0-7 先輩
「いやっ!」
ガラス片が二人に突き刺さるのを想像した菜月は首にガラスを突きつけられているのも忘れて悲鳴を上げる。薄暗い闇の中きらきらと光るそれらは瞬く間に二人に襲いかかりその身を切り裂こうと牙を剥く。
だがそれらが二人の体に届く寸前、突然勢いを失ったガラス片達はバラバラと音を立てて雅と空の足元へと落下してしまった。
「え」
「う、ぐ……あああああっ!」
耳元で突然大声を出されて菜月はびく、と大きく体が跳ねる。けれどそうして体が動いたのにも関わらず突き付けられていたはずのガラスは彼女に触れることなく、雅達に向かっていたガラス同様に地面へと落ちていた。
気が付けば拘束されていたはずの体も自由になっており、菜月は思わず後ろを振り返って悲鳴を上げた怪異の姿を見た。
「あ、あ……ぐ」
勝ち誇って菜月を盾にして笑っていたとは思えないくらいに、その怪異は両手で頭を抱えて苦しんでいるではないか。尋常ではない姿に怯えた彼女は、雅の「菜月早くこっちに!」という叫びにはっと我に返って逃げ出した。
空と雅の元まで辿りつくと途端にどっと安堵が湧き上がり、二人の足元へへたり込んでしまう。すぐ傍にガラスが大量に散らばっているが立ち上がる気力もなかった。
「だから足手纏いになると言ったんだ」
こつこつ、と菜月が膝を着く地面に靴音が響く。何が何だか分からないが助かったことに安心していた彼女の耳に入って来たのはどこか冷たさを含む……けれどとてもよく聞いたことがある声だった。
声に釣られて思わず顔を上げた菜月は、靴音と共に暗い夜道から徐々に姿を現したその男を見て声を上げることもせず思考を停止させた。
「相馬先輩……想像以上に早かったですね。一度は攻撃受ける覚悟はしていましたけど」
「……」
「恭一郎にかなり急かされたからなあ。あんなに焦ってんの初めて見たぞ」
空が姿を現した男――恭一郎に声を掛けるが、しかし彼の言葉に答えたのは恭一郎ではなく何故か怪異の背後から姿を現した八雲だった。
八雲はそのまま片手に構えたナイフを、身動きも取れなくなっていた怪異に向けて躊躇いなく突き刺す。すると真っ黒な怪異は断末魔を上げることもなくそのまま塵になり、さらさらと夜風に乗って消えて行ってしまった。
「さて、討伐完了だな」
「八雲さんはとどめ刺しただけですけどね」
「何言ってるんだ、ここまで来るのに俺がどれだけ頑張ったか」
「そうですね……助かりました。ありがとうございます」
八雲達が軽口を叩いている間にも、しかし菜月はずっと固まっていた。ただ彼女の目の前で立ち止まった恭一郎を口を開けて見上げるばかりだ。
「……えっと」
何を言えばいいか分からずに菜月が困惑していると恭一郎の眉間に皺が寄る。明らかに怒っている雰囲気を纏った彼はそのまま菜月を無理やり立ち上がらせると、腕を強く引いて早足で歩き始めた。
「え、ちょっと」
「先輩!? 菜月に何してるんですか!」
「八雲さん、全員事務所に戻すのは流石に大変でしょうから俺達はバスで帰ります」
「あ、ああ。いいけど……」
雅を無視して八雲に早口で言った恭一郎は、有無を言わさず菜月を連れてその場から離れていく。よたよたと力なく歩く菜月が時々歩く速さに着いて行けずにたたらを踏むと、一度彼女を振り返った恭一郎はようやく歩く速度を緩めた。
だが、依然気まずい空気は続いている。
何で恭一郎が来たのか、何故彼らと知り合いなのか。聞きたいことなど沢山あるのに張りつめた空気がそれをさせてくれない。
「……よりにもよって」
ちらちらと恭一郎を窺っていた菜月は、あと少しでバス停に着くという所で彼が疲れたように眼鏡を押し上げ、そして小さく呟いたのを聞き取った。
「いっくん?」
「よりにもよってなつみたいな平和ボケしたやつが異能者になるなんてな。この前家に行った時に匂いがした気がしたからもしかしたらとは考えたが……事務所で新しい異能者の名前を聞いた時に冗談じゃないと思った」
「冗談じゃないって……そんなの私が一番驚いてるよ。というかいっくんも、その、異能者だったの?」
「そうだな」
当たり前のように肯定されて菜月は複雑な心境だった。今までのほほんと暮らしていた彼女の知らない所で恭一郎は危険と隣り合わせの生活を送っていたのだ。知らなくて申し訳ないような、話して欲しかったような。
「……」
「言っておくが隠していたことを謝るつもりはないからな。そもそもこんな想定外が起こらなければ一生なつはそんなこと知らなくてよかったんだ」
「でも、いっくんが知らない所で怪我したり……死んじゃったりしてたら私絶対後悔してた」
「知った所でどうにも出来ないだろ? お前が勝手に不安になるだけだ」
「あ、でも私の異能、怪我も治せるみたいだから! もういっくんが異能者だって分かったんだから怪我したらちゃんと治すから教えてよ!」
「なつの治療か……悪化しそうで怖いな」
「酷い!」
茶化すように言われた言葉に菜月はむっとして顔を逸らす。けれど話しているうちに緊張もせずにいつものように自然に会話が出来ていたことに気付いて少しだけ嬉しくなった。
次のバスは十分後だ。二人でバス停に設置されているベンチに腰掛けて待っていると、ふと菜月の脳裏に先ほどの黒い怪異の姿が過ぎった。
「ねえいっくん」
「何だ?」
「いっくんの異能って、何?」
「……さっき見ただろう」
あの黒い怪異は何の予兆も無く突如頭を押さえて苦しみ出した。八雲の異能は瞬間移動だと言っていたのであれは間違いなく恭一郎がやったのだろうと判断した菜月だったが、しかしどんな能力なのかはいまいち掴めていなかった。
「見たけどよく分からなかった。……頭痛がするようになる異能とか?」
「なつの答えに俺の頭が痛くなって来た。むしろそれ、お前の異能なんじゃないか?」
「だから私の異能は違うってば!」
「本気で言ってない。……で、お前のは怪我を治す異能でいいのか?」
「うーん、ちょっと違うんだけどね」
菜月は病院で五樹に説明されたことをそのまま恭一郎に伝える。鉛筆や林檎など異能を試したものまで事細かに話し、酷く疲れたと口にすると彼は呆れたようにため息を吐いた。
「まったく……そのくらいで疲れてるようじゃ到底怪異の前には立てないな。それこそ本当に病院で働いた方がいいんじゃないか」
「でも雅達どころかいっくんまで怪異と戦ってるなんて聞いたらじっとしていられないよ。私も少しは役に立てるように頑張るから!」
「……はあ。いいか、なつ。絶対に怪異の前に出るなよ? 戦うやつの邪魔になるからな。あと高遠や日下部が戦闘中に怪我しても近づくな。どうせ戦いの巻き添えくらうだけだから」
「でも」
「聞け」
その後も菜月はバスが来るまでずっと「あれは駄目」「これは駄目」とひたすら恭一郎に言いつけられていた。最終的に頷くだけの人形と化していた彼女だったが、心の中では「きっと誰かが酷い怪我をしたら、今まで言われたことなんて全部吹っ飛んでるんだろうな」とぼんやりと考えていた。
バスが到着すると流石に言葉を止めた恭一郎は菜月を促して先にバスに乗せる。菜月が運賃を払おうと財布を取り出した背後で再び恭一郎のため息が聞こえ、そしてまたもや彼女は小さな声で「よりにもよって」と呟かれるのを耳にしたのだった。




