1-1 十年分のプレゼント
「もう駄目だ……」
「早すぎだろ、音羽」
本格的に夏が近付き暑さが鬱陶しく纏わりつく日が続いている。後一か月も経たないうちに学校は学生が待ち望む夏休みへと突入する訳なのだが、しかし菜月はそんな状況でありながら事務所でぐったりとへばっていた。
夏休みが来る前に学生達を脅かす行事……期末テストがあるからである。
ミミズが這いつくばったような字で計算式を書いていた菜月だったが、あまりに分からな過ぎてとうとうシャーペンを放り出した。とはいえ呆れている空の言葉通り、テスト勉強を始めてからまだ十分しか経っていないのだが。
梅雨明けの容赦なく降り注ぐ日差しを避ける為にやって来た事務所は空調が効いていて居心地はとても良い。が、しかしだからと言って居心地に比例して勉強の意欲が増すという訳でもない。特に菜月にしてみれば恭一郎が事務所に居ない現在、数学で助けを請える人間が居ないことで余計に頭が回らない状態が続いていた。
「……いっくんって、いつ帰って来るんですか?」
「さあな。まあ怪異一体くらいならそんなに時間掛からないんじゃないか? 流石にやばかったら連絡が入るしな」
菜月の問いに答えたのは八雲だ。彼もまた菜月と同じようにぐったりと椅子の背凭れに寄り掛かり「やる気出ねえなあ」と呟いている。こちらは勉強ではなく仕事だが。
恭一郎は人間に危害を襲ったと報告のあった怪異の討伐に出掛けている。雅と空は二人で戦うことが多いようであるし一人で平気なのだろうかと菜月は不安になるのだが、八雲曰く、恭一郎は単独の方が気が楽なのだそうだ。
「八雲さん、仕事しないんなら菜月に数学教えてあげて下さいよ。私も説明できるほど分かってないし」
「あ、俺にも教えて欲しいです」
「あー、無理。俺教科書通りの方法で数学解いたことないし。問題文読んでなんとなーくで解くタイプだから」
「……天才め」
やる気が感じられないにせよ税理士なのだから計算は得意なのだろう。しかし他人に教えることが出来なければ三人にとっては意味がない。自慢しているつもりもなくごく普通にそう答えた八雲に菜月はため息を吐き、そして恨めし気に数Ⅰの教科書を眺めた。
「もう本当に数学嫌い。何? このグラフの曲線は一体何を表してるって言うの?」
「菜月、ちなみに中間テストの点数はどうだったっけ?」
「……15点。ちなみに部分点のみで、正解したのは無かった」
「酷いな」
菜月ほど酷くはないにせよ、雅も空もあまり得意だとは言い難い。三人で唸り続けていても埒が明かず、結局他力本願で恭一郎が帰って来るのを待つことにした。
息抜きに他の科目を勉強していると数学から解放された喜びでどんな教科でも楽しく思えてくるのだから、菜月は改めて数学に恐れをなす。
「……ねえ、話変わるんだけど。雅の異能って重力を変えることなんだよね?」
「え? うん。でも物理とか全然分かんないけどね」
理科総合の教科書を開いていた菜月はふと目に入って来た重力という単語を見て雅にそう尋ねた。
日下部雅、彼女の異能は重力を操ることである。より正確に言うのなら自分自身と、そして彼女が触れたものに掛かる重力を好きに調整することが出来るのだ。持ち上げる時は軽く、そして叩き付ける時はとびっきり重力を掛けて相手を粉砕する彼女の戦い方は、この事務所にいる異能者の中でもピカイチの破壊力を持つ。
「それで、高遠君は炎を操る異能」
「ああ」
菜月が見た初めての異能、それが高遠空の発火能力だ。凄まじい火力を持つ空の力は時にピンポイントに、時に広範囲を焼き尽くし怪異を灰にする。
そして菜月は体を捻ってようやく仕事を始めた八雲を振り返る。
「八雲さんは好きな場所にすぐに移動できる異能。……じゃあ、いっくんは?」
彼女が以前本人に尋ねた時は曖昧な言葉を使われた上はぐらかされた。雅の異能と同様にぱっと見ただけでは恭一郎の異能は何が起こったのか判断しかねるのである。
菜月の質問に雅と空は教科書から顔を上げ、そういえばと二人で顔を見合わせた。
「俺も前に聞いたことあったんだけど無視されたんだよなあ。単独行動多いし目に見える能力じゃないから相馬先輩の異能ってて分かり辛いんだよ」
「でも何か怪異を苦しめる感じのやつだよね。ナイフも使ってるみたいだから殺傷能力はなさそうだけど」
「二人も知らないの?」
「八雲さんなら知ってると思うが」
空の言葉に三人の目は自然と八雲へと向かうが、彼は書類に何かを必死そうに書き込んでおり菜月達と目を合わせない。――わざと合わせないようにしているのかもしれない。
「ねえ八雲さん、先輩の異能って具体的にどういうものなんですか?」
「あー……雅ちゃん。俺、仕事してるんだが」
「お疲れ様です。それで?」
八雲の仕事机にばん、と手を置いて追及する雅に八雲が口元を引き攣らせる。彼は少し言葉を探すように目を泳がせた後、「恭一郎の異能は、なあ」とぽつりぽつりと話し始めた。
「ほら、お前らもこの前使ってる所見ただろう? あんな風に怪異を錯乱させたり出来るんだよ」
「……それだけですか?」
「むしろそれなら何を言い渋ってたんですか」
言外に他にも何かあるのではないかと、雅に続いて空も八雲に詰め寄る。事務所の中で恭一郎の異能だけがはっきりしていないのだから気になるのは当然だ。まして誤魔化すような素振りを見せられれば余計に気になるというのが人の性である。
「人が居ない間に好き勝手に噂話とはいい趣味だな」
「あ」
「……いっくん、おかえり」
しかしそうして八雲に問い質していると事務所の扉が開き、非常に不機嫌そうな恭一郎が顔を出した。思わず「げ」と言葉を漏らした二人を冷やかな目で見た彼はそのまま何も言うことなく机に着こうとして、しかしその直前で八雲に制止された。
「おい待て、恭一郎」
「……何ですか」
「お前怪我してるだろ。左腕か? 隠してないで早く菜月ちゃんに治してもらえ」
「な」
「え、怪我?」
八雲の言葉に驚いたのか目を見開いて動きを止めた恭一郎に、菜月は慌ててソファから立ち上がって彼の元へと向かった。菜月からすればいつもと変わらないように見えるものの、しかしまるで図星ですと言わんばかりに硬直した彼を見れば八雲の言葉が正しいのだろうと判断できる。
「怪我って、怪異にやられたの?」
「恭一郎が怪我するのは珍しいな」
「……頭が悪い厄介な奴が横やり入れてきたので」
「頭が悪い?」
傍に来た菜月の視線から逃れるように顔を逸らした恭一郎がぽつりと呟いた言葉に、その場にいる面々が無意識に菜月を見てしまっていた。先ほどの数学のやり取りを思い出したのだろう。
「何で皆してこっち見るんですか!」
「悪い、つい」
「15点思い出したら、つい」
雅と空が笑いながら示し合わせたように言う。
「あー、まあ自我や知能が発達してない怪異が居たってことな?」
「そんな所です」
「自我って?」
「……俺の異能は意識がはっきりしてるやつにしか効かないんだよ」
菜月の発した疑問に、恭一郎は眉を顰めながらもしっかりと答えた。怪異の討伐は一体の予定でその怪異自体は恭一郎の異能は効いたのだが、乱入してきた別の怪異にやられたのだと。
観念したように恭一郎が左腕の袖を捲り上げると、そこには血は止まっているものの何かに噛まれたような痛々しい傷が残されていた。「これくらい大したことない」と呟く恭一郎を無視して菜月が腕に触れて傷を治していると、彼女はふと恭一郎の手首に見覚えのある時計が巻かれていることに気が付き目を瞠った。
「いっくん、これ……まだ着けててくれたんだ」
「十年分だからな」
「十年?」
菜月の言葉に興味ありげに腕時計を覗き込んだ雅は、十年という言葉に首を傾げて菜月を窺った。彼女は嬉しそうに顔を綻ばせており、「どういうこと?」と尋ねた雅に対して治療を終えた菜月は腕から手を放してすらすらと話し出す。
「これ、私が誕生日プレゼントにあげたものなんだけど」
「結構いい時計だよな。高かったんじゃないか?」
「うん……三万」
「「「はあ!?」」」
「……それもこの馬鹿がこれを買ったのは十歳の時だ。売った店員に文句を言いたかった」
皆から食い入るように時計を見られて嫌そうな顔をした恭一郎だったが、当時を思い出してか大きくため息を吐いて時計に視線を落とす。
黒い文字盤に銀色で数字と目盛りが付けられたフォーマルなデザインの腕時計だ。「いっくんに似合うだろうなと思って!」と張り切って渡され、そして値段を聞き出した時彼は本気で菜月に怒った。溜めていたお年玉を使ったから大丈夫と言われたがそういう問題ではない。
「お父さんの時計買いに行った時に一緒に行ったんだけど、その時に見つけて一目惚れしちゃったの。絶対にいっくんに似合うと思ったから後でこっそり買いに行って」
「でも十歳で三万のプレゼントはなあ、渡される方も困るだろ」
「困りましたよ、本当に。なつの家族も巻き込んで大騒ぎでした」
しかし保証書もなければ買った日付すら思い出せないという始末。返品も出来ず、最終的に恭一郎は時計を受け取る代わりに菜月に条件を付きつけたのだ。
『なつ、お前来年から俺に誕生日プレゼント渡すのを禁止する』
『え!?』
『絶対に駄目だ、いいな?』
『……いつまで?』
『そうだな……十年ってところだ』
『十年も!?』
『お前はそれくらい分の金額のものを買ったんだ! 分かったな、約束だ』
「……という訳なんだけど。いや確かに、私も今考えると思い切った買い物したなとは思う」
「いや菜月、十歳だったんでしょ!? 思い切った買い物ってレベルじゃないんだけど!」
「成程、だから十年分か。……それにしても、菜月ちゃんは昔からそんなに恭一郎のこと好きだったんだなあ」
「ええまあ……。って何言わせるんですか!」
「いや言わせるも何も、何を分かり切ったことを」
ぎゃあぎゃあと菜月と八雲が騒がしく言い合っている間に、恭一郎は袖を元に戻して淡々と会計事務の仕事を始める。……が、煩くて集中できなかったのか、彼は一度ずれた眼鏡を直して低い声で菜月の名前を呼んだ。
「なつ、教科書出してるってことは勉強中だったんだろ。さっさと大人しく勉強しろ。また酷い点数取るぞ」
「……はい。でもいっくん、出来れば教えて欲しいなって」
「ちゃんと結果に表れてくれるんなら俺だって喜んで教えてやるんだがな」
ぶつぶつと文句を言いながらも立ち上がった恭一郎は、菜月が腰掛けるソファの隣に座り「今度こそ平均は取れよ」と彼女の手が止まっていた問題を読み始めた。
「ありがとう」
「そう思うのならテスト頑張れ」
「うん!」
「相馬先輩、俺もここ分かんないんですけど教えて欲しいです」
「何で俺がお前に時間を割かないといけないんだ」
「……音羽に優しいからすっかり忘れてた。そういえば先輩はこんな人だった」
容赦なくばっさりと切り捨てられた空は、自分と菜月とのあまりの態度の違いに笑ってしまいそうになった。