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怪異調査事務所へようこそ  作者: とど
四章 相馬恭一郎の願い
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4-7 願い

 相馬恭一郎は、優しい両親の元に生まれた普通の男の子だった。恭一郎が構って欲しい時には決まって母親は彼の気持ちを悟って絵本を読んでくれたり、仕事で疲れているであろう父親も休みの日には遊園地や動物園へ連れて行ってくれたりと沢山の愛情を注がれて育った。



「おかあさん、なつまだ来てないの?」

「まだよ。もう少し待ってね」

「えー」



 幼稚園や保育園には通っていない恭一郎には時々公園で遊ぶ子以外の友達がいない。だからこそ時々相馬家を訪れる母親の友人の子供である菜月のことを、彼はいたく気に入っていた。


 音羽菜月はもうすぐ一歳になる女の子の赤ん坊だ。兄弟も居ない恭一郎は自分に懐いて来るその子を妹が出来たように可愛がっており、今日遊びに来ると聞いて朝からずっと待ち続けていたのである。



 うろうろと家の中を歩き回っていた恭一郎は、菜月が来たら何をして遊ぼうかと考えて積み木や絵本を引っ張り出す。この前来た時は何をしたっけと思い返してひたすら待ち続けていること一時間、ようやく待ちに待ったインターホンの音に恭一郎は玄関に向かって走り出した。



「なつ!」

「恭一郎君、いつもお迎えありがとね」

「あう」



 待ちきれずに母親が来る前に扉を開けると、そこには母親の友人である女性と彼女に抱えられた菜月がいた。菜月は恭一郎に名前を呼ばれると返事をするようににこにこと笑いながら声を上げる。


 リビングに通された菜月の母親は、菜月と遊びたがる恭一郎に娘を預けて母親同士で話を始めた。しかし時折子供達に向ける目は優しく、楽しそうに遊ぶ二人を微笑ましげに見つめている。



「なつ。これは犬で、こっちはお馬さんだよ」

「たあ」

「こっちの方がすきなの? これはキリンだよ」


「ホントに、いつも恭一郎君には助かってるわ。菜月も嬉しそうで」

「それはこっちの台詞よ。朝から『なつはまだ?』って何回も何回も聞いてたんだから」



 絵本を広げて描かれた動物を教える恭一郎に菜月は楽しそうに返事をする。一か月に数度しか会わないものの菜月は恭一郎のことをしっかりと覚えており、相馬家に来るたびに非常に機嫌がよくなるのだ。



「菜月は本当に恭一郎君のことが好きね」

「なつ、ぼくのこと好き?」

「う!」



 質問の意味など分かっていないだろうが、恭一郎に話し掛けられた菜月は元気よくそう声を上げた。




「実はね、夫とも話してたんだけど……そっちの家の近くに引っ越そうかと思ってるの」

「え、うちの近くに?」

「私ももうすぐ仕事に復帰しなくちゃいけないんだけど、この辺りだと保育園も見つからなくてね。そっちでも探してみようと思って……それに、恭一郎も菜月ちゃんと沢山遊びたいって言ってるから」

「……あんた、本当に変わったわね」



 恭一郎が生まれるまで仕事一筋だった人間だと思えないくらい、恭一郎の母親は彼に愛情を持って接している。引っ越しの件だって、恭一郎の気持ちを考慮したのが大部分なのだろうと彼女の表情を見ながら菜月の母親は驚いてそう呟いた。



「私は勿論大歓迎よ。仕事が遅くなるようだったらうちで面倒見てもいいし」

「本当? 助かるわ」



 友人の言葉にほっとしたように微笑んだ彼女は、恭一郎達の傍まで向かうと息子の名前を呼んで頭を撫でた。



「恭一郎、菜月ちゃんと毎日遊べるかもしれないわよ」

「本当!?」

「ええ」

「なつ、いっぱい遊ぼうね!」



 母親の言葉に目を輝かせた恭一郎は飛び上がるように喜んで、母親がするように菜月の頭を撫でてみせる。相変わらず話は理解していないものの、頭を撫でられた菜月は彼の言葉に応えるようににっこりと笑った。




 新しい家は音羽家のすぐ近くに建てられ、恭一郎一人でもすぐに遊びに行ける距離だ。運よく保育園も見つかった恭一郎は昼は保育園に、そして夜は音羽家に預けられるということになり、母親も長く休んでいた仕事に復帰することになった。


 恭一郎は幸せだった。いや、自分が幸せなんて考えたこともなかっただろう。何せ彼はまだ五歳になったばかりだったのだから。優しい両親と可愛い妹、彼らに囲まれて生きてきた恭一郎は、やがてその喜びを至極当たり前のものと認識するようになっていた。


 幸せとは慣れるものだ。その時間が続けば続くほど、それが日常になって特別なものではなくなる。そしてそれが壊れた時に、ようやく幸せだったと悟ることになる。

 そして恭一郎の“幸せ”が壊れたのは、引っ越してすぐ。本当に些細なことだった。




「いやだ!」

「ごめんね恭一郎。でもお母さん行かなくちゃ」

「いや!」



 母親が仕事に復帰するその日、恭一郎は玄関でずっとそう言って駄々を捏ねて母親を困らせていた。保育園は四月からなので、それまでは音羽家で預かってもらうことになっていたのだが、初めて母親が自分から離れるということで恭一郎は今までにないくらい我が儘を言って嫌がった。



「我が儘言わないの。なるべく早く帰ってくるから」

「やだもん! おかあさんなんて大嫌い!」

「恭一郎!」



 泣きながらそう声を上げた恭一郎はそのまま部屋の中へ駆け込んで隅で丸くなった。自分よりも仕事を優先する母親なんて嫌いだ。出張から帰ってこない父親なんて嫌いだと自分の殻に籠った恭一郎は、玄関で立ち尽くした母親の視線が冷めていく瞬間に気付くことはなかった。



 それから、母親は殆ど家に帰って来なくなった。父親も一度出張から帰って来たものの、恭一郎を見る目は以前の温かみを無くし、そしてすぐに別の仕事に出て行くようになったのだ。


 勿論菜月の母親は怒ったものの、仕事で殆ど家を空けている彼らに文句を言う暇も無い。取り残された恭一郎は保育園に通うようになったが、突然の両親の変貌に放心して碌に友達を作ろうとも思わなかった。


 話し掛けられたくない。そう思ったのが周囲に気付かれていたのか恭一郎に話し掛ける子はいなかった。いや、園児だけではない。保育士すらも彼に近付くのは最低限であり、しかしそれを咎める人間も何故か居なかったのだ。



「……」



 そして音羽家にいながらも、とうとう菜月の母親すらも恭一郎に話し掛けることがなくなった。

 彼がそれを望んだのだから当然だ。元々聡い少年だった恭一郎はこの頃から、何となくだが自分が望んだことがそのまま周囲の人間に影響を及ぼしているのではないかと――そこまではっきりと考えていた訳ではないが――少しずつ気付き始めていた。


 五歳の子供に誰も近付こうとしない。そんな異常事態にも関わらず周囲の人間は何事もなく生活している。

 ――ただ一人を、除いては。




「たー」



 明かりも付けずに部屋の隅で膝を抱えていた恭一郎。頑なに誰にも近付いてほしくないと願ったのは、両親のように突然嫌われるのが恐ろしくて堪らなかったからだ。また見放されるくらいなら、初めから近付いて欲しくなかったから。


 しかしそんな彼の背中に、不意に温かな重みが掛かった。



「……なつ」



 顔を上げた恭一郎が背後を振り返ると、そこには不思議そうな顔をした菜月がいた。恭一郎の背中を叩いて、まるで遊んでほしそうにする彼女を見て恭一郎は訳が分からなくて動揺する。


 なんで、どうして、と何度も口にする彼を気にした様子もなく、菜月は彼が自分の方を向いたのが嬉しいのか「だあ」と声を上げて笑い掛けて来る。

 誰も自分には近づかないのに。近付いてほしくないのにどうして菜月はここにいるのか。


 どうして、菜月だけは。



「……なつ」

「う?」

「ぼくのこと、好き?」



 以前に問いかけた言葉を再び口に出してみれば、菜月はよく分からないように首を傾げ、しかし恭一郎にしがみ付いて来て相変わらずにこにこと微笑んだ。

 それが、言葉などまだ知らない彼女の最大の愛情表現だった。言葉などよりもずっと真っ直ぐに恭一郎の心に届いたのだ。


 その温かさに耐え切れなくなった恭一郎は前よりも少し大きくなった彼女を抱え、縋りつく様にそのぬくもりに顔を埋める。こんな小さな子に救いを求める自分を心のどこかで嘲笑いながらも、恭一郎はその手を離すことが出来なかった。



「なつだけは……ぼくを嫌いにならないで、ずっと一緒にいて。お願い……なつ、だけは」



 ずっと好きでいて。


 母親なんて嫌いだと、誰にも近付いて欲しくないと思った時とは比べものにならないくらい、強く強く恭一郎はそう願った。















「……なつ」



 ゆっくりと、目を開けた先は薄闇の中だった。

 ぼんやりとした頭のまま上半身を起こした恭一郎は周囲を見渡そうとして、しかし視界が酷くぼやけて碌に何かを見るなど困難だった。眼鏡を掛けていないと気付いた彼が目元に手をやるとやはりいつも掛けている眼鏡はなく、その代わりに既に冷たくなっている液体が頬を濡らしていた。泣いていたのだろう。


 腕で顔を拭った彼が枕元にあった明かりの周囲を手探りで探すとすぐに眼鏡は見つかった。それを掛けてようやく周囲が明瞭に映るようになった彼は、自分が寝かされていた場所を理解して今までのことを思い出す。



「終わった、のか」



 自分の頭に巻かれた包帯に触れた恭一郎はぽつりと呟いた。以前の定期健診の時に、五樹に『異能を切除する手術』についての話をされた。しかし理論上は成功すると言っても絶対ではない。そもそも成功例すらない……というよりもその手術を受けてくれる異能者がまだいなかった。


 だからこそ恭一郎は危険を伴うと承知でその手術を受けると五樹に言った。それが、昨日の夜のことだ。


 失敗したら死ぬかもしれないと、そう言った五樹の言葉にも恭一郎が頷いたのは、もう限界だったからだ。

 ずっと前から、菜月に対して恭一郎は罪悪感を抱いていた。偽りの気持ちを抱かせ続け、その癖彼女から離れることが出来ない自分に酷く嫌悪感を持っていたのだ。



 あの時……両親から見放されて菜月だけが恭一郎の傍にいることが出来たのは単純な理由だ。八雲に拾われた彼が徐々に自分の異能について理解していく過程の中で、その答えは不意に転がり落ちてきた。


 恭一郎の異能は、ある程度の自我や理性を持たない相手には通用しない。心を操るのだから、当人の心が成熟していないとその力は上手く働かないのだ。例えば本能で動く怪異、ペットなどの動物、そして……まだしっかりとした自我を持たない赤ん坊。

 菜月に異能が効かなかったのはただそれだけのこと。しかしそれを知った時には、もう既に恭一郎は菜月に依存していて、頭で理解しても彼女を解放することなど出来なかった。



 恭一郎の両親は、あれからずっと変わらない。いや、単純に元に戻っただけだ。あの時恭一郎は母親に嫌いだという感情を抱かせたのではない。両親はそれまでずっと恭一郎の異能に掛かり続けていただけなのだ。愛して欲しいという恭一郎の願いに、ずっと洗脳されていただけ。

 だからこそいくら異能を解除しても両親は恭一郎の元へと戻って来なかった。そして七海に異能の押さえ方を学んだ恭一郎もまた、再び彼らに愛して欲しいと異能を使うことはしなかった。

 そして昨日、彼に何の情も抱かなかった母親があっさりと離婚したと告げて来たのだ。


 結局自分は両親にすら、欠片も愛されていなかったのだと改めて思い知らされた。見放されたあの時のことがフラッシュバックして、どうしても菜月の気持ちを信じることが出来なかった。


 何度も恭一郎のことを好きだと言った菜月。しかしその度に、『好きでいてくれ』とあの時強く強く願った自分の言葉が頭を過ぎる。あの時だけではない、恭一郎は今でもずっとそれを願っている。



「知ってるさ、そんなの……俺が、願ったんだ」



 そう口にしてしまえば、菜月は恭一郎から離れていくだろうか。


 菜月を家族として見ていた以前ならば、まだ手遅れにはならなかったかもしれない。しかし次第に恭一郎の想いは変化し、手の施しようがないところまで来ていた。


 菜月が、好きだ。何度も何度も彼女の気持ちにそう応えたかった。だが、それと同時に菜月の本当の気持ちを知ることを恐れ、その心を疑った。本当のことを言う訳でもなく、全て偽りを貫き通して彼女の気持ちを受け入れることもせず、中途半端なまま菜月を縛り付けていた。

 菜月に嫌われたくない。彼女だけは、どうしても手放したくない。だからこそ恭一郎は菜月への気持ちを自覚したその時、己の異能を使って願ってしまった。無意識などではない、自分の意志で彼女を洗脳してしまったのだ。


 しかし、それももう終わりだ。こうして生きて、誰も居ない部屋でベッドに寝かされていたということは恐らく手術は成功したのだろう。もう恭一郎は、異能者ではないということだ。

 ただの人間になった。ならば恭一郎が掛けた異能は全て解除されているだろう。五年間ずっと異能に掛かり続けていた両親があっさりと元に戻ったのだ、洗脳されていた感情に引き摺られることはないだろう。

 つまり、菜月も。



「俺のことなんて、もう何とも思ってないんだろうな」



 自嘲気味に笑みを浮かべる。期待なんてしない方がいい。あれだけ愛してくれた両親の変貌を忘れたのかと、恭一郎は自分に言い聞かせながらベッドから立ち上がる。



 しかし恭一郎が立ち上がった瞬間、唐突に彼の頭上に大きな影が現れ、そして恭一郎目掛けて勢いよくそれは降って来たのだった。



「うわっ!」

「何で床じゃないんですか八雲さんの馬鹿!」

「どのくらいの深さにあるか分からなかったんだからしょうがないだろ!」



 酷く重たく騒がしい何かに潰された恭一郎は、何やらとても聞き覚えのある喧噪に一気に緊張感を奪われてしまった。




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