夜話3
若い噺家が顔を上げると、一瞬だが、今までとは打って変わって神妙な顔をしている。
分からないのは男女の仲。何が分からないって、何でしょうね。まあ、何もかも、ですな。
朝、起きたら、昨日の夜まで機嫌の良かったかみさんが目くじら立てて怒ってる。
『どうしたの?』
なんて聞いても。知ら〜ん顔。何にも返事もしない。仕方がないから仕事に行って、帰って来ても、まだ、顔も見ない。
『なあ、お前、いい加減にしたらどうだい?あたしだって、そりゃ、いい男じゃないし、稼ぎだってたかが知れてるさ。それでも浮気もしなけりゃ、博打も打たねえ。真面目、真面目にお前に尽くして来てんだろ?一体全体、何なんだい?』
かみさんが、ようやく口を開いた。
『テレビに出てる俳優がいるでしょ?』
『ああ、お前が気に入ってる奴な。』
『その人が、どうしてもって、私を口説いて来たのさ。』
『お前、ついに頭をやっちまったのかい?そんな事ある訳ねえだろ?大丈夫かい?』
『本当だよ。』
『本当?嘘つけ?じゃあ、聞いてやらあ、何処でだよ。』
『何処って、そんなの当たり前でしょ、夢ん中だよ。』
『お前、いい歳して夢の中の話をしようってのかい?それにしたって、怒る話じゃないだろ?何なんだい?』
『そんないい男に口説かれてたのに、あんたが邪魔したの!』
『知らねえよ!お前、そんな事で朝から怒ってんのかい?俺が会社でミスって部長に怒られてた時も、ずっと?』
『会社でミスったのかい?』
『お前が機嫌が悪かったから気が散ったんだよ!勘弁しろよ、そんな事で怒ってたのかい?』
『そんな訳ないでしょ。私だって夢と現実の区別ぐらいありますよ。』
『じゃあ、何だい?』
『夢の中まで入って来ないでよ!』
出会った頃は、夢で逢えたら、なんてね、相思相愛、熱々だったのに。10年も暮らせば、こんなもんなんでしょう。
『半七の半』
「酒持って来い!この野郎!ふざけんじゃねぇぞ!」
目が潰れそうな怪しい酒を出す安〜い酒場で管を巻いてる、いかにも駄目〜な奴。何が気に入らねえのか、定職にもつかず、昼間っから酒ばかり。ついには親にも嫌われて、実家も追い出され、行く当てもない。
「半七さん、もう帰ってよ。」
「うるせえ、女!」
「もう帰って、二度と来ないでよ。」
どんなに荒れても、誰にも手を上げられない優男と知られているもんだから、安酒場の女中にまで舐められてる。
「酒持って来い!何度言わせんだ!この店は!お亀!このバカ女!」
女中がさすがに困り果てると、奥から屈強な男が。現れたかと思ったら、半七を子供か何かみたい片手で摘み上げると、店の前の道に、頭っから、びた〜ん。今だったら、アスファルトで首の骨が折れてるね。
「いててて、ふざけんなこの野郎!」
向こう意気だけは強い半七だが、地べたから顔を剥がすと、閉店ガラガラで、もう店の戸が閉まってる。
首を摩り摩り、ふざけんな、この野郎とか何とか呟くが、酒が腰に来ちまって、どうにもならない。
そんな時に、腕に人の手が触り、さては盗人かと思うと、白粉の匂い。
人間、どんなにダメでも、取り柄の一つぐらいはあるもんですな。この半七、半端の半七と言われ、まあ、酷い言われようですが、優しい顔に寂しい風情で、もてはしないが、最後は女が見捨てない。
「あんた、半七さんだろ?こんな所にいたんじゃ、みっともないよ。しゃんとしな。」
「分かってらぁ。」
妙齢の美人に助け起こされてるってのに、半七は気付いてるのかいねえのか、目もまともに開けられずに、よったよた。それでも何とか歩いて店の前から離れて行く。
「半七さん。」
握り飯でもくれてやろうと、店から、さっきの女中が出てきた頃には、だいぶ遠くて声は届かない。
この、女中、お亀。顔は普通で半七とは同い年、この辺りで一緒に育ってるが、最近の半七には愛想を尽かし始めてる。何しろ飲んでばかりじゃあ、それも仕方がない。
「半公はどうしたい?」
店に入ると、亀の親父が尋ねる。
「女が連れてったよ。」
「女?何処の?」
「鶴さん。たまに来るだろ?」
「ああ、美人のな。」
「美人なもんか、遊女だよ。」
「何だい、嫉妬かい?」
「そんなんじゃないよ。」
「そうかい、まあ、そう言うもんさ。」
お亀は、親父の笑い声も聞こえていない。
何ヶ月かして、お鶴と半七。半七は相変わらず昼間から酒、お鶴は化粧に余念がない。
部屋の障子が勢い良く開けられた。
「ちょいと、ごめんよ。」
「ごめんよじゃねえよ。言う前に、障子、開けちまってるじゃねえか。プライバシーもへったくれもありゃしねえ。」
「あたしは、女将だよ。好きにするさ。」
「へっ、何が女将だ、女郎上がりの極妻のくせしやがって。ふざけんな。」
「ちょっと、お鶴ちゃん。何でこんなのの面倒見てんの。雨の日の野良猫じゃないんだから。拾って来ちゃ、ダメだよ!」
「本当に可哀想だったんですよ。」
「どれくらい?」
「雪の日の野良犬ぐらい。」
「それは可哀想だね!」
女、二人がゲラゲラ笑い出す。ダメな男の話は女の好物らしい。
「おい!お前ら、いい加減にしろよ!お鶴、さっさと仕事して来やがれ!」
「よしなよ!偉そうに!」
「客が待ってんだろ、客が!」
「待ってるは待ってるけどね、あんたにだよ。」
「俺に?」
「そうだよ、早くしなよ。何を、お鶴ちゃんを見てんの?助けを求めるんじゃないよ。」
「べ」
「べ?」
「別に、助けなんて、お前ら」
「何を窓を見てんのさ。二階だよ。酔っ払いが飛び降りたら足が折れるよ。」
「なななななな」
「笑わす気かい?」
「俺は、俺は何も、俺は、何も、悪い事なんて、何にも」
「泣きそうじゃないか。バカだね。追っ手じゃないよ。お亀とかいう女の子だよ。」
「それを早く言わねえか!」
「ちっとは、酔いが覚めただろ?」
「余計な世話だ!大概にしろい!」
女達に笑われながら、ヨタヨタ下に降りて行くと、お亀が上り口に腰をかけて待っている。
「半七さん、久しぶり。」
「お亀、お前はやっぱり、いい子だな。あんな女どもとは雲泥だ。」
「何のこと?」
「いや、何でもねえよ。で、どうした?金ならねえよ。」
「あんたの親父さんの事だよ。」
「親父?親父がどうしたい?」
「随分、体の具合が悪いみたいで、ここんとこ、ずっと、布団から出られないぐらいさ。」
「嘘着くんじゃねえよ。この前、金を借りに行った時には、二度と来るんじゃねえって、大声出しやがったんだぜ。」
「あんた、何してんだい?それ、いつの話だい?」
「お前のケチな飲み屋に最後に行った前の日だ。」
「ケチは余計だろ。それで、どれくらい前だと思ってんだい?」
「こんぐらいかな。」
「日にちを、左右の手の平の間隔で示した人を、あたしは始めて見たよ。」
「お前がどれくらいって言うからじゃねえか!」
「呆れてものが言えないよ。こんな酔っ払いと、お鶴ちゃんは、よく一緒に暮らせるね。」
「あいつは、俺にあれだからよ。」
「豆腐の角にってやつだね。」
「豆腐なんて、さっき酒の肴で食っちまった。」
「あー、もう、嫌だ!で、どのくらい、ここにいると思ってんのさ?」
「2、3日ってとこだろうよ。」
「2、3日?」
「ん?じゃ、4、5日かい?」
「バカ言ってんじゃないよ。2、3ヶ月だよ!竜宮城かい、ここは!」
「2、3ヶ月?嘘つけ。」
「本当さ。言いたかないけど、やっぱり、あのお鶴ちゃんは、そういう女なんだよ。」
「そうかもしれねえな。そうすると、親父が危ないってのも本当か。だけど、どうしろってんだい?俺は この通り、薬を買ってやる金なんかありゃしねえし、稼げもしねえよ。」
「人間、落ちると、甲斐性なしだって平気で宣言出来ちまうもんなんだね。あんたじゃないよ。お鶴ちゃんだよ。」
「お鶴?何で?」
「女郎屋から足抜けしようって貯め込んでるに違いないよ。」
「そうかな?」
「そうだよ。結構、売れてるってのに道楽はあんたぐらいだろ?」
「俺が道楽?」
「そうさ。囲い込んでペットみたいなもんなんだよ。お鶴ちゃんの男にでもなった気でいたんだろ?」
流石の半七も恥ずかしさで顔が蒼ざめる。
「な、な、何を言ってやがる。そんなもん、気付いてない訳がないだろ。俺もお鶴が貯め込んでると睨んで様子を見てんのさ。そうだな、あの様子じゃ、かなりのもんになってるだろうよ。だけど、頼んだって足抜けの為の大事な金だろ?貸してくれる訳がねえよ。」
「だからそこはさ、足抜けした後の生活の為に家を借りるんだとか何とか言えば、お鶴ちゃんも女だからね。喜んで出すよ。」
「だって、俺はあいつのペットなんだろ?」
「女郎上がりとまともな奴が一緒になるかい?」
「そんな、いくら俺でも、人の足元見る様な真似が出来るかよ!」
「そうかい。それじゃあ、もう、知らないよ。親父さん、死んじまうかもしれないからね!」
「おっ、おい、待てよ、待てって!」
お亀は、縋りつきそうな半七を置いてさっさと帰っちまう。半七は、額から冷や汗を垂らしながら、上がり框に座り込んだまま、動けもせず、呟いている。
「そんな、親父が死んじまうなんて、そんな。」
半七が真っ青な顔をして部屋に戻ると、お鶴も流石に心配そうな顔をしてる。
「どうしたんだい?真っ青な顔してるよ。」
「親父が、親父が死んじまいそうだ。」
「あんたのお父さんが?」
「他の親父なんか知るかい!俺が竜宮城にいる間に。」
「そんな所に行ってたのかい?」
「そんな事は、どうでもいいんだけどよ、お鶴、頼む!一生の頼みだ!」
「お金じゃないよね。」
「お金じゃない、お金じゃ、ない。お金じゃないんだけど、金貸してくれよ。」
「何が一生だい?朝も言ってたよ。ていうか、朝からそれしか言ってないよ。」
「そうじゃねえ。」
「何がそうじゃないんだよ。金なんだろ?」
「そうじゃねえ。」
半七、窓の遠く、風呂屋の煙突から昇る煙を見ていると、何故か急に、スーッと気持ちが落ち着いた。
「そうじゃねえんだよ。お鶴、俺と一緒になってくれねえか?」
「えっ?」
さすがのお鶴も真顔になって半七の頼りない背中を見てる。
「多分、親父も、もう直ぐに死んじまうだろうし、俺には他に家族がいねえんだ。」
「私は構わないけどさ。あの子は、どうするのさ?あのお亀って子?」
「ああ、あいつは、ただの幼馴染みってだけさ。女とは思えねえよ。」
「いい子なんじゃないの?」
「まあな、お前や俺とは違って、まともないい子さ。」
半七は、お鶴を口説き落として、約束した。お鶴が足抜けしたら、一緒になろうと。
お鶴は、こんな半七を、どういう訳だか信じちまって、足抜けした後の生活の為だとか何だとかで、言われるがまま、かなりの金を半七に渡す。
「ひい、ふう、みい、よう、いつ。ひい、ふう、みい、よう、いつ。ひい、ふう、みい、よう、いつ。ひい」
「あんた!いったい何回、数えてんだい?何かの呪文みたいになってるよ。ラスボスでも見えてんのかい?」
「うる、うる、うるせえ、馬鹿野郎。こんな大金、見たこともねえ。世の中、どうなってんだい?お前が、この辺りじゃ、一番の金持ちなのかい?」
「そんな訳ないだろ?持ってる人は、もっと、たんまり持ってるさ。」
「ちくしょうめ、俺にも何か才能があればな。」
「何の才能だい?」
「それは、お前、盗みとか騙しとか博打とかよ。」
「だから、ダメなんだよ!」
「ダメって言うんじゃねえよ。でも、本当に恩に着るぜ、お鶴、ありがとよ。」
「何だい、水臭い。これからは、私のものは、あんたのものだろ?」
「そうだ、そうだった。危なく忘れるところだった。」
「忘れるって?何を?」
「いや、いや、いや、それはだな、あー、それは、えー。」
「怪しいね。まさか、あんた、私を騙そうって」
「バカ、バカ、バカ。何を言ってんだよ。そうじゃねえ、あれだよ、えー、あれ、あれ、あれ。礼節!そうだよ、いくら親しい仲だって、礼節は忘れちゃいけねえ。そうだろ?」
「まあ、確かにね。」
「そうだろ?そうだろ?おー、危ねえ。」
「何だい、危ないって?」
怪訝な顔をする、お鶴をなんとか騙して、半七、騙し取った金を、お亀に渡す。お亀は数えもせずに金を懐に入れて、逃げるように立ち去った。人のいい半七は、これでもう、親父は大丈夫とひと安心。
ところが、実家のご近所さんに町で呼び止められて、話を聞くと、親父は相変わらず布団で寝たっきりで、身体なんか少しも良くなってねえらしい。
そいつを聞くと、半七は、着の身着のまま、草履も履かずに、真っ青な顔して走りに、走って、息も絶え絶え、実家の前に。全身から汗を流して、何度も何度も生唾を飲むが、たった一枚の戸が怖くて開けられねえ。いい歳をして、親父も怖ええが、その親父が死にそうで臥せってるとあっちゃあ、怖くて怖くて仕方ねえ。
ようやく、勇気を振り絞って戸を開けて、その勢いで、親父の枕元に一目散。親父は暗い部屋の中で、土みたいな顔色で臥せってる。
「親父!おい、親父!」
親父が薄っすらと目を開けて、すぐに閉じる。
「なんでえ、半七かい。久しぶりに戻ったと思ったら、真っ青な顔しやがって。具合の悪いのは、手前じゃなくて、俺の方だぜ。」
「分かってるよ、そんな事は!薬はどうしたんだよ、薬はよ!」
「薬?何の薬だよ?そんなもん買えねえのは百も承知だろうが。馬鹿野郎。馬鹿に付ける薬だったら、元からねえんだぜ。」
「そうじゃねえよ!お亀!お亀だよ!」
「お亀が何だよ?一度、見舞いに来たか来ねえかぐらいだ。お前、まさか」
「まさかじゃねえよ!お亀に言われて、薬代を渡してあんだよ!」
「いくらぐらいだよ?」
「ひい、ふう、みい、よう。ひい、ふう、みい、よう。」
「半七、ありがてえが、呪文じゃ治らねえ。」
「うるせえな!俺の全財産だよ!」
「お前の財産だ?馬鹿野郎。持ってる訳がねえだろうが。誰に借りた?若しくは、どの婆さんから騙し取った?振り込め詐欺までやりやがって。情けねえ。」
「しねえよ!そんな事は!馬鹿にするんじゃねえ!借りたんだよ、お鶴に!」
「お鶴って、あの女郎のかよ?手前は、何をやってんだよ!何であんな子にまで金借りてんだ!誰も頼んじゃいねえだろうが!」
「仕方ねえだろうが!親父が死んじまうってんだからよ!だったら、どうしたら良かったんだよ!誰に借りたって同じだろうが!女郎だからって馬鹿にしてんのか?変なプライド持ってんじゃねえよ!」
「知らねえよ、馬鹿野郎。人に金なんか平気で借りてんじゃねえ。大事な金を確かめもしねえで人に渡してんじゃねえ。どの女が信用できるのか、その歳で騙されてんじゃねえ。返せねえ様な額の金を人に借りてんじゃねえ。そんなに心配なら、見舞いの一つにでも来いよ!そうすりゃ、騙されねえで済んだんだろうが!」
「仕事にも就いてねえのに、敷居跨ぐんじゃねえって、親父が言ったんだろうが!」
親父は目を開けて、半七の泣きっ面を見ると、目を閉じて、はーっ、とため息。
「手前みてえな馬鹿は、育てるんじゃなかった。赤ん坊の時にとっとと捨てちまうんだった。」
「何だよそれ、いくら何だって、そりゃあねえよ。」
親父に酷い事を言われた半七は、人の目もかまわず半ベソをかきながら走って、お亀の家の飲み屋に着くと、営業時間のはずなのに戸が閉まってる。嫌な予感がしそうなもんだが、半七は、そんな事にも気づかずに、戸を叩いた。
ドンドンドン。
「おい!亀!この女!よくも騙しやがったな!出て来いよ!親父が死んだら、どうしてくれんだ!金返せ!とにかく、この戸を開けやがれ!ふざけんなよ!この野郎!」
半七が店先で騒いでいると、近所の婆さんがやって来て、こう言った。
「お亀ちゃんのところは、借金とりがうるさくなって、店を閉めて夜逃げしていっちまったらしいよ。誰もいないよ。」
頭に血が上ってる半七には耳にも入らない。
「うるせえな!この婆あ!あの世まですっこんでろい!」
珍しく怒り狂って戸を蹴ると、戸が壊れて店の中へ吹っ飛んじまった。婆あは驚いて逃げちまい、半七もびっくりして、元の小心者に。
「ごめんください。ちょっと通りかかったもんで、ごめんください。」
恐る恐る入って行くと、薄暗い店の中には誰もいない。
「ちくしょう、お亀の奴、逃げやがったな。こうなったら、ただじゃおかねえ。」
半七は、奥の部屋へと入って行って、がさがさと家捜し。
「少しでも金目のものはねえのかな。」
哀しいかな、やる事がどうしても小さい。
部屋の中をあっちこっち探していると、部屋の隅から嫌〜な気配が。
半七は、気がついても、怖くて怖くて、振り返れず、四つん這いのまま、後退りしていると、聞こえるか聞こえないかの声で。
「半七さーん」
「おっ、おい。その声はお、お、お亀かい?何だい、借金取りに追われて首でもくくっちまったのかい?俺の金を持ってった事は許してやるから、どーうか、化けて出ねえでくれ。頼むよ。」
「バカだね。私ゃあ、死んでなんていないよ。家の中でどたばたしないでおくれよ。親分ところのが来ちまうだろ?」
半七がおそるおそる振り返ると、少しやつれたが、いつものお亀が部屋の隅に怖い顔をして座ってる。
「びっくりさせるんじゃ」
「うるさいよ!静かにしてって!」
半七は金を持ち逃げされてるってのに、お亀の勢いで怒りも収まっちまった。まあ、元々、自分の金じゃないですけどね。
「分かったよ。しかし、いったいどうしたってんだい?夜逃げしたって言われてるぜ。」
「知らないよ。大黒屋の親分が用心棒代を上げるって、急に言い出したんだよ。それで、商売の上りも何も全部出してもまだ足りないって。」
「他の店じゃ、そんな話は聞かないぜ。」
「そうさ、私んところだけなんだよ。」
「どういう訳だい?まさか、お前が目当てって事かい?」
「大黒屋の親分なんて、店に来た事もないよ。バカ言わないでよ。」
「いつ頃からだい?」
「ちょうど、あんたが最後に来て、お鶴ちゃんに拾われた後ぐらいからだよ。」
「何で知ってるんだよ。いや、拾われてねえよ!それに、お鶴は関係ねえだろ?」
「分かったもんじゃないよ。あの女郎屋は大黒屋のもんなんだろ?女将さんが大黒屋の女だって。」
「ああ、極妻だよ。それは知ってるけど、お前んちに因縁つける理由はねえだろ?」
「もう、知らないよ。とにかく、隠れてるんだから、出てってよ。もしかしたら、あんたの所為かもしれないんだからね!」
「何だよ!なんでもかんでも、悪い事は俺の所為か!お前も親父も何だってんだ!」
お亀は、ひるむかと思いきや、まるで氷みたいに、すーっと顔が固く青ざめる。それを見て、半七は心底ぞーっとなる。女のこんな顔は出来れば見たくありませんな。
「そうだよ、きっと、あんたの所為だ。あんたとお鶴が、私ん所に悪運を持って来やがったんだ。一体、この始末、どうしてくれるんだい?」
「何が悪運だよ、非科学的な事を言うんじゃねえよ。いつの時代だと思ってんだい?今や、江戸時代だ。戦国時代や室町時代じゃないんだぜ。」
「あんたとお鶴が来るまでは、お父っつあんと仲良くやってたんだ!あんたの所為だよ、ちくしょう、あんたの所為だ。」
強気だったお亀が泣き出すと、それはそれで半七も弱い。金をだまし取られてるのも、すっかり忘れちまう。
「おい、おい、泣くんじゃねえよ、大丈夫だ。俺が何とかしてやらあ。」
「何とかって?どうしてくれるんだい?どうしようもないじゃない。金もないし力もないし、大黒屋なんかに敵う訳ないし。」
座り込んで下を向き、困り果てた半七は、はーっと溜息をついてこう言う。
「逃げようか。もう、仕方がねえ。どうせ、親父も死んじまうんだろうしな。」
「お金もなしじゃ、私は嫌だからね。」
「金、金、金、金」
「何が悪いんだい?あんたとお鶴の所為なんだよ。」
理屈もへったくれもないが、お亀の釣りあがった目に、半七は返す言葉がない。
「そんな事を言ったって、ないものはないんだよ。」
「お鶴ちゃんに、また、借りればいいじゃない。」
「借りられる訳がねえだろ。後は、足抜けする金しか残ってねえよ。」
「お鶴ちゃんの足抜けと私達とどっちが大切なんだい?」
「お鶴を犠牲にしろってのか!」
「そうは言ってないよ。どっちが大切なんだいって言ってるだけさ。私達の方が大事だろ?」
「そりゃあ、そうさ。」
「だったら、お鶴ちゃんに借りて、少し博打でもして勝ったら返せばいいじゃない。全然、知らないふりは嫌だもんね。」
「そうだな。そんな冷たい事をするんじゃねえんだもんな。」
悪女とは恐ろしいもんで。頭も気も弱い半七なんかは簡単に言いくるめられちまった。
「お鶴、今、帰ったぜ。」
今後の見通しがついた気になった半七は、意気揚々と女郎屋のお鶴の部屋に。
「なんだい。酒も入ってないのにご機嫌だね。」
「ああ、今な、これからお前と暮らす家を見てきたんだが、まあ、質素だが、なかなか綺麗でな。いい家だよ。」
「そうかい。楽しみだね。」
「ああ、まったくだ。それでな、贅沢を言う訳じゃねえんだが、もう少し箪笥やら布団やら、置ければもっと体裁がよくなると思うんだけどな。」
「それはそうだけど、お金はどうするんだい?」
「金は、俺が稼ぐさ。だけど、善は急げって言うだろ?」
「あんた、何言ってんだい!私は、もう、お金なんてないんだからね!後は、足抜けする大事な金なんだよ!あんたも分かってるはずだろ!」
「分かってるよ。分かってるけどよ。もう、ちょっとの辛抱だからよ。新婚早々、惨めな暮らしなんて嫌だろ?」
「今だって惨めだろ!何様だと思ってるんだい!」
「金を払えばすぐに抜けさせてくれるほど甘くねえんだろ?だったら、とっくに抜けてるに違いねえ。ああだ、こうだと、あの極妻が因縁つけてきてるんだろ?」
頼りねえ半七だが、さすがに世の中を知らない訳ではないらしい。
「だったら、抜けた後の暮らしもきっちり整えて、何の文句も付けさせねえようにしてやるまでだよ。一度でいいから、俺を信用してくれねえか?」
お鶴は泣きながら、半信半疑で半七を見ている。
「まだ、言いたくなかったんだけどよ、親父の伝手で仕事も世話してもらってるんだ。だから、大丈夫だよ。今度こそ、ちゃんとやってやるよ。」
泣いて抱きつくお鶴に、半七はもう、自分がお鶴の味方なのか、お亀の味方なのか、さっぱり分からねえ。
次の日の昼過ぎ、呑み助共がようやく起きだす頃、半七はお鶴からせしめた金を懐に入れて、女郎屋の前で、しばらく突っ立ってる。
右へ行けば、お亀の家、左に行けば裏街道に出て街から離れらる。
半七は、しばらく、右を見て左を見て、また、右を見て。また左、また右。どうにも決めかねて、何を思ったか、急に真ん中の道に顔を向ける。怖いんだか、真面目なんだか、泣きそうなんだか、強きなんだか、ちょっと分からない顔になり、だが、それからは、右も左も見ずに、結局、真ん中の道へ。
真ん中の道は、人気のない山道に続き、その先に小さい神社がある。庶民が願掛けに使うが、誰が祀られているかは誰も知らない。
神社に着くと半七は、静かに手を合わせて拝み始めた。意外にもスマートなのは、これまでの人生で何度も何度も願掛けをしてきたからで、実はスマートでも何でもない。
「なあ、あんた。俺は親にも見放される様な出来損ないの馬鹿だから、あんたが誰だかなんて知らねえが、きっと大そうお偉いんだろ?もう十分、皆に尊敬されて祀られてるんだから、俺の頼みを聞いてくれ。俺はこれから、賭場に行く。だけど、遊びじゃねえ。遊びだったら、こんな辛気臭せえとこになんか来やしねえ。おっと、すまねえ。生まれが悪いから、口が悪りいんだ。とにかく、遊びじゃねえ、命懸けだ。この金を倍にしなきゃ、もうどうにもならねえ。倍にしてお亀に渡して逃がしてやって、お鶴に返して足抜けさせてやらなきゃならねえ。二人とも、いい子なんだよ。もし、賭けに負けたら、俺は首をくくって死ぬよ。もう、これ以上、とても生きてなんていられねえよ。自分で自分が嫌になっちまった。俺の命の代金だと思って、金を倍にしてくれよ、頼む!」
神社だから杉の木が多い。それに、半七は、もともと鼻炎の気もあって、涙がぼろぼろ、鼻がだらだら。何度も何度も、チーン、チーンと手鼻をかんでる。これでは、神様も願いをかなえてくれるかどうか。
半七は、お鶴から借りた大事な金を懐に、街道をひたすら、ひたひたと歩き、ようやく街はずれの賭場に着くと、壊れちまえとばかりに、戸を思い切り勢いよく開けた。何が起ころうが構わねえ。どうせ今日限りの命と決めている。
半七の顔を見ると、賭場で賭けに興じる半端者達が驚いて見ている。
中でも、賭場の奥で煙管を片手に賭場を仕切る、大黒屋の主人の驚きは一層大きく、目を見張ってる。
普段なら低姿勢の半七が、屈強な半端者達をものともせず、踏みつけ、蹴りつけ、ずんずんと進んで、大黒屋の目の前へ。
だが、大黒屋もなんとか体裁を取り繕って、いつもの嫌味な余裕の表情に。
「おいおい、誰かと思やぁ、半公じゃねえか。うちのお鶴とねんごろだったんじゃねえのかい?それとも、もう愛想つかされたのかい?」
半端者達が大声で笑う、笑う。
それでも、半七は、少しも怯まねえ。
「うるせえぞ!この死にぞこないの、クソ野郎が!てめえ、散々、お鶴からせしめて、今度はお亀からも取り上げたんだろうが!生意気な事をぬかしてんじゃねえ!」
いつもは気の弱い半七の、半端ない勢いに、半端者達が静まり返る。
こいつはいつもと様子が違うと踏んだ大黒屋。お鶴は商売としても、お亀からもせしめたとあっちゃあ、あこぎ過ぎて、立場も悪い。それでも、顔には出さず、だが、こめかみから汗がつうと滴り落ちる。
「何とでも言やいい。言うだけは只だ。だがな、気が済んだら帰んな。商売の邪魔は許さねえ。」
大黒屋が左右に頷くと、既に立ち上がってる強面が二人、半七の方へ。
半七は二人には目もくれずに懐に手を入れる。刃物でも出すのかと、強面の二人がひるんだ隙に、お鶴からせしめた金を、思い切り床に叩きつけた。
大黒屋が怪訝に見ていてもかまわずに、どかっとその場にあぐらをかく。
「半」
「なんだって?」
「半七の半だよ。この金で賭けようってんだ。一生に一度、最後の勝負。半七の半に全部だ。」
「受けるとは言ってねえんだぜ。」
「いいから、やれよ。こんなんで受けねえなんて、ありえねえだろ。皆が見てんだぜ。さっさと、サイコロを振りやがれ!」
悔しいが大黒屋、半七の言う通りで、ここで逃げれば一生の負け犬。仕方がねえと、今度はサイコロを握ってる若い衆に頷く。
「サイコロ振る前に半丁、言う奴なんて、聞いた事ねえぞ。いいんだな、半で。」
「イカサマでも何でも、してみやがれ。こっちの腹はもう決まってらあ。」
大黒屋が頷くと、若い衆がサイコロを入れた鞘を振り上げた。
さっきの威勢もどこへやら、半七は死にそうな顔で、走る走る。後ろを何度も何度も振り返り、それでも金を落とさない様に懐を両手でしっかり抱きかかえてる。
町外れの賭場から町中にたどり着くと、ようやく、ゆっくり歩きだす。
「よう、半七さん。どうしたい?大汗かいて?」
「うるせえ、ぶっ殺すぞ!馬鹿野郎!」
挨拶しただけなのに、殺すの何のと言われて、びっくりした知り合いは逃げちまった。
半七は、汗を拭き拭き、路地に入ると、懐に入れた袋を出して中を確認した。中にはたんまりと金が入ってる。
「ひい、ふう、みい、よう、いつ。ひい、ふう、みい、よう。ああ、もう、面倒臭せえ。こんだけありゃあ、ラスボスだって、親父の病気だってイチコロだぜ。しかし、こんなにぼろ勝ちして、よく殺されなかったな。あんだけ、皆が見てたんじゃ、しかも、サイコロ振る前から半に張ってりゃ、因縁も付けられめえ。上手く行ったぜ。ありがとうよ。神社の誰だか分かんねえ人。」
半七は、約束通り、お亀に金を渡したが、一緒にはならず、お鶴に金を返して足抜けさせて、家の家具も揃えて、お鶴と一緒になった。やっぱり、お亀には親父の薬代を持っていかれた恨みがあるし、お鶴には金を貸して貰った恩がある。残った金は親父に渡して、自分は元の素寒貧。それでも、生き延びられた喜びと、大黒屋の泣きっ面を思い出して、上機嫌が止まらない。
「おい、お鶴。お前えも、こっち来て、一緒に飲みな。新婚祝いのいい酒だぜ。」
「新婚、新婚って、いつまで新婚気分なんだい?もう、一緒になったのは半年も前だよ。信じられないね。」
「いいじゃねえか、半年ぐれえ。これから何十年も一緒なんだぜ。」
「それはいいけど、あんた、伝手で仕事貰えたって言ってなかったかい?金が入ったのは一回っきりで、それから、この半年、全然、働いてないじゃないか?」
「いや、それは、ちょっと、話が変わっちまったんだ。しょうかねえだろ。それにお前、繕いもんの仕事でいくらか稼いでんだろ?その金はどうなってんだ?へそくりにしてやがんのか?」
「あんたがいない時にやってんのに、何で知ってんだい?」
「馬鹿野郎、俺はお前の亭主だぜ。そんなもんは、お見通しってもんだ。まあ、確かに稼ぎは今はねえけどな、それでも、賭けもしねえ、女遊びもしねえ。自分で言うのも何だけど、結構、いい旦那だろ?」
「確かにね。ものは言いようだけどね。そうだ、賭けで思い出したけど。」
「おう、何でえ?」
「私の貸した金で、半に賭けて勝った金、残りがもっとあるんだろ?その金は一体どうしたんだい?」
お鶴にも誰にも話していないので、半七はびっくりして、しばらく声も出ねえ。
「お前え、一体、何でそれを?」
「当たり前さ。あたしは、あんたの女房なんだよ。そんなもんは、お見通しだよ。」
若い噺家がお辞儀をした顔を上げると、人情話には弱いらしく、硬い客のうちの何人かは、目頭に手を当てたり、袖で顔を拭ってる。
しかし、肝心の真ん中に座らされている年寄りの客は、眼を瞑ったまま、笑いもしなけりゃあ、泣きもしない。
おい、おい、爺さんよ。いい加減にしてくれよ。何の反応もないって、ホントに死んじまってんじゃねえのかい?それとも、何かい?そんなに俺の事が気に入らねえのかい?
よし、分かった、こうなりゃ、あんんたと根競べだ。話なんか、まだまだ、いくらだってあるんだぜ。
若い噺家は、腕を捲って、次の話をしはじめた。
夜は更けて、町の騒音もなく、他の客も異様な雰囲気に声も出さず、辺りは静まり返ってる。若い噺家と爺さんの二人だけしかいないみてえに。