吸い込んで、吐き出す想い
七時に鳴るはずの目覚ましを五分前に止めてリビングに向かうと、母さんが開口一番こういった。
「佐内山が消えちゃったのよ」
訳がわからぬといった表情でぼんやりしていると母さんは手招きをしてキッチンの方へと呼び寄せる。コンロ脇の小さな内倒し窓を開け、ちょいちょいと指を動かし覗くよう促される。
「えっ……うわっ、ほんとだ……」
そこに、昔から慣れ親しんだ佐内山の姿は、本来あるべきはずの暑苦しいくらいの緑の塊は、存在しなかった。代わりに遠くに見えるのは、佐内町の町並みと佐和田線を走る電車のくすんだベージュの車体。佐内山があったはずの場所は焦げ茶色の更地が広がっているだけで、その周囲を迂回するように敷設されていた道路がいまは不自然な軌跡を描いている。
「そろそろニュースになってるかしら」
なぜか少し楽しそうに母さんはつぶやく。リビングに向かってテレビのチャンネルをいくつか変えているが、佐内山について報道しているニュースはまだないようだ。
もう一度、昨日まで佐内山だったはずの更地を見て、窓を閉める。慎重すぎるほど慎重に、ガラス細工を扱うかのように繊細な動きで、時間の流れが突然遅くなったのではないかと錯覚するほどの緩慢な動作で、僕は窓を閉める。思えば、自分はいま窓を閉めているのだと自覚しながら、その事実を噛み締めながら窓を閉めたことなどこれが初めてだった。
当たり前だ。そんなことをいちいち考えないでも普通は窓を閉められる。
そう、いまの僕の精神状態は普通でなかった。それはなぜか?
僕が佐内山を消した犯人に気づいてしまったからだ。推測の域を出ないとは言え……いや、それでも彼女以外思い当たらない。
朝食を口にしながらテレビを眺めていると、とうとう、上空から佐内山(であった更地)の様子を映した映像が流れた。レポーターも興奮しているようで、高い声と早口なしゃべり方から内容が聞き取りづらい。
スタジオの司会者やコメンテーターの反応も唖然としているのが大多数で、大規模な土砂崩れなのか、隕石の衝突で消し飛んだのか、はたまた軍事兵器の実験が極秘裏に行われたのか、様々議論が交わされていたが、どの意見も話している本人が信じ難いと思っている様子で、口ぶりは重かった。
それも仕方のないことだろう。なにせ佐内山があったはずの更地には、佐内山の残骸らしきものがひとつも残っていないのだから。窓から見たときは、なんらかの理由でその残骸をすでに除去したあとなのかもしれない、と思いもしたが、それにしては綺麗すぎるし、重機が入ったような痕跡もなかった。テレビでも「山がそっくりそのまま消えてしまったようです!」と大騒ぎしていたから、佐内山は破壊されたのでも崩壊したのでもなく、やはり綺麗さっぱり消滅してしまったのだ。
もしかしたら、佐内山消失事件を論理的かつ科学的に説明してくれる偉い人が出てきて、僕の考えをひっくり返してくれるんじゃないかとも期待したが、悲しいかな、僕にはその登場を待つ時間はない。テレビに釘付けになっている母さんを残して、僕は学校へ行く身支度を整え、家を出た。
時間を確認する。恐らく、あと五分もすれば、彼女が出てくるはずだ。
僕は斜向かいに建つ十和田家の門に寄りかかり、そのときを待った。
玄関が開く音がして、門をくぐって現れたのは、予想通り十和田絵里だった。
「おはよう」
僕が声をかけると、絵里はぎょっとした表情で立ち止まる。そのまま数秒固まったままの彼女の顔を見てみると、目の下のクマが酷く、茶色がかったセミロングの髪も今日はいつもよりぼさっと暴れている。
「おっ……」
おはようと言いかけて口をつぐみ、ぷいと視線を逸らすと彼女は僕の横を早足で通り過ぎていく。
「絵里、待ってよ」
僕の呼びかけを合図に、早足は駆け足へ。ローファーが小刻みにアスファルトを叩く音が段々遠ざかって、絵里の姿は曲がり角の向こうに消えていった。
追いかける必要はないと感じた。いや、むしろ、追いかけるべきではないと思った。
絵里の表情と反応から僕の推測が正しいのはまず間違いない。だとすれば、執拗に詮索するのは良くないだろう。その正否だけ確認できれば十分だ。
十和田家の二階を見上げる。美郷姉ちゃんはもう起きただろうか。佐内山が消えてしまったことはもう知っているのだろうか。その消失の原因に心当たりはあるのだろうか。
じきに美郷姉ちゃんも家を出てくるだろうが、自分の中でももう少しこの件について整理したくなって、僕は学校へと向かうことにした。姉ちゃんには昼休みにでも教室に行って話を聞いてみよう。
家の前の通りを抜けたところで、かつて佐内山が聳えていた方へ目を向ける。今朝、窓越しに見た光景よりもくっきりはっきりと、佐内山は自身の不在をこれでもかと誇示していた。見晴らしはいいが、どうにも頭が痛くなる光景だ。
※
絵里が初めて消し去った物体は(もちろん、僕が確認した中での話だが)、どこにでもあるような青色のジョウロだった。
小さな頃から、僕と絵里と美郷姉ちゃんは家が近所で年頃も近いこともあってよく一緒に遊んだ。
僕らの家は街の中心部から離れていて、辺りを田畑に囲まれた典型的な田舎。遊具の設置された公園もなく、僕達の遊び場は家の庭やまわりの道路。その日はそうした限られた遊び場に飽き飽きした美郷姉ちゃんが、近くの畑で遊ぼう、と僕達を引き連れていった。
いままでなんとなく入ってはいけない場所と認識していた畑の中に、美郷姉ちゃんは躊躇なく足を踏み入れ、一気に奥まで走っていった。
「うは、土が靴の中に入るー」
僕は最初本当に畑の中に入っていいのか怖気づいていたけど、姉ちゃんのその奔放さにあてられたのか恐る恐るながらも足を踏み出した。
一方、絵里はというと、僕が姉ちゃんのところに辿り着いたときでも、まだ農道の端っこに突っ立ってぶすっとした顔をしていた。絵里は昔から口数が少ない代わりに、表情に感情が表れやすい女の子だった。
恐らく、ほっといても絵里はこっちに来ると姉ちゃんは思っていたのだろう。相変わらず、畑の前で棒立ちの絵里には目もくれず、姉ちゃんは屈んで畑の土を手でいじくりはじめた。
「絵里ー! うちからじょうろ持ってきてー!」
姉ちゃんが呼びかけると、絵里は眉間にしわを寄せた。
「水もちゃんと入れてきてねー!」
絵里はもごもごと口を動かしたあと、家の方に歩いていった。
しばらくすると、よたよたと重そうにジョウロを抱えた絵里が戻ってきた。
「こっちまで持ってきてー」
絵里がまた顔をしかめる。姉ちゃんはそんなことお構いなしに「早くー」と急き立てる。絵里は不満そうにしながらも危なっかしい足取りで畑に降りてくる。
僕はその様子が見てられなくて、絵里を助けに行った。
「ありがとう、絵里。こっからは任せて」
僕はおぼつかない足取りの絵里からジョウロを受け取る。彼女は中身をこぼさないよう手元のジョウロに集中していたらしく、突然目の前に現れた僕に驚いた様子だった。
受け取ったジョウロは予想通りどっしりと重く、慎重に姉ちゃんのもとへ戻る。
足元の土に水をかけると姉ちゃんが手際よく濡れた土を掘り分けて、溝を掘る。そこにまた水を注いでいくと、小さな川ができた。
僕も一緒になって川を伸ばそうと掘り進めていく。ふと、気になって後ろを振り向くと、絵里はさっき僕がジョウロを受け取った場所でうつむいていた。
その様子が気になって、僕は絵里の方をじっと眺めていたのだが、すると姉ちゃんが「あれ?」と声をあげた。
姉ちゃんはきょろきょろと辺りを見回していた。先程まで脇に置いてあったはずのジョウロが綺麗さっぱり消えてしまっていたのだ。
僕も慌てて探したがどこにも見当たらない。他の場所に持っていった記憶もないし、そもそも周りは一面土だらけの畑で、隠せるような場所もない。文字通り、ジョウロはその場から消滅してしまったのだ。
「絵里! またあんたでしょ!」
姉ちゃんが怒ったような口調で言う。絵里はそっぽを向いて、そのまま、農道の方へと歩いていってしまった。
このあとも、ことあるごとに姉ちゃんの使ってたシャーペンだとか、僕が新しく買ったばかりのゲームソフトだとか、いろんなものが絵里に消された。そして、それらの消失が起きるとき、絵里は決まって不満げな表情をしていた。
絵里は文句や反論を聞こえるように口に出すこともないし、涙をながすところも見たことがない。その代わり、彼女は溜まった鬱憤を物を消し去ることで発散させているのだと、僕は思っている。
その物の大きさと彼女の抱えた不満が比例しているかどうかはわからないけれど、今回は佐内山という規格外のでかさのものが消えてしまった。絵里はいったい、どんな不満を今回抱えてしまったのだろう。
※
昼休み、僕は美郷姉ちゃんのいる2-Bの教室に来ていた。授業が終わってすぐに来たから、人の出入りが激しい。教室の中を覗くと、廊下側の後ろの席で他の女の子と談笑する姉ちゃんの姿があった。
なんとなく、気が引けて中に入れずにいると、姉ちゃんの視線が僕を捉え手を振ってくる。僕が手招きをする前に、姉ちゃんは友達になにかを告げて、こちらに来てくれた。
「やあやあ、瑠璃くん。どしたの?」
今朝、佐内山が消えたことなんて知らないとばかりに飄々とした態度で姉ちゃんは口を開く。だけど、気づいていないはずがない。
「佐内山が消えたのは知ってるよね」
「うん、知ってるよ。さすがの私も……びっくりだね」
「やっぱり、絵里が?」
姉ちゃんは「うーん」と唸りながら、視線を落とす。
「そうだろうねー」
「姉ちゃんは……心当たりとかある?」
「心当たりかー……」
今度はわざとらしく瞳をぐるりと回す。なんだか姉ちゃんにしては珍しく焦っているというか、歯切れが悪いような印象を受ける。
「えっとね、昨日二人で撮ったプリクラあるでしょ?」
「ああ、ゲーセン行ったときの」
「そそ、あのラブラブ~って感じのやつを絵里に見せたんだけど……そしたら、急に部屋の中に引きこもっちゃって」
「それが原因ってこと?」
「まあ、もっと正確に言うとプリクラ見せながら、私たち付き合い始めたんだ、って言っちゃったりしてたり」
「はぁ!?」
「冗談だったんだよ? ほんの冗談。なのに、絵里ったら血の気の引いた顔してだだだって走って逃げちゃうんだもん」
「でも、なんでそれで逃げるの……?」
姉ちゃんがきょとんとした顔をする。そのまま、まじまじと僕の顔を覗き込んでくる。
「な、なに?」
「……なんでだろうねえ。お姉ちゃんには妹の気持ちがわかりません」
これまた大仰な素振りでうんうんと困ったように頷く姉ちゃん。本気で困ってるようにはもちろん見えない。
「ほんとはわかってるんじゃないの?」
「うん、わかるよ」
「じゃあ、教えてよ」
「それは……ダメだ」
「どうして?」
「それはね、答えは自分で見つけなきゃいけないものだからだよ、瑠璃くん」
そう言って、姉ちゃんは僕の頭をぽんぽんと叩いた。身長はすでに僕のほうが随分と上だけど、その手の感触が温かくて、懐かしくて、僕はなんだか気恥ずかしくなった。
「今夜、電話するから、そしたらうちにおいで。そして、自分で直接、絵里に話を聞いてみて。大丈夫、姉ちゃんの言うことを聞いておけばなんでもうまくいくんだから」
そう言って、姉ちゃんは優しく微笑んだ。
※
夜になっても、佐内山の跡地は人工の光によって煌々と照らされていた。
母さんによると、昼過ぎから現場の調査人員の数がどっと増えて一般の人々が近寄れないほど警備も厳重になったらしい。いまは跡地内にはまばらにしか人の姿は見えないが、その周囲はバリケードと警官によって隙間なく包囲されている。なにを調査しているのかわからないが、山が消えた理由を説明できるようなものは、果たして見つかったのだろうか。
部屋の窓から、そんなことを考えつつ外を眺めていると、携帯の着信音が鳴った。慌てて、電話に出る。
「瑠璃くん! いま来て! すぐ来て!」
むこうも慌てていたのか、姉ちゃんの声が途切れながら耳に飛び込んできた。その後ろから、ドアを叩くような低い音も聞こえる。
「姉ちゃん、いまなにしてるの?」
「絵里の部屋に籠城してやった! いまなら奴に逃げ場はない!」
「なんでそんなにノリノリなの……」
「いいから早く来てね! 私だってそんなに持ちこたえられないんだから!」
そこで電話は切れた。本当にどんなときでも姉ちゃんは姉ちゃんのままだ。
階下に降りて、母さんに一声かけ、玄関を出る。もうすぐ夏とは言え、夜の空気はまだ少し冷たい。
十和田家のチャイムを鳴らすと、すぐにおばさんが応対してくれた。いつもの調子で、事情も聞かずに僕を中へと通してくれる。「お邪魔します」と頭を下げて、階段を上り絵里の部屋へと向かう。二階に近づくにつれ、絵里の声がはっきりと聞き取れるようになった。
「お姉ちゃん、ふざけてないで開けてってば! いい加減にして!」
ドア越しに姉ちゃんの声も聞こえるがくぐもっていてよく聞こえない。僕が階段を上り終える頃に絵里は気配に気づいたのかこちらを振り向き、表情を歪ませた。
「やあ」と声をかけようとした瞬間、絵里は姉ちゃんの部屋の方へ早足で向かう。そのまま、ドアを開き中に入ろうとする、が。
「あれ、なんで鍵かかってんの!?」
「かかったな、絵里。私がどうやってこの部屋に入ったか気づいていなかったようだね」
扉越しに姉ちゃんの高笑いが聞こえる。
「どうやってって……あっ! ベランダ伝いで入ったの!?」
「そうそう、どうせこうなると思ったから、あらかじめ私の部屋の鍵を閉めて窓の方からこっちに入ってきたってわけ」
「ぐぅ……」
「じゃ、あとは瑠璃くんよろしくねー」
絵里が視線を落としながらこちらに顔を向ける。
「ここじゃなんだし、ちょっと散歩でもいかない?」
絵里は何の反応も見せなかったが、僕が先に階段を降りていくと黙ってついてきた。
外に出て、田んぼの方へと向かう。特に目的地があるわけではないが、とりあえず人気がない方へ歩こうと思った。ぽつりぽつりと街灯の灯った農道を歩く。振り向くと少し距離を置いて絵里がついてきていた。
暗いオレンジのパーカとジーンズ。空気が冷たいから寒くはないかと心配したが、表情を見る限り、暑い寒いだのそんな問題は頭のどこにもないといった風だ。
街灯の下で立ち止まって僕たちは向かいあった。距離は依然として開いたままだ。絵里は目をあわせようとしない。右手で髪をいじりながら、田んぼの方を見ている。
「多分、何の話だか絵里もわかってると思うから、単刀直入に言うね」
表情は変わらないが、絵里の肩が小さく震えたように見えた。
「昨日、姉ちゃんが僕と付き合ったなんてことを話したみたいだけど、あれは嘘だから」
絵里が、僕の方に視線を向けた。驚いているようにも見えたし、まだ信じられないというような疑心も垣間見える。
やがて、絵里は「そう」と呟くと、自嘲気味に笑ってこう続けた。
「じゃあ、私、ほんと馬鹿みたいじゃん」
「やっぱり……それが関係してるの?」
絵里は返事をしなかった。ただ、場に重く漂う沈黙がその答えを表していた。
しばらくすると、絵里はその場にしゃがみこんだ。立っていることが煩わしいとでも言うように、投げやりな感じに見えた。
「ほんとかどうかとか、どうでもよかった。心のどこかではいつもの冗談だと思ってた。それなのに、その言葉を聞いただけで、私……」
消え入りそうな声で呟くと、膝に顔を埋めてしまう。僕は彼女の方に歩み寄って、同じようにしゃがみこんだ。彼女の言葉をもっとよく聞こうと思った。
「もうやだ、こんな意味わかんないの。なんなの、なんで佐内山が消えるの。あんなおっきなもの……大騒ぎになって人も大勢来て……私どうなってるの……どうすればいいの……」
「絵里のせいじゃないよ」
「じゃあ、誰のせい?」
「それは、変な冗談を言った姉ちゃんかな」
「関係ないって……いずれにしろこうなってたもん、きっと……」
「……ごめん、絵里。もうちょっと詳しく聞いてもいいかな」
絵里は少しだけ顔を上げてこちらを見た。こんなときでもやはり、彼女の瞳に涙は浮かんでいない。
「その、どうして、姉ちゃんと僕が付き合ったって話を聞いて、こういうことになっちゃったのかな」
絵里の目が驚きに見開かれた。瞳が微かに揺れているのがわかった。
「それ、本気で言ってるの?」
僕は恐る恐る頷く。絵里の瞳が落胆の色に染まって、再び視線を落とす。彼女はどうやら、僕がその理由を理解していると思っていたようだ。
僕と姉ちゃんが付き合った。そう思って、絵里は佐内山を消してしまった。その間にある感情の推移に、推測を全く立てなかったわけじゃない。
男女間の恋愛沙汰に関することなのだから、きっとそこにあるのは嫉妬だ。そして、その対象になるのは僕か姉ちゃん。思い当たる節がないだけに確信には至れなかったが、絵里が僕のことを好きなのかもしれない、と考えなかったわけではない。
でも、繰り返すようだが、そこに根拠が見当たらないのだ。だから、絵里の口からはっきりと聞きたかった。その理由を、明確に言葉にして欲しかった。いくら、表情に表れやすいといってもこんな大切な気持ちまで読み取れるわけじゃない。
「もういい……どのみち、今更言ったところで……だったら、もういいよ」
絵里が抑揚のない声で呟くと、目の前に信じられない光景が広がった。
絵里の足が消え始めていたのだ。
「え、絵里! 足が!」
「もう、消えちゃえばいい。みんなに迷惑をかけるくらいなら、いっそ」
「絵里! ダメだよそんなこと!」
どうしていいのかわからず、とにかく絵里の足を掴もうと手を伸ばした。消えかかっている膝の部分を掴もうとして、僕の両手は空を切った。
「やめろ、絵里! 自分を消したってなんにもならないだろ!」
「消えなくたってなんにもならないよ。いや、山とかいろいろ消してる分、消えないほうが厄介でしょ。私なんて」
「自暴自棄になるなよ。どうしてものが消えるのか、自分で考えたことはあるか?」
「そんなのわかるわけないじゃん。こんなわけわかんない現象。私が教えてほしいよ……」
「そんなことない。自分でわかってるはずだ。ものを消してしまうとき、いつも自分がどんな思いをしているのか」
「そんなの……わかったところでどうしようもない」
「どうしようもなくなんかない! 吐き出せよ、溜め込んでるものを。絵里はもっと、自分の想いを言葉にしたほうがいい」
「言ったってなにも変わらないよ!」
「言ってみなくちゃわかんないだろ!」
「わかるよ! 瑠璃は私のことなんとも思ってない。私のこと全然気にしてもくれないし、手紙だって……スルーされた」
「手紙? いつのこと?」
「中学に入ったばかりのとき、何通もポストに入れたのに、覚えてすらいないの?」
「……ごめん、記憶にない。でも、忘れたんじゃなくて本当に覚えがないんだ」
「……ああ、そっか。手紙も、消えたのか、はは……」
絵里の身体はもう腰の辺りまで消えてしまった。空中に絵里の上半身だけが浮いている。消えた部分はどこにいってしまったのか。戻ってくるのか。
そんなことを考えていてもしょうがない!
「絵里!」
僕は絵里の肩を掴んで、顔をこちらに向けさせる。絵里の瞳は涙で潤んでいるように見えた。いままで見た中で一番女の子らしい表情だ、と思った。
僕は彼女の瞳をまっすぐ見つめた。
「絵里は、あんまり喋らないけど、楽しいときは本当に楽しそうに笑うし、気に食わないことがあるとすぐふくれっ面になる。絵里はそれをどう思ってるかわからないけど、僕はそんなところがずっとかわいらしいと思ってた」
絵里の表情が驚愕と困惑の色に染まる。その感情の揺れがおさまらない内に、続けて捲したてる。
「でも、小さい頃からなんだか僕には素っ気無い感じがして嫌われてるんじゃないかって思ったこともあった。だけど、僕が風邪で寝込んだときとか、骨折で入院したときとか、道端で転んで怪我したときでもそうだ、絵里はいつでも心底心配そうな表情で僕の様子を見に来てくれた。優しい言葉はなくても、その表情だけで、僕はすごく安心できたんだ。絵里が僕のことを想ってくれているって思えたから」
絵里の顔をこんなに近くで見つめるのは初めてだった。スッと通った鼻筋、小さな唇、幼いころの面影を残しつつ、けれどその中に大人への成長を匂わせる変貌を含んだ顔つき。美郷姉ちゃんに似ているけれど、決定的にどこかが違う、絵里だけの顔だ。
「絵里は僕のことをどう思ってた?」
絵里の瞳を覗き込む。瞬きをしてはいけない、と感じた。それほどに強く彼女の目を見つめた。
「聞かせてほしいんだ」
彼女の肩にやった手に微かな振動が伝わった。もう、そこから下の絵里の身体は消えてしまっている。それでも、絵里の体温は、呼吸は、感情は、この掌越しにまだ伝わってくる。
「うっ……」
絵里の瞳にはっきりとわかるほど涙が浮かんだ。僕が生まれて初めて見た絵里の涙だ。その透明な雫は、やがて瞳から零れ落ち、頬を濡らした。それを合図に、絵里が嗚咽とともに口を開く。
「うぅ……好きだよぉ。瑠璃が好きなのぉ! 小さい頃からずっと! どうしてわかってくれないの! わかってよ! 見てたのに! いつも、想ってたのに! お姉ちゃんとばっかり、いつも私を置いてっちゃうし! 寂しかった! 好きだったんだよ! うぐぅ……気づいてよぉ……」
嗚咽と泣き声ではっきりとは聞き取れなかった。でも、絵里がいままで紡いできたどんな言葉よりも、それは僕の心の深くにまで伝わってきた。
「好きだったんだよ、瑠璃ぃ……」
絵里は僕の胸に顔を埋めて泣いた。いままで我慢してきた分の涙を、どこかで堰き止めてきた想いの丈を一気に解放しているように見えた。僕は黙って絵里の頭を撫でて、それを受け止めた。
いつの間にか、消えかかっていた絵里の身体が元に戻っていた。本当のところはわからないけれど、絵里が我慢するのをやめたから、抱えた想いを外に吐き出したから、消失が止まったのかもしれない。そうだといいな、と思った。
※
翌朝、七時に鳴るはずの目覚まし時計をそのままにして、僕は階下に降りた。まだ本来の起床時間よりも一時間ほど早い。今日はいつもより随分早く目が覚めてしまった。
「ほんと、なんだったのかしらね。怖いわ」
リビングでは父さんと母さんが朝食を食べながらテレビを見ていた。テレビでは消えたはずの佐内山が戻ってきたニュースを伝えている。消えた原因もそうだが、今度は元に戻った原因まで探らなくてはならなくなっているようだ。
昨夜、絵里の身体が元に戻ったと同時に、どうやら絵里がいままで消してきたものも全て戻ってきたようだった。佐内山はもちろん、昔消された僕のゲームソフトもいつの間にか机の上に乗っていた。きっと、十和田家の青いジョウロも戻ってきているに違いない。
昨日、絵里が吐き出したものは、いままで彼女が我慢して抱え込んできた想いであり、それと同時に吸い込んできたあらゆるものだったのだろう。まさか、全部戻ってくるとは思っていなかったが、あのとき絵里に僕の想いを伝えて本当によかったと思う。
「あっ、瑠璃、なんか絵里ちゃんから手紙届いてたわよ。しかも何通も」
「えっ?」
そう言って、母さんは青やピンクやオレンジの色とりどりの封筒をテーブルの上から取り上げる。
僕は驚きながらもそれを受け取った。
もしかして、これは昨日絵里が言っていた……。
僕は手紙を持ったまま、玄関に向かった。外に出てポストを確かめる。まだ残っているかもしれないと思ったのだが、これで全部らしい。ポストの中は空っぽだった。
この手紙も、絵里によって消されていたのだ。中学に入ったときと言っていたから、二年越しに僕のもとに届いたということになる。
扉の開閉音が聞こえて、そちらに目をやると、絵里が外に出てきていた。あちらは新聞をとりに来たようだ。目があうと、びくっと震えたあと、視線を逸らされた。
「おはよう、絵里」
「……おはよう」
「手紙、届いたよ」
「えっ?」
ひらひらと手に持った封筒を揺らすと、絵里は驚いたように大きく口を開いた。
「やっぱり消えてたみたいだ。今朝、ポストを見たら入ってたって」
「い、今更、そんなの読まなくていいよ……恥ずかしい」
「ダメだよ。全部読むから」
「いいって……」
「それで、返事を書くから」
僕が笑いかけると、絵里はきょとんとする。
「僕もまだ言い足りないことあるし、ちゃんと読んでね」
絵里はまた恥ずかしそうに視線を逸らしつつ、小さく頷く。
「それでまた手紙を書いてくれると嬉しいな」
絵里の瞳が僕を捉える。いままでよりずっと澄んで、綺麗に見えた。涙がいろんなものを洗い流してくれたのかもしれない。
「うん、絶対書く」
絵里はそういって、嬉しそうに笑った。