0-6 足手纏い
「起きたようだね」
目を覚ました菜月がベッドから起き上がると、側の机で何かの資料を見ていたらしい五樹が顔を上げてにこりと微笑んだ。状況が呑み込めなかった菜月はきょろきょろと辺りを見回して困惑していたが、それに気付いた五樹が「覚えていないかな」と首を傾ける。
「最後にMRIで脳の写真を撮っていた時にそのまま眠ってしまったんだ。僕が沢山異能を使わせてしまったから疲れていたんだね。すまない」
「そういえばそうでしたね……」
横になって目を閉じていたら急激に意識が落ちていくのを感じ、彼女は数秒と体感する間もなく眠りに落ちていたのだ。
「一応その前に異能の説明はしたけど覚えているかい?」
「……はい」
あんな衝撃的なことを言われて忘れる訳がない、と菜月はようやく動き始めた頭で五樹に言われた言葉を思い出していた。
『時間を巻き戻す』と、彼はそう口にした。
つまり治癒の異能だと思われていたのは、怪我をする前の状態まで体を戻していたということ。逆再生のように血液が体に戻るのを見れば確かにそう言わざるを得ない。だから生物だけではなく鉛筆も元通りくっつき、一度接着剤を付けた箇所は離れ、林檎は青くなった。恐らく接着剤が付いた鉛筆もあのまま手を止めなければ再びくっついたのであろう。接着剤を跡形もなく消して。
この異能に本人である菜月は勿論驚いたが、同じように五樹も非常に珍しいものだと感心していた。
「医者としては羨ましい限りだ。八雲の所じゃなくてうちでバイトして欲しいくらいだね」
などと冗談交じりに言われる程に。
「今日はもう帰っていいんだけど、音羽さんは異能や怪異について何か聞きたいことはあるかな」
「じゃあ一ついいですか」
どうしても聞きたいことがあった、と五樹の言葉に間髪入れずにそう言った菜月。異能者になってから、いやより正確に言うのなら空の異能を見た瞬間からずっと疑問に思っていたことだ。
「どうして突然こんな力が使えるようになったんですか」
菜月だけではない、空も雅もどうしてこんな人間にあるまじき力を使えるようになってしまったのか。けれどその疑問を口にした彼女に対して五樹は少し困ったような表情を浮かべた。
「いや……確かにそれは聞きたいと思うんだけどね」
「……分からないんですか?」
「実は異能が使えるようになった状況は人それぞれ違っていて未だに正確に解明されていないのが現状なんだ。本当になんてことない時に突然異能が目覚めることもあれば、命の危機に陥って限界状態で使えるようになった人もいる。そもそも生まれつき異能を保持している人もいれば、家系で異能持ちっていう特殊ケースだってあるんだ。うちが正にそれでね」
「八雲さんだけでなく、五樹先生や家族皆がってことですか?」
「九十九家の人間はほぼ確実に成人する前にそれぞれ異能を持つんだ。……まあ実は例外もあってね。僕はこんな風に異能や怪異の研究もしているけど、別に異能がある訳じゃないんだ」
「え?」
ならば何故この仕事をしているんだろうかと考えた菜月の表情を読み取ったらしい五樹は「よく驚かれるんだ」とやや自嘲気味に微笑んだ。
「家族のこともあって異能や怪異については身近だったからね。日々戦っている皆を見て、異能が無くても少しでも家族や他の異能者の助けになればと思ったんだ」
「……すごい、ですね」
「そんなことは無いさ。音羽さん、だからもし他の異能者には言い難いこと……この仕事の人間関係や愚痴、何か困ったことがあったら気軽に相談してくれていいよ。一応異能者達のカウンセラーも受け持っててね、勿論守秘義務は守るから心配しなくていい」
医者に異能や怪異の研究、更にカウンセラーまでやっているらしい五樹を、菜月は驚きと尊敬の目で見上げた。確かに異能の存在を知りながら異能者ではない彼はカウンセラーとしては打ってつけかもしれない。何よりその穏やかそうな人柄が周囲の人間を安心させるのだろう、彼に対する八雲の態度も納得が行くと彼女を頷いた。
「ありがとうございました」
「事務所に連絡は入れておいたからもう受付に迎えが来ているだろう。1人じゃないから大丈夫だと思うけど、このくらいの時間帯……夕方から夜に掛けて怪異は活動し始めるから気を付けて」
「はい」
にこりと笑った五樹に見送られてエレベーターに乗った菜月は、その扉が閉まると同時大きくため息を吐いた。身体的にも精神的に疲れている。昨日に引き続いて頭の中が膨大な情報で埋め尽くされて処理しきれていないのだ。
「異能……私が」
あれだけ異能を使ったというのに、どこか未だに夢でも見ているかのような気分だった。
一階までエレベーターが到着して菜月が一歩外へ足を踏み出した瞬間、「あ!」と聞き慣れた少女の声が彼女の耳に入って来る。
「菜月、待ってたよー」
「雅、と高遠君?」
てっきり行きと同じように八雲が迎えに来ると思っていた彼女は受付の長椅子に並んで座っている二人を見て少し驚いた。ひらひらと手を振っている雅に促されるように、菜月は早足で彼らに近付く。
「よ、音羽」
「二人が迎えに来てくれたの?」
「そうそう、本当は八雲さんが来る予定だったんだけどさー、表の仕事が溜まりまくってたらしくて先輩に捕まったのよ」
「表の仕事?」
「怪異調査事務所なんて大っぴらに世間に言えないだろ? だからあそこは別の仕事もしてるんだが……あれ、看板見なかったか?」
「あの時はもう色々といっぱいいっぱいだったから」
おまけに暗かったので菜月の記憶には残っていない。
菜月が二人に連れられて外に出ると、窓が無かったので今まで外の様子が分からなかったがかなり暗くなっていた。バス停までは歩くらしくあまり広くは無い夜道を三人で歩みを進める。
「でも八雲さんって……あの、瞬間移動出来るんだよね? だったら仕事があってもすぐに戻って来れるんじゃないの?」
二人が来てくれたのが嫌な訳ではないけど、と菜月がふと思った疑問を口にすると、雅も空も無言で即座に首を振った。
「あの人を野放しにしたら一体いつ帰って来るか分からないからな」
「仕事したくない一心で菜月を連れ回すんじゃない? まあこの件に関しては先輩が正しいと思うけど……あー、あの人のこと思い出したら腹が立ってきた!」
急に不機嫌になって苛々し始めた雅に、恐らく先輩というのはよく彼女が愚痴を溢すあの先輩なのだろうと考える。大きくポニーテールを揺らして歩く彼女が短気なのはいつものことで、また始まったとばかりに空が宥め始めた。
「雅、少し落ち着けよ」
「空だってさっきの言葉聞いてたでしょ! 会ったこともない菜月ことあんな風に言うなんて!」
「私?」
「新しい異能者が入るって言ったら、あいつ『どうせ役に立たないだろうから必要ない』とか『治療係は足手纏いになるから引っ込んでいればいい』とか! 何なの!?」
「まあ確かに音羽は直接怪異に攻撃することはないだろうが、それでもあの言い草はなあ……」
「……あっ! そういえば私の異能なんだけどね、ちょっと治癒とは違うんだって!」
雅を宥めていた空までも彼女に同調するように話し始め、菜月は慌てて話題を変えた。
確かに会ったことも無い人に役立たずや足手纏いだと言われるとカチンとくるものの、今まで怪異と戦ってきた人達からすれば菜月は紛れもなく戦闘では役に立たないだろうと分かる。
雅が言うその先輩に会うのが少し憂鬱になりながら、今度は菜月が二人を落ち着かせるように先ほど五樹に聞いた自分の能力について話そうと口を開き――。
次の瞬間、ぶわっと突如強い熱気が彼女を襲った。
「え?」
状況を把握出来ていなかったのは菜月だけだった。
空が異能で生み出した炎が一瞬にして前方に壁を作り、そして雅も辺りを警戒するように姿勢を低くして構えている。
「二人とも、何を」
「怪異だ。音羽、気を付けろ」
「何か飛ばして来たわね……一体どこから――っ!」
鋭く周囲に気を配っていた雅が跳躍する。すると間髪入れずに彼女が立っていた場所にきらきらと僅かに光を反射させた何かが幾重にも突き刺さり、菜月は腰を抜かしそうになった。
一方空も同じように光る何かが襲い掛かってくるのを視界に入れ、即座に炎で反撃する。向かってきたそれらはあっという間に火に包まれて跡形もなく消えていく。
街灯もない暗い夜道が炎の光で照らされると、思考が追いつかぬまま二人の様子を見ていた菜月の目の前を何か黒いものが遮った。
ちょうど空も雅も自身に襲い掛かってくるものに集中しており、菜月に意識を向けていなかったほんの僅かな隙を縫うようにその黒いものは菜月を捕まえ、人質にするようにしっかりと彼女を拘束した。
「菜月!」
「しまった!」
雅と空が気付いた頃には彼女はその黒いもの――怪異に捕らわれ、そして首にきらきらと光る鋭いガラスの破片を向けられていたのだ。
「ちょ、何を――」
「動くな」
菜月が見上げた先にいたのは黒い人影だ。確かに人型なのだが、この暗闇よりも遥かに濃い、全身全てが真っ黒に塗りつぶされた怪異だった。まさしく人影、である。
怪異は千差万別とは八雲が言っていたことだが、しかしこうして流暢に言葉を話す怪異がいるとは思わず、菜月は混乱しながらも動きをぴたりと止めた。
「菜月を放しなさい!」
「……燃やしてやる」
「動くなと言った。それに俺を攻撃すれば、先にこいつが死ぬだろうなあ!」
ちりちりと火花と殺気を飛ばした空に、怪異は笑いながら菜月を盾にする。今にも飛び出しそうだった雅はそれを見て歯噛みしながらも足を止め、そして怪異に気付かれないように右手をポケットにそっと差し入れた。
ちらりと雅の行動を見た空も異能を止め、炎で照らされていた辺りは再び暗闇に支配される。どうしたらいいのか分からず二人を見ることしか出来ない菜月は、早速足手纏いになってしまったことに申し訳なく思うのと同時に首に突き付けられた凶器に怯えていた。
「動くなよ……そうだ、いい的になってくれ」
怪異は菜月を拘束する腕を動かすことなく大量のガラス片を宙に浮かせる。先ほどからガラスを飛ばしていたのも怪異のこの能力なのかと考える間もなく、菜月はその鋭く尖った先の全てが二人に向けられているのに気が付いた。
「二人とも、逃げて!」
「そういう訳にもいかない」
「じゃあ私ごと攻撃してよ! 私だったらすぐ治るからっ! だから……」
あれだけのガラスをその身に受けて無事では済まないなんてこと、一目で理解できる。自棄になって叫ぶ菜月に無言で首を振った空、「これくらい慣れているわ」と不敵に笑った雅。
菜月の声を誰も受け入れることなく、無常にも大量のガラスは二人に向かって一気に襲い掛かった。