20
朝日も上がらぬ内に起きたマルティアーゼは一人身支度をすると、隣で寝ているミエールを起こさぬように一人外に出た。
フォリオ宰相から貰った白い肌着の上からいつもの革鎧を身に付け、鎧の上から胸を隠すぐらいの短い赤の外套を羽織る。
革ズボンには赤い布のスカートを巻き付けて、腰には式典用の飾りの短剣を差し込む。
馬小屋に向かい自分の馬に餌を与え、体を水で洗い流し乾いた布で綺麗に拭うと馬は元気よく鼻を鳴らした。
その後は皆が起きてくるまでの間、外の椅子に座り物思いに耽っていた。
ローザン大公国にいる両親はどうしてるのだろうかと、今でも会いたい気持ちはあったが帰れば二度と外には出してもらえないだろうと、いつも思うのは失いたくはない今の生活とを天秤にかけてしまっている自分がいた。
マルティアーゼの思い描いた世界とは随分と違ったが、見た事も聞いた事もない生物や人々との接触は、彼女に一回りも二回りも見聞の幅を広げてくれた。
まだ行った事も無い土地は沢山あり、まだ新しい経験を得られる場所があると思うと胸が熱くなってくる。
(全てを見たい……でもそれだけの時間は私にはもう無いかもしれない、いずれは決断しなければいけないのよね、その時に私はどうするのかしら、たった十日余りで人生が百八十度変わった気がするわ、本意ではなく物事に流されて決断する機会を逃してしまった私の責任……私に出来るのだろうか、自分の生き方に自信を持って決める事が……)
「マルちゃんおはよう、此処にいたのね」
突然声を掛けられてマルティアーゼは驚いた、薄暗い宿の入り口に人影がぽつりと立っていた。
ミエールは起きた時、隣にマルティアーゼがいない事に心配して慌てて降りてきたのであった。
「おはよう、まだ早いわよ」
「マルちゃんこそこんな朝早くに何をしてるの、姿が見えないからもしかして一人で行っちゃったのかと心配したわ」
「ううん、起きたら目が冴えちゃって……馬の世話してたのよ」
「今日はエスタル王に会うんだからしっかり寝ておかないと、って言っても無理だよね」
マルティアーゼは返事はせずに苦笑いをした。
「私も馬に餌をあげておこうかな」
そう言ってミエールは馬小屋に向かって歩いていく、彼女が餌を与えて戻ってくる頃に宿からフィッシング達も出てきた。
男達は皆眠そうに無言のまま黙々と自分達の馬を連れ出して乗り込んだ。
「行きましょう」
マルティアーゼが短く伝える。
まだ薄暗い中、フォリオ宰相からそれぞれ貰った服を着て同じような格好の五人が街道を進む。
フィッシングの外套はマルティアーゼの色違いの青だったが、他は魔道士用には男性は青、女性は赤の刺繍の入ったローブとフード、腰には飾り紐を巻いて護符の首飾りをぶら下げている。
ここからエスタル市との間にブリンタスの丘がある、距離的にもさほど時間が掛かるわけでもなく約束の時間には十分間に合う。
直線の街道を行くと、途中に東に曲がるもう使われていない細い道がひっそりと隠れるように続いている。
先導するフィッシングがその道を見つけると一度立ち止まり、
「ここだ」
指を差し道を示した。
誰も来る事がなくなった道は両側から生い茂る草木で覆われていたが、はっきりとまだ道だと分かるぐらいの轍の跡が見えていた。
そこを五人が静々と入っていく。
夜中なら不気味で何かが出てきそうな雰囲気の道を真っ直ぐ進んでいくと、いきなり目の前に広い草原が現れる。
何もない短い草の生い茂る広場の先に緩やかな上り坂になっている丘があった。
まだ日は昇っておらず青白いその丘の上に天幕のような黒いシルエットが見え、周りに人がうろついているのが見えた。
五人は馬から降りて馬を止めておくと丘を登って天幕に向かう。
「止まれ! 何者だ」
丘の上から声が飛ぶ。
マルティアーゼは立ち止まり、名を名乗るとエスタル王に会いに来た事を相手に告げた。
すると天幕の中から人が出て来て、マルティアーゼの元に近寄ってくる。
年を取った初老の男だが背筋が真っ直ぐで品のありそうな出で立ちをしていた。
「マルティアーゼ様お待ちしておりました、私は左大臣のザロイ、陛下がお待ちで御座います、こちらへ」
ザロイ左大臣はマルティアーゼ達を天幕の前まで連れて行くと、彼女以外は外で待つように伝えて二人だけで中に入って行った。
天幕の周りは十人ほどの兵士がいたが、ザロイとマルティアーゼが天幕に入って行くと、天幕から一定の距離を取って広がり周囲を警戒した。
フィッシング達も天幕から離れた所で待機し、会談が終わるまで待つ事にした。
天幕の中は広く中央には大きな卓が置かれ、卓の向こう側にエスタル王が座っていた。
「エスタル王国エスタル・ストロマエ十三世であらせまする」
ザロイ左大臣がそっとマルティアーゼに告げた。
「陛下、マルティアーゼ様をお連れ致しました」
そう言うと、ザロイは王の後ろに下がった。
「お初にお目に掛かります、ローザン・オリスの娘マルティアーゼで御座います」
マルティアーゼが膝を着いて名乗った。
王は立ち上がるとマルティアーゼに近寄り、肩に手を掛けて立たせた。
王は人より背が高く見られるマルティアーゼよりも頭一つ分は高く、風貌はマルティアーゼが想像していたとは違って恰幅が良く、威風堂々として強面な人物ではなかった。
背丈に比べて体は細く、身に着けている衣服は重そうに感じられるほど豪奢なのに、顔は面長に見えるぐらい頬が痩けている、しかし目だけは切れ長で二重がはっきりとした力強い眼光を放っていた。
「おおっ……おお……マルティアーゼ、本当にマルティアーゼなんだな、おおぅなんと大きくなったものだ」
エスタル王はマルティアーゼの手を取り、目を見開いてじっと見つめてくる。
王の目からじわりじわりと目に涙が溢れ、頬を伝って落ちていく相手の顔をマルティアーゼはじっと見つめていた。
「本当に大きくなった、お前の事を毎日、毎日どれだけ思っておった事か……一日たりとも忘れた事などなかったぞ」
ぽたぽたと止まらぬ涙を拭う事もせず言葉を震わせていた。
「妻もお前がローザンの所で健やかに暮らせているのかとても心配しておった、お前がローザン大公の元から消えたと密書が届いた時は、どれだけ心配して眠れなんだか……捜索も欠かさず行っておったが一向に見つからなんだのに、本当に生きていて良かった……ただそれだけじゃ」
マルティアーゼはどう答えたものか迷っていた、初めて会うエスタル王に聞きたい事を考えてはきたが、口にする機会がつかめずにいた。
エスタル王はマルティアーゼの手を放すと、ゆっくりとマルティアーゼを包み込むように抱きしめてくる。
細い体の感触がマルティアーゼに伝わった、その力はマルティアーゼでも跳ね返せるほど弱そうだが安心出来る温もりがあった。
「お前は儂の事を覚えておらぬか……無理もないお前はまだ小さかったからの、昔に一度ローザンの所に行った時に会っただけだからの、なんと長い時間が経ってしまったのか……」
またもや王の目から涙が零れ落ちていく。
「陛下、立ってお話をするのもお疲れになりましょう、マルティアーゼ様もお困りになっておられます、座ってゆるりとお話下さいませ」
ザロイの隣のふくよかな男が言った。
「そうじゃな、では座って話をするとしよう」
エスタル王はマルティアーゼを解放すると席に着くように促し、涙を拭うと一息いれて彼女に顔を向けた。
「まずはこの者達を紹介しよう、この二人は我を支えてくれておる右大臣のコドスと左大臣のザロイじゃ、お主が生まれた時の事もよく知っておるから心配せずともよい」
「右大臣のコドスで御座います、王女様にはお初にお目に掛かれますと言った方が宜しいですかな」
いかにも大臣らしい、小太りの優しい目をした初老の男性が蓄えた髭がぴくぴくと動かして言ってきた。
「改めて、左大臣のザロイで御座います」
こちらはコドスと違い紳士のように凜々しく毅然とした態度だったが、年齢はこの中で一番上なのだろう、顔には深い皺が幾つもあった。
席に着き落ち着いた王は改めてマルティアーゼの大きくなった姿を見つめた。
「マルティアーゼよ、お主は儂との間柄の事を何処で知ったのだ、ローザンにはお主の素性を告げぬようにと言っておったのじゃが……そうかイングリンスか、あやつが教えたんじゃな」
「いえ違います、王様はとても優しいお方でした、私がこの事を知ったのはアルステルに現れた魔導師です」
「それは今回アルステルに襲撃を仕掛けてきたという首謀者の事ですな」
後ろからコドス右大臣が聞いてきた。
「はい、恐ろしく強い力をもった魔導師でした、その魔導師バルグに襲われた際に私の肩の紋章を見てエスタルの王族だと云ったのです」
その後、今に至るまでの説明を時間をかけて話している間、王と大臣達はじっと彼女の話に耳を傾けて聞き入っていた。
外は日の出が始まり朝露が空に昇っていく時間、マルティアーゼの話が終わると王は頷き分かったと一言答えた。
「お主には教えねばならぬようじゃな、もうそれを受け止めるぐらいの歳にもなっただろう、良く聞きなさい」
「はい、どんな事でももう受け入れる覚悟は出来ています」
「うむ宜しい、ではまずは王家の紋章の事から話そう」
エスタル王は一息入れてから話始めた。
「王家の紋章はいわばこの世の魔法の礎となるものじゃ、この紋が無くなるという事はこの世から魔法というものが無くなる事、その紋を持つ者は絶大なる魔力を宿す身となり、その紋章を守り受け継いでいくのが我々エスタル王家の運命なのだという事を忘れてはならぬ、そしてその紋章を受け継ぐ者は初代エスタルから男子一人のみに受け継がれてきた、どれだけ子供が生まれようともその中の一人だけにしか王家の紋章は現れない、それ以外の子供達は王となる者を補佐をする、それが例え末弟であってもだ」
「それが私にも……」
「お主には四つ上の兄がおる、ファリスが生まれ紋章が現れた時、儂は安心した、これで王家の跡継ぎが出来たとな、じゃがその後お前が生まれた時に愕然とした、女子の身でありながら紋章が浮かび上がった事にな、どうしたものかと慌ててこの二人に相談をしたのじゃ」
マルティアーゼが二人を見上げると、二人はゆっくりと頭を垂れた。
「このような事は初めてで、何か良からぬ災いが訪れるのではないか、この世に二人の王がいるという事が知られればどのような災いが起こるか、将来兄妹で争いなどが起こるやもしれぬ、そうなってしまったら誰にも止める事が出来ぬ、そこでこの二人と妻とで話し合ったのじゃ、まだお前が生まれた事を国民に知らせておらなかったのがせめてもの救いじゃった、お前を殺める事も出来たが生まれて間もない娘を殺す事など誰が出来ようか……それならばとザロイの提案でお前を死産として扱い、丁度その時期にローザン大公妃が死産された事を聞かされておったので、直ぐに使いを出しお前をローザン大公の娘として育ててくれないかと事情を話したのじゃ、ローザンは昔、儂の下におった臣下、武勇一辺倒な男じゃが悪くするような奴ではないのは知っておった、勿論妻は反対しとったよ、愛娘を他所に預けるなどはしたくないとな、それでもなんとか説得してお前をローザンの所に送り出した、国民には死産として公式で伝えたが、儂や妻は預けてからもお前の事をずっと思っておった、許してくれぬかマルティアーゼよ……あの時はそうするしか考えられなんだ、儂はお前よりエスタル王国を守る事を選んでしまったんじゃ……済まぬ」
「…………」
エスタル王はう俯き堪えきれぬ嗚咽を漏らし、身の上を知ったマルティアーゼは不思議な感情で支配されていた。
ローザンにいる父や母は私の事をどう思って私と接していたのか、赤の他人から父や母と呼ばれてどうだったのか、目の前のエスタル王はどのように思いながら我が子を他人に預けたのだろうかと考えると、マルティアーゼは今までの父母や初めて会った親にどのように接すればいいのか迷っていた。
こんな時は何と言えば良いのか、実際に直面して分かる喉から声が出ないという事はこんな感じなのかと思った。
生まれた時からこの世に不安と混乱を招いていた事、この世界にとって争いの種となる存在だった事に驚きを感じ得ずにはいられなかった。
「わ……わた……私は自分の出生など気にも留めていませんでしたし、何の疑いもなく今までローザン・オリスの娘だと思っていました、これからは父や母の事をどう思えば良いのか分かりません、私が国を出たいと思わなければこのような運命の溝に落ちなかったのに……」
「おお何を言う、何故その様に自分を責める……悪いのは儂じゃ、お前にその様な思いをさせるつもりなどなかった、全ては儂が決めた事……お前の所為でもローザンが悪いのでも無いのだぞ」
エスタル王は驚き慌てて口を挟んでくる。
「ですが、私の行いで沢山の人の運命を弄んでしまいました、母は子供を亡くしたというのに私が父や母を捨てて国を出てしまった、私に付き従ってくれた者も私の為に何度も傷付けてしまった、私の所為でアルステルに災いをもたらし大勢の人が亡くなりました、全て私の勝手な行いが皆を苦しませてしまったんです」
「マルティアーゼよ嘆くでない、その中にあっても儂はお前とこうして会う事が出来た、でなければ儂は一生お前に謝る事も出来ず後悔しながら死んでいたかも知れぬ、これも何かの導きではないか」
「陛下、私の行いは悪い事だったのでしょうか、あのまま国に留まり何も知らずに生きていく事が良かったのか、周りの人を心配させ迷惑を掛けてばかりの私はそっとあの籠の中で生きていた方が良かったのでしょうか、私は一体どのようにすれば良かったのか、ただ空の下に何があるのか知りたかった、地平線の向こうに何があるのか見てみたかっただけなのに、どうしてこんな事に……お話をする友達もおらず一人夢を見るだけで願いを叶えてはいけなかったのでしょうか、ならばいっそ生まれた時に殺して……欲しかった」
マルティアーゼの瞳から大粒の涙が零れた、叶わぬ願いならいっそ消えてしまいたい気持ちで一杯だった。
「……何を言う、儂はお前が生まれてとても嬉しかった、ローザンの所に行ってしまってからもお前がどんな女性に育ってくれているかいつも妻と話しておった、こうして会って儂の想像を超えた美しい女性に育ってくれて驚いておる、早く妻にも顔を見せてやりたいぐらいにな、もう悪い出来事を全て自分の所為にするでない、人は先の出来事を見る事は出来ぬ、その時その時を生きる存在じゃ、儂が全て良きに計らうから心配せずとも良い」
エスタル王が顔を手で覆うマルティアーゼに優しく言葉をかけた。
「陛下、この後の事をお伝えしなければ時間が御座いませぬぞ」
コドス右大臣が後ろからそっとエスタル王に伝える。
「そうじゃな、最近は体力も落ちてきたので公務を少しずつファリスに任せておるが、まだ重要な案件は儂がやらぬといけぬでな、朝の謁見までには帰らねばならんのだ、そこでお主の為に居場所を用意させておる、いずれは臣下の者に説明はするがそれまでローザン公女として滞在すれば良い、どうじゃ儂と城に来てくれぬか、この先の余生を少しでもお前が側にいてくれればこれほど嬉しい事はない、ローザンの事もあろうが儂から伝えよう、ローザンに会いたければいつでも会いに行けば良いが、ただ儂の目の届く場所にいてくれまいか?」
「私には……私の一存では決めかねます、今は私にも友がいます、付き従ってくれる者もいます、その人達を捨てて一人王宮に入る事など出来ません、私にとってはかけがえのない友人達なのです」
「おおっ勿論その友人達も連れてくれば良い、お前が心を許す友人なら儂も歓迎するし役職も与えよう、どうじゃそれでも駄目か?」
「私が外で待っておられるご友人に聞いて参りましょうか?」
ザロイ左大臣がマルティアーゼに聞いてきた。
「いえ、まだアルステルにも私達の帰りを待つ人達が居ますので……一度は戻らなければなりません」
「では、来てくれぬのか……」
エスタル王が叶わぬかと肩を落とした。
「時間を頂けますでしょうか、皆と話し合いたいと思います」
まだそうと決まっていないと知ると、
「おおっ、勿論良いとも良いとも、良い返事を待っておるぞ、いつでも城に来られるように門番には伝えておくからの」
エスタル王に笑みが戻る。
「では、私はこれで失礼致します」
マルティアーゼが天幕から出て行こうと背を向けた時、
「マルティアーゼ様、これを見せれば通してくれましょう」
コドス右大臣が懐から出した木札を差し出してきた、それを受け取るともう一度お辞儀をして天幕から出て行った。
「それにしても美しく立派になったものだ」
マルティアーゼの出て行く様を見守りながらエスタル王は感嘆を漏らした。




