男は不機嫌そうににらむが、白衣の男は気にせず話しかける。
「ちょうど起動の時間だ。見ていくといい。帝国が世界を握る記念すべき瞬間だ」
薄暗かった室内は徐々に明るくなり始めた。
この場所の中央には、人々につながれたケーブルが集まる台があり、その上に三十メートルはあるだろう球体が浮かぶ。それが淡い光を放ち始めたのだ。
そして気づいたが、先ほどより人々の声が激しくなっている。それは消え去る前の火が一瞬強くなるようなものだった。
球体が命を吸い上げているのか、光が強くなるにつれ、声は弱々しくなっていく。
残り一つの声が死んだとき、球体の表面には、よく知るものが表れてきた。
一つの大陸といくつかの島からなる、この世界の地図。
大きさこそ比べ物にならないが、学習で使うような大陸球と同じだ。
「過去を見通す機械の神。ラプラス」
白衣の男は、一種の崇拝を球体に向ける。
神と呼ばれたそれは、自分には、悪魔に見えた。
恐れからだろうか。つないだ手に力が入る。
「私たちは助かるよ。シンク」
「リッカ……?」
隣にいる少女は、それを確信しているようにつぶやいた。
こんなに力強い言葉を言うなんて、以前までの少女では考えられない。
少女は球体を見据える。
「必ず助けて見せる」
何の力もない自分は、少女の声にすがるほかなかった。